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呼気

掲載日:2026/01/17

六月の長雨が始まってからというもの、私の住む「コーポうずまき」全体が、巨大な濡れた雑巾になったかのような錯覚に陥っていた。

 築四十五年を数えるその鉄筋コンクリート造の建物は、川沿いの埋立地に、湿疹のかさぶたのようにへばりついている。外壁を覆う蔦は枯れ果て、代わりに緑色の苔が血管のように這い回り、共用廊下の天井には常に雨染みの地図が広がっていた。

 三階の角部屋、三〇五号室。それが私の城だった。

 中堅の医療機器メーカーで営業職をしている私にとって、住居に求める条件は「静寂」と「安さ」だけだった。日々の激務で擦り減った神経を休めるための、ただの真空パックのような空間であればよかったのだ。

 異変に気づいたのは、入居から三ヶ月が過ぎた湿度の高い夜だった。

 私はリビングの中央に置いたローテーブルで、コンビニエンスストアで買った冷えたパスタを啜っていた。部屋の照明は薄暗く、冷蔵庫のコンプレッサー音だけが低く唸っている。

 ふと、視界の端で違和感を覚えた。

 部屋の西側、隣室との境界になっている壁だ。

 もともとは白かったであろうクロスは、長年の喫煙者たちの紫煙と湿気を吸って黄ばみ、所々に茶色い染みが浮き出ている。その染みの一つが、不自然に揺らいだ気がした。

 私は箸を止め、目をこすった。連日の残業で、眼球の毛細血管が悲鳴を上げているのだろうか。

 視線を戻す。

 やはり、動いていた。

 壁紙の幾何学模様が、まるで水面に映った影のように、ゆっくりと歪んでいる。

 中心付近が僅かに隆起し、そして沈んでいく。

 その動きは極めて緩慢で、注意深く観察していなければ気づかないほど微細なものだった。だが、一度認識してしまうと、もうそこから目が離せなかった。

 膨らむ。沈む。膨らむ。沈む。

 規則正しいリズム。

 時計の秒針よりも遅く、しかし確実に刻まれるその周期は、およそ五秒に一度。

 まるで、巨大な動物が深い眠りの中で繰り返す、胸郭の上下動に酷似していた。

「……配管か?」

 私は掠れた声で独りごちた。

 壁の裏には老朽化した配水管か、あるいは換気ダクトが通っているのかもしれない。ポンプの圧力が変化するたびに、薄くなった石膏ボードが振動しているのだろう。古い集合住宅ではよくあることだ。物理的な現象には、必ず物理的な原因がある。

 私は立ち上がり、ふらつく足取りで壁に近づいた。

 近づくにつれて、部屋に染み付いた独特の臭気が強くなる気がした。カビと、古い紙の匂い、そしてどこか甘ったるい、熟れすぎた果実が発酵したような微かな腐臭。

 私は右手を伸ばし、ゆっくりと隆起の中心と思われる箇所に触れた。

 ひやりとした硬い感触を予想していた私は、思わず小さく悲鳴を上げ、手を引っ込めた。

 生温かかったのだ。

 それも、コンクリートが西日を蓄えた熱さではない。高熱を出して寝込んでいる子供の額のような、あるいは剥きたての茹で卵のような、湿り気を帯びた有機的な熱だった。

 鼓動が早くなるのを感じながら、私はもう一度、恐る恐る指先を押し当てた。

 ぐにゅり。

 指が沈んだ。

 壁紙の下にあるはずの石膏ボードの硬さはなく、そこには頼りない弾力があった。分厚い脂肪の層か、水を含んだスポンジのような感触。

 私が指に力を込めると、壁はその圧力に抵抗することなく、ねっとりと形を変えて指を包み込もうとした。

 そして、指の腹に伝わってきたのだ。

 ドクン……ドクン……という、重く、鈍い振動が。

 私は後ずさり、尻餅をついた。

 壁が、生きている。

 そんな馬鹿なことがあるはずがない。建築材が腐って柔らかくなり、裏側の配管の振動を拾っているだけだ。頭ではそう理解しようと努めたが、指先に残るあの生々しい感触は、明らかに「生物」のそれだった。

 翌日、私はホームセンターで聴診器を購入した。医療機器メーカーの営業という職業柄、入手は容易だった。

 帰宅後、私は震える手で聴診器のチェストピースを壁に当てた。

 耳に飛び込んできた音に、私は戦慄した。

 ゴォォ……シュゥゥ……。

 それは配管を流れる水音ではなかった。

 湿った空気が、無数の狭い気道を通り抜ける時に発する、肺胞の摩擦音。

 時折、ゴボッ、という粘液が弾けるような音が混じる。

 間違いなかった。この壁の向こう側には、巨大な肺が存在している。いや、この壁そのものが、呼吸する器官の一部なのだ。

 私は管理会社に連絡を入れた。「壁から異音がする」「水漏れしているようだ」と、あくまで常識的なクレームとして伝えた。

 数日後、作業着姿の初老の男がやってきた。

 彼は面倒くさそうに部屋に入ると、壁を無造作に拳で叩いた。

 コン、コン、と乾いた音が響く。

「お客さん、特に異常はないですよ」

 男は言った。「湿気でクロスが浮くことはありますがね。音もしません」

「そんなはずはない。触ってみてください。柔らかいんです」

 私が訴えると、男は渋々手を伸ばした。

 私は固唾を飲んで見守った。

 男の手が壁に触れる。

「……ただの壁ですね」

「え?」

 私は男を押しのけ、自分で壁に触れた。

 硬い。

 冷たくて、ざらついた、ただの古びた壁紙の感触だった。昨夜のあの生々しい弾力はどこにもない。

「仕事でお疲れなんでしょう。ゆっくり休んだ方がいい」

 男は私を、神経を病んだクレーマーを見るような目で一瞥し、逃げるように帰っていった。

 取り残された私は、呆然と壁を見つめた。

 幻覚だったのか。

 いや、違う。男が帰った直後、壁は嘲笑うかのように、再びゆっくりと脈動を始めたのだ。

 茶色い染みが、充血したように赤黒く色を変えていく。

 私は理解した。

 この壁は、人を選んでいる。

 あるいは、私という個体に対してのみ、その生態を「開示」しているのだ。

 それからの生活は、壁の観察に取り憑かれる日々となった。

 会社から帰ると、着替えもせずに壁の前に座り込む。

 壁の変異は進行していた。

 直径三十センチほどだった隆起は、一週間で大人の背中ほどの面積に広がっていた。

 クロスの継ぎ目は限界まで引き伸ばされ、その隙間から、薄桃色の濡れた膜のようなものが見え隠れしていた。

 私は聴診器を当て、その音を録音した。

 さらに、壁の呼吸リズムに合わせて、自分の呼吸を調整する実験を始めた。

 壁が膨らむ(息を吐く)タイミングで、私も息を吐く。

 壁が沈む(息を吸う)タイミングで、私も息を吸う。

 ――同調シンクロ

 その瞬間、脳内麻薬が溢れ出したかのような、強烈な多幸感が全身を駆け巡った。

 肺の奥底まで、濃密な酸素が行き渡る感覚。

 ただの空気ではない。壁の毛穴から放出される、目に見えない成分を含んだ粒子が、私の血液に取り込まれていく。

 私はその夜、壁に背中を預けたまま、泥のように深い眠りに落ちた。

 母親の胎内で、へその緒を通じて呼吸していた頃の記憶。絶対的な安心感と、個としての責任からの解放。

 夏が本格化する頃には、私は会社に行かなくなっていた。

 外の世界の空気は薄すぎた。希薄で、乾燥していて、不純物に満ちていた。

 一度、食料を買いにコンビニへ出かけたが、自動ドアが開いた瞬間に激しい眩暈と嘔吐感に襲われた。

 アスファルトの照り返し、車の排気ガス、すれ違う人々の乾いた皮膚の臭い。それら全てが、私の粘膜に対する暴力だった。

 私は逃げ帰るように部屋に戻り、壁に縋り付いた。

 壁は、傷ついた私を慰めるように、いつもより多くの粘液を分泌し、湿った空気を吐き出してくれた。

 私はもう、この部屋の外では呼吸ができない体になっていた。

 部屋の様子も一変していた。

 家具はすべて部屋の隅に追いやるか、捨ててしまった。

 壁の増殖は床や天井にまで及んでいた。畳の目からは産毛のような繊維が生え、天井の照明は肉に埋もれて、ぼんやりとした赤い光を放つだけの器官になっていた。

 私は一日中、裸で床に寝転がっていた。

 床もまた、人肌の温かさと弾力を持っていた。

 食事はほとんど摂っていなかったが、空腹感はなかった。

 壁に触れている皮膚から、直接栄養分が送り込まれているような感覚があった。濃厚なスープのような、温かい液体が、毛穴を通じて体内に浸透してくる。

 ある時、壁の呼吸音が変わったことに気づいた。

 ヒュー、ヒューという、細く苦しげな音が混じっている。

 私は壁の表面を這い回り、原因を探した。

 壁の中央、最も大きく隆起している部分に、硬いしこりのようなものがあった。

 私は爪を立て(私の爪はすでに柔らかく変質していたが)、慎重にその周辺の組織を押し広げた。

 壁は痛がるように身をよじり、大量の粘液を溢れさせた。

「大丈夫だよ、すぐに楽にしてやるから」

 私は外科医のような手つきで、しこりを摘出した。

 出てきたのは、錆びついた釘の塊と、石膏ボードの破片だった。建物の古傷が、壁の成長を阻害していたのだ。

 異物を取り除くと、壁はゴウッという満足げな音を立てて大きく膨らみ、正常なリズムを取り戻した。

 私は取り出した釘を愛おしそうに眺め、それを口に含んだ。鉄の味と、壁の体液の味が混ざり合い、痺れるような旨味を感じた。

 右腕が、壁の中に埋まっていた。

 いつの間にそうなったのかは分からない。

 肩まで、ずぶりと赤い肉の中に沈んでいる。

 引き抜こうと思えばできるかもしれない。だが、そうすれば壁の組織と癒着した私の皮膚が剥がれ、血管が千切れてしまうだろう。

 痛みはなかった。

 むしろ、右腕を通じて、壁と循環系が接続されたことによる一体感が心地よかった。

 私の心臓は、もう自分のペースで動くことをやめていた。

 部屋のドクン、ドクンという巨大な拍動に合わせて、共振させられているだけだった。

 それは究極の受動だった。

 私はもう、生きるための努力をしなくていい。この部屋という巨大な臓器の一部、あるいは良性の腫瘍として、生かされていればいいのだ。

 不意に、玄関のチャイムが鳴った。

 ピンポーン。ピンポーン。

 無機質で、暴力的で、ひどく遠い音。

「管理会社の者ですが! 連絡がつかないので来ました! 安否確認のため鍵を開けます!」

 男の太い声。

 あの時の作業員の男ではない、もっと若い、覇気のある声だ。

 鍵穴に金属が差し込まれる音がする。

 ガチャリ。

 ドアが開く音。

 外の乾いた空気が、鋭利な刃物のように流れ込んでくる気配。

「うっ、なんだこの臭いは……」

 土足の足音が、玄関のたたきを踏む。

 入ってはいけない。

 ここは、完全な閉鎖系なのだ。

 異物の侵入を察知した部屋が、怒るように、あるいは怯えるように、激しく痙攣した。

 天井の肉壁が波打ち、床が大きく隆起する。

 私は叫ぼうとした。

 帰れ、と。

 しかし、口を開いても声は出なかった。

 私の喉は、すでに床の粘膜と癒着し、気道は部屋の換気口へとバイパスされていた。口からは、空気が漏れるシューという音しか出ない。

 若い男が、リビングに入ってきた。

 彼はスーツ姿で、ハンカチで口元を覆っていた。

 私と目が合った。

 いや、彼の視線は私を通り越して、部屋全体を見回しているようだった。

 私はここにいる。部屋の真ん中で、右半身を壁に埋めて、彼を見上げている。

 だが、彼の目には、私は人間として映っていないようだった。

 

「ひどいカビだな……。こりゃ全面改装だ」

 男は眉をひそめ、私の顔のすぐ横にある床を、革靴のつま先でコツコツと叩いた。

 痛い。

 私の頬骨に衝撃が響く。

 男が叩いているのは、床ではない。私だ。私の頭部だ。

 だが、男の耳には、硬い床板を叩く乾いた音しか聞こえていないようだった。

「誰もいないのか……夜逃げか?」

 男は呟き、私の体に土足で乗り上げた。

 ぐしゃり、と私の肋骨が悲鳴を上げる。

 しかし、男は気づかない。彼はただ、少し床が歪んでいる程度の認識で、私の胸の上を歩いていく。

 痛みと共に、奇妙な快感が走った。

 ああ、私はもう、人間として認識されていない。

 私は完全に、この部屋になったのだ。

 この男にとって、私は汚れた壁紙や、腐りかけた床板と同じ「物件の一部」に過ぎない。

 男の侵入に対する部屋の拒絶反応が、限界に達した。

 部屋中の壁が一斉に収縮し、気圧が急激に下がる。

 キーン、という音が鼓膜を打つ。

 男が耳を押さえてうずくまる。「な、なんだ、耳が……」

 次の瞬間、部屋は大きく息を吸い込んだ。

 壁が風船のように膨らみ、空間を圧迫する。

 そして、爆発的な「咳」をした。

 ボフッ!!!

 圧縮された空気と粘液の塊が、玄関に向かって噴出した。

 男は枯れ葉のように吹き飛ばされ、悲鳴を上げながら廊下へと転がり出た。

 バン! とドアが風圧で閉まる。

 鍵が勝手に掛かる音がした。

 静寂が戻った。

 部屋は、荒い呼吸を繰り返している。

 ズゥー……ゴボッ……ズゥー……ゴボッ……。

 私は心の中で、部屋をなだめるように呼びかけた。

 もう大丈夫だ。僕が隙間を埋めるから。

 私は、まだ自由の利く左手と、溶けかけた下半身を使って、ドアの方へ這っていった。

 ドアの縁から、微かに外の光と空気が漏れている。

 私は自分の体を、パテのようにその隙間に押し込んだ。

 皮膚が伸び、粘膜が広がり、金属のドア枠と癒着していく。

 完全に、塞いだ。

 これで、外の世界とは永遠に断絶された。

 私は目を閉じた。

 瞼の裏に、この建物の複雑な配管図が、鮮やかな血管網として浮かび上がる。

 私は感じる。

 上の階の住人の忍び足。下の階の赤ん坊の泣き声。隣の部屋のテレビの音。

 それらはすべて、私の巨大な体内で起きている、些細なノイズに過ぎない。

 私の意識は拡散し、コーポうずまきの三〇五号室という空間そのものと同化した。

 次の入居者は、いつ来るだろうか。

 彼がドアを開けた時、私はどんな顔をして迎えてやれるだろう。

 壁に浮かんだ無数のシミの一つとして、あるいは床から生える柔らかな突起として。

 

 私は、部屋として、静かに次の呼吸を吸い込んだ。

 三〇五号室の肺は、今日も正常に機能している。

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