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聖女の夜明け  作者: はる


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6

 大司教が来るはずの今日、世界はすでに手遅れになり始めていた

 朝日が昇った。しかし、空はどこか薄っぺらく、埃っぽい。

民衆は昨日の騒動を噂し合っていたが、王宮の騎士や魔道士たちは、それどころではない「違和感」に直面していた。


「……おかしいな。今朝は腕が重い」


 若手の騎士が、模擬戦の最中に首を傾げる。いつもなら容易に振り抜けるはずの木剣が、まるで泥の中を通しているかのように粘つく。

それだけではない。森の調査から戻った偵察部隊が、困惑した顔で報告を上げていた。


「報告します。近郊の森に出現したゴブリン数体ですが……妙に『硬い』のです。致命傷を与えても、どす黒い霧を吹き出しながら何度も立ち上がってきます。今日はどうも、皆の調子が悪いようで……」


 一方、知識を持つ者たちの衝撃はさらに深刻だった。老練な宮廷魔道士は、掌の上に生成した火球を見つめ、眉根を寄せた。


「……魔力の巡りが悪い。大気中の魔力が、腐った油のように淀んでいる」


 呪文を唱えれば、いつも通り魔法は発動する。しかし、その輝きは鈍く、芯に「黒い澱み」が混じっている。彼には分かっていた。これは自分たちの体調の問題ではない。世界そのものが、毒され始めているのだ。今まで、夜の間に誰かがこの澱みをすべて浚っていた。

 掃いても掃いても溜まる埃を、夜通し掃除し続けていた者がいた。その「掃除屋」が倒れただけで、わずか一晩で、世界はここまで汚れてしまうのか。


 街中では太陽が沈むと同時に、国はかつてない恐怖に包まれた。瘴気が集まり魔物を生み出し始めた。逃げる先でも新たに生まれる魔物。助けに来た騎士たちの剣は、大気に満ちた瘴気のせいで錆びたように脆くなり、いつもなら一撃で倒せるはずの魔物に苦戦を強いられていた。


「聖女……聖女様は何をしている! 早くこの呪いを払ってくれ!」


 民衆の悲鳴が王宮にまで届く中、エドワードは極限の焦燥に駆られていた。


 クロエの自室にはエドワードと教育係の司教、そしてリリィがいた。エドワードより聖女候補の中で一番筋がいい者を連れてこいと命令した結果がリリィだったのだ。


 カーテンは開けられ、ベッドの中で倒れているクロエにこれはどういうことなのだとリリィは固まってしまった。このままではクロエが⋯と思っているが身体が追いつかていない。


 エドワードは、恐怖に震えながら事態を見守っていた幼いリリィを、無理やりクロエの前に引きずり出した。


「いいかい、リリィ。よく見るんだ。この女の中に溜まった不浄な闇が、ルミナを、そしてこの国を蝕んでいる。君の清らかな光で、この『汚れ』をすべて焼き払うんだ。そうすれば……そうすれば、私の正しさが証明される。この国は、私の手で救われるんだ!」


 エドワードの瞳は、もはや救済ではなく、自身のプライドを守るための「排除」に燃えていた。


「リリィ、怖がることはない。これは国を救うための聖務だ」


 震える小さな肩を抱き、圧力をかける。

 リリィは、瞳を潤ませ、横たわるクロエを見つめていた。リリィは時折、夜中にこっそり抜け出しクロエに会っていたのだ。聖女候補になる前に夜中に浄化して回っていたクロエに助けられた恩人だから。


「……クロエ様は、悪いことなんてしてない。夜、いつも、一人で戦ってたもん……」

「それは彼女が闇に冒されていたからだ。さあ、リリィ。君の清らかな光で、彼女の体を蝕む『汚れ』を焼き払うんだ。そうすれば彼女も、この国も救われる」

「でも……っ、これをしたら、クロエ様が……」


 リリィには分かっていた。自分たちの聖魔法は、今のクロエにとっては「癒やし」ではなく、溜め込んだ瘴気という毒を無理やり体内で爆発させる「劇薬」になることを。


「王命である! やりなさい!」


 エドワードの怒声に、リリィの小さな肩が跳ねた。


「……ごめんなさい。ごめんなさい、クロエ様……っ」


 リリィはしゃくりあげながら、小さな掌をクロエの黒い胸元にかざした。幼いながらも純粋な聖属性の魔力が、リリィの涙と共に溢れ出す。


「——『浄化ピュリファイ』……!!」


 眩いばかりの白光が、クロエの体を包み込んだ。

その瞬間。


「あ、が……っ、あああああどぅ……っ!!!」


 意識を失っていたはずのクロエの体が、弓なりに弾けた。喉の奥から、人間とは思えない悲鳴が漏れ出す。リリィの放った光が、クロエが必死に体内に封じ込めていたここ数日間の、中和しきれていなかった高濃度の瘴気を強制的に刺激したのだ。


「クロエ!!」


 クロエの化け物のような声を聞いて、大司教と共にクロエの部屋へ向かっていた途中のルミナは走り出した。ルミナが部屋に着いた時にはクロエの皮膚の下に黒い血管が浮き上がり、パチパチと火花を散らすように闇が弾け飛ぶ。

 エドワードは「これで救われる」と安堵の笑みを浮かべたが、次の瞬間、その笑顔は凍りついた。

クロエの体から溢れ出したのは、浄化された光ではない。

 リリィの光に拒絶され、行き場を失って暴走した超高濃度の瘴気の奔流だった。


「ひっ……!?」


 リリィは衝撃で吹き飛ばされ、部屋の窓ガラスがすべて粉々に割れる。クロエの目が見開かれた。しかし、そこには意志の光はなく、底なしの深淵が渦巻いている。


「ああ……あああ……」


 クロエの口から漏れたのは、言葉ではなく、この世の全ての絶望を凝縮したような溜息。

 彼女を強引に浄化した結果、彼女が盾となって防いでいた全ての災厄が、一気に王宮内へと逆流を始めたのだ。


 暴走する闇の渦の中心を、ルミナは迷わず踏み込みクロエを抱きしめてた。


「クロエ、もういい……もういいのよ!」

「ガ、ア……アアア!!」


 正気を失ったクロエの手が、鋭い爪のようにルミナの肩を切り裂く。鮮血が舞うが、ルミナはその手を離さない。闇の奔流がルミナの白い肌を焼き、どす黒い呪いが彼女の体を侵食していく。


「リリィ! 私を治しなさい! 早く!!」


 ルミナの鋭い声に、床にへたり込んでいたリリィは、顔を上げ、震える手で魔法を放つ。


「でも、ルミナ様が……ルミナ様の体がボロボロに……っ!」

「いいからやりなさい! 彼女の闇を、私が全部、引き受ける! あなたはただ、私の命を繋ぎ止めればいいの!」


 それは、聖女による「地獄の輪廻」だった。クロエがルミナを傷つけ、瘴気が移る。リリィがそれを強引に修復する。修復された端から、また次の瘴気がルミナを襲う。

 数時間、あるいは永遠とも思える時間が過ぎた。ルミナの豪華な聖女装束はボロボロに裂け、リリィは魔力枯渇で鼻血を出しながらも、必死に回復の光を灯し続けた。

 ついに、クロエの瞳から深淵の濁りが僅かに引いた。


「……ル、ミ……ナ……?」

「……あ……よかった……クロエ……」


 ルミナは満身創痍の体で微笑んだ。だが、正気に戻ったクロエが見たのは、自分を抱きしめているせいで、瘴気に塗れ、見る影もなく傷ついた親友の姿だった。


「私が……私が、あなたを……? いけない、これ以上は……。ルミナ、離れて!!」


 クロエは悟った。自分の中に溜まった瘴気は、もう限界を超えている。リリィの光によって、防壁だった「闇の器」に亀裂が入ってしまったのだ。次に正気を失えば、今度こそルミナを殺し、国を滅ぼす。


「ごめん、ルミナ。……大好きよ」

「え……? クロエ、何を……」


 クロエは残された最後の魔力を振り絞った。それは、浄化のための魔法ではない。自分自身を影へと溶かし、空間を跳躍する禁忌の移動魔法。


「待って、行かないで、クロエ!!」


 ルミナの手が、空を掴んだ。

 黒い霧が爆発するように広がり、霧が晴れたとき、そこには誰もいなかった。


 国境を越え、人の声も届かない、永久凍土の荒野。冷たい風が吹き荒れる岩陰で、クロエは一人、雪の上に倒れ伏した。


「……ここで、終わらせる……」


 彼女の胴体から広がる黒い紋様は、今や顔の半分を覆っている。もう二度と、太陽の下へは戻らない。もう二度と、誰の手も握らない。彼女は、自分が守りたかった国の、たった一人の親友の方向を一度だけ見つめ、静かに目を閉じた。



 一方、王宮では。エドワードが呆然と立ち尽くしていた。結界は崩壊し、街には瘴気が溢れ、そして何より国を支えていた二人の聖女を、彼は自らの手で失ったのだ。


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