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かつて「聖女」が二人いた国は、今や見る影もない。大気は常に薄暗い瘴気に覆われ、太陽の光は弱々しく地上を照らすのみ。人々の心からは余裕が消え、日々、どこからともなく湧き出す魔物の影に怯えていた。
各国の首脳陣が集まった合同会議の場。もはや国境などという言葉に意味はなく、ただ「人類が生き残れるか」という瀬戸際の議論が続いていた。
「もはや、我々の力では限界だ。……古の儀式により、異界から『勇者』を招くしかない」
誰もがその決定にうなずく中、列席者の中に、凛とした立ち姿の女性がいた。
豊かな銀髪をなびかせ、その瞳には決して消えない深い悲しみと、鋼のような決意を宿した魔道士。
――かつて、泣きながら光を放っていた少女、リリィである。
彼女は今や、歴代最強の聖女として、国の精神的支柱となっていた。
召喚された勇者に与えられた使命は唯一つ。
「最果ての地」に君臨し、世界に瘴気を撒き散らしている元凶――『魔王』の討伐。
「リリィ様、どうしました? 震えているのですか?」
召喚されし勇者、直哉が尋ねる。リリィは、自身の震える掌をそっと握りしめた。
彼女の記憶にあるのは、スコーンのお返しにとお菓子をくれた優しく、そして自分がその光で引き裂いてしまった、孤独な聖女の姿。
「……いいえ。ただ、ようやく『あの日』の続きができるのだと、そう思っているだけです」
道中仲間を見つけた勇者一行は四人になっていた。一行が辿り着いたのは、かつてクロエが逃げ延びた凍てつく荒野だった。そこには、氷と影で形成された巨大な城がそびえ立っていた。
先陣を切る直哉が、重い口を開く。
「……リリィ様。俺は、魔王がかつて聖女と呼ばれていたなんて、今でも信じられません。……いや、信じたくない」
直哉は聖剣を強く握りしめる。
「俺たちが通ってきた村や町で、人々はみんなこう言っていました。『魔王は、太陽を嫌う闇の怪物だ』『自分たちが苦しいのは、夜な夜な呪いを振り撒いたからだ』『魔王が人間のふりをしていたんだ』って。……彼女がかつてこの国を守っていたなんて記録、どこにも残っちゃいない。民にとって、彼女は最初から最後まで、世界を穢す悪魔なんです」
それは、死よりも残酷な名誉の剥奪だった。
十数年という時間は、王太子たちの失態を隠蔽し、すべての責任を「消えた闇の聖女」に押し付けるには十分すぎたのだ。
城内に踏み込むと、意思を持った「闇の蔦」が一行を襲う。
「――させるかよ! ここは俺が食い止める!」
重盾士の重装男・ガストンが、巨大な盾を地面に叩きつけた。
「鉄壁の守護!!」
物理的な攻撃だけでなく、精神を蝕む瘴気の波を、彼はその屈強な肉体と盾で受け止める。彼はリリィから「彼女がどれほどの痛みを耐えてきたか」を聞かされ、無言で盾を磨き続けてきた男だ。
「ガストン、右に寄って! 焼き払うわよ!」
魔道士の少女・セーラが、杖を高く掲げる。
「紅蓮の審判!!」
彼女が放つのは、太陽にも等しい純粋な炎。闇を焼き、リリィが歩くための道を作る。セーラは宮廷魔道士の孫であり、祖父から「かつて、一晩で空気が腐ったあの日」の恐怖を、お伽話のように聞かされて育った。
玉座に座っていたのは、もはや人の形を辛うじて保っているだけの、闇そのものと化した存在。全身は漆黒の紋様に覆われ、その背中からはおぞましい影の翼が広がっている。彼女が呼吸をするたびに、世界に絶望が吐き出される。
「リリィ様、俺にはわかります」
勇者直哉が、悲しげに魔王を見据える。
「この魔王は……戦ってすらいない。ただ、溢れ出す瘴気を止められずに、溺れているだけだ。……」
「……来た……の……ね……」
ひび割れた声が響く。それは、何十年もの間、誰とも会話をせずに溜め込んできた「呪い」の響き。
リリィは一歩踏み出した。
「クロエ様。……いいえ、今の貴女には、その名はもう聞こえないのかもしれません」
リリィの懐には、ルミナから託された「ある物」があった。
それは、ルミナが死ぬ間際まで肌身離さず持ち続け、リリィに託した、色褪せた二人の聖女の髪飾り。
「貴女を殺しに来たのではありません。……貴女を、あの日の地獄から連れ出しに来たのです」
クロエだった虚無の瞳が、僅かに揺れた。しかし、暴走する闇の意志は、彼女自身の心とは裏腹に、侵入者を排除しようと巨大な魔力を収束させ始める。
魔王と化したクロエから放たれる闇は、もはやこの世の物質では防げないほどに濃密だった。勇者の聖剣ですら影に侵食され、漆黒の霧が一行の命を削り取っていく。
勇者が剣を構えたのは、倒すためではない。
リリィが彼女の懐に飛び込むための、一瞬の「隙」を作るため。
「ガストン、耐えろ! セーラ、出力を最大に! リリィ様を……あの人の元へ!!」
「クロエ様!」
リリィは叫んだ。彼女の魔力は、かつて王太子に命じられるままに放った「拒絶の光」ではない。数十年、クロエの苦痛を想い、闇を理解しようと研鑽を積んできた、「包み込むための光」だった。
リリィは、吹き荒れる闇の嵐の中を、一歩ずつ進む。
皮膚が焼け、血が流れても止まらない。かつてルミナがそうしたように、彼女は魔王の懐へと飛び込んだ。
「……ごめんなさい、クロエ様。……やっと、お返しします」
リリィは、ルミナの形見である髪飾りを、魔王の漆黒の胸元へ突き立てた。そこにはルミナが自身の寿命を代償として死の直前まで込めていた、祈りにも似た膨大な聖魔力が封じられていた。
「——っ!?」
黒い巨体が震え、深淵の瞳に光が戻る。
暴走していた闇の魔力が、ルミナの温かな光に中和され、霧散していく。
崩れ落ちる魔王。その巨大な影の翼が消え、後に残ったのは、数十年経っても変わらない、あの日のままの儚い少女の姿だった。
クロエは、自分を抱きしめるリリィの腕の中で、ゆっくりと目を開けた。
「……リリィ……? 大きく、なったわね……」
「はい……はい、クロエ様……っ!」
「ルミナは……? ああ、そう……もう、あっちにいるのね……」
クロエの体は、限界を超えて魔力を使った代償として、指先から砂のように崩れ始めていた。それは、この世のあらゆる苦痛から解放される、消滅の合図だった。
「ごめん…なさ…。ずっと、一人にして、ごめんなさい……」
リリィの涙がクロエの頬に落ちる。クロエは、ひび割れた手でリリィの涙をそっと拭った。
「泣かないで……。私、やっと……眠れるの。……誰の毒も飲まなくていい……真っ白な夢を、見られる気がするわ……」
彼女の胴体を覆っていた漆黒の紋様が、光に溶けて消えていく。最後に残ったのは、闇魔法使いの聖女としての力ではなく、ただの少女としての、穏やかな微笑みだった。
「……ありがとう、リリィ。……おやすみなさい」
さらさらと、一陣の風が吹いた。
リリィの腕の中から重みが消え、そこには、ルミナの形見の髪飾りだけが二つ、雪の上に残された。
その日、世界から瘴気が晴れた。
空はかつてないほどの青空が広がり、太陽の光が最果ての地を温かく照らした。
勇者は、傍らで泣き崩れるリリィの背中を、ただ黙って見守っていた。
歴史書には「勇者が魔王を討伐した」と記されるだろう。
けれど、本当の真実を知る者は、今や世界に一人しかいない。
二人の聖女が、互いを想い、守り抜き、そしてようやく二人で夜明けを迎えたことを。




