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正午の鐘が鳴り響くと、王都の広場は歓喜に包まれた。
「聖女ルミナ様だ! 今日もお美しい!」
純白のドレスを纏ったルミナが、慈愛に満ちた微笑みを浮かべて歩く。彼女が手をかざし聖魔法を行使すれば、老人の足の痛みは消え、子供の擦り傷はたちまち癒えた。民衆は彼女を「太陽の落とし子」と崇め、その光に酔いしれる。
だが、ルミナの心は、広場から離れた城内にある聖女の離宮。その中でも固く閉ざされたカーテンの奥にあった。
「もう一人の聖女、クロエ様は今日も寝ているらしいわ」
「ルミナ様だけ働かせて恥を知るべきだわ」
「お二人の就任式以来見てないわよね。聖女のくせに」
民衆の心ない言葉がルミナの耳に刺さる。ルミナは叫び出したくなる衝動を抑え、指が白くなるほど祈りの杖を握りしめた。
(みんな、何も知らない癖に……。彼女が昨夜、どれほどの重荷を背負ったと思っているの……!)
日が沈み、街がオレンジ色から深い藍色へと染まる頃。ようやくクロエの「一日」が始まる。
全身を黒いローブで包み、フードを深く被った彼女が離宮の裏口からこっそりと抜け出そうとした時、小さな影が彼女の裾を引いた。
「……クロエ様」
そこには、聖女候補の少女、リリィが立っていた。聖女の離宮に隣接する、聖堂からこっそり抜け出したのだろう。まだ十歳にも満たない彼女は、大きな瞳に不安と憧れを混ぜて見上げている。
「リリィ? どうしたの、こんな時間に。もう消灯の時間でしょう」
クロエが屈み込むと、リリィは周囲を気にしてから、背中に隠していた小さな包みを差し出した。
「これ……お昼の、残しておいたの。クロエ様、いつも夜にお仕事に行くから、お腹空いちゃうでしょ?」
包みの中には、冷めたカボチャのスコーンが入っていた。クロエは一瞬、戸惑うように目を伏せる。自分の手は、夜が深まるほどに闇の魔力が満ち、冷たくなっていく。けれど、彼女はその温かい包みを受け取り、リリィの頭を優しく撫でた。
「ありがとう、リリィ。……あなたの光は、とても温かいわね」
「ねえ、クロエ様。どうして皆と一緒に昼間にお祈りしないの? そうすれば、皆もあんな意地悪なこと言わないのに」
無垢な問いかけに、クロエは少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「それはね、夜にしか見えない『悪いもの』がいるからよ。皆がぐっすり眠れるように、誰かがそれを片付けなきゃいけないの。……いい、リリィ。あなたは太陽の下で、ルミナと一緒に笑っていなさい。夜のことは、私だけでいいの」
リリィとの小さな約束を胸に、クロエは闇の中へと消えていった。
深夜。活気溢れる昼の街は死に絶えたように静まり返っている。
だが、クロエの目には「それ」が見えていた。
石畳の隙間、路地裏の湿気、人々の悪意が溜まる排水溝。そこからドロリとした黒い泥のような瘴気が溢れ出し、実体を持たない魔物の形を成そうとしている。瘴気は集まると魔物を生み出し、集まらなくても体調や魔力に影響が出るものだ。
「……見つけた」
クロエが手をかざすと、指先から漆黒の霧が噴き出した。それは破壊の魔法ではない。「同質の闇で、闇を飲み込む」吸着の魔法だ。瘴気を闇魔法で包んでいる状態である。それを放置するわけにもいかない。
「っ……あ……!」
瘴気がクロエの腕を伝い、体内へと流れ込む。
強烈な悪寒と、誰かの恨み言が直接脳内に響くような苦痛。彼女の闇魔法は、浄化するのではなく、一時的に「自分の肉体を器にして封じ込める」ものだった。
一体、また一体と、街を蝕む闇を吸い取っていく。
一箇所吸い取るごとに、彼女の胸元の「黒い痣」が少しずつ広がっていく。心臓が握りつぶされるような痛みに膝をつくが、彼女は止まらない。
(あと少し……。夜明けまでに、この広場を綺麗にしないと……。明日、ルミナがここを歩く時に、悲しい顔をさせたくないから……)
東の空が白み始める頃。街は昨日と変わらぬ清浄な朝を迎える準備を整えていた。
クロエはふらつく足取りで離宮へと戻り、誰にも見られないよう、光を避けるようにベッドへ潜り込む。闇魔法使いは闇に包まれると魔力量が増えるからだ。
朝の光が窓を叩く。
それは人々にとっての希望の光であり、夜通し世界を守り抜いた「影の聖女」にとっては、安眠を妨げる冷酷の光だった。




