呼気
六月の長雨が始まってからというもの、私の住む「コーポうずまき」全体が、巨大な濡れた雑巾になったかのような錯覚に陥っていた。
築四十五年を数えるその鉄筋コンクリート造の建物は、川沿いの埋立地に、湿疹のかさぶたのようにへばりついている。外壁を覆う蔦は枯れ果て、代わりに緑色の苔が血管のように這い回り、共用廊下の天井には常に雨染みの地図が広がっていた。
三階の角部屋、三〇五号室。それが私の城だった。
中堅の医療機器メーカーで営業職をしている私にとって、住居に求める条件は「静寂」と「安さ」だけだった。日々の激務で擦り減った神経を休めるための、ただの真空パックのような空間であればよかったのだ。
異変に気づいたのは、入居から三ヶ月が過ぎた湿度の高い夜だった。
私はリビングの中央に置いたローテーブルで、コンビニエンスストアで買った冷えたパスタを啜っていた。部屋の照明は薄暗く、冷蔵庫のコンプレッサー音だけが低く唸っている。
ふと、視界の端で違和感を覚えた。
部屋の西側、隣室との境界になっている壁だ。
もともとは白かったであろうクロスは、長年の喫煙者たちの紫煙と湿気を吸って黄ばみ、所々に茶色い染みが浮き出ている。その染みの一つが、不自然に揺らいだ気がした。
私は箸を止め、目をこすった。連日の残業で、眼球の毛細血管が悲鳴を上げているのだろうか。
視線を戻す。
やはり、動いていた。
壁紙の幾何学模様が、まるで水面に映った影のように、ゆっくりと歪んでいる。
中心付近が僅かに隆起し、そして沈んでいく。
その動きは極めて緩慢で、注意深く観察していなければ気づかないほど微細なものだった。だが、一度認識してしまうと、もうそこから目が離せなかった。
膨らむ。沈む。膨らむ。沈む。
規則正しいリズム。
時計の秒針よりも遅く、しかし確実に刻まれるその周期は、およそ五秒に一度。
まるで、巨大な動物が深い眠りの中で繰り返す、胸郭の上下動に酷似していた。
「……配管か?」
私は掠れた声で独りごちた。
壁の裏には老朽化した配水管か、あるいは換気ダクトが通っているのかもしれない。ポンプの圧力が変化するたびに、薄くなった石膏ボードが振動しているのだろう。古い集合住宅ではよくあることだ。物理的な現象には、必ず物理的な原因がある。
私は立ち上がり、ふらつく足取りで壁に近づいた。
近づくにつれて、部屋に染み付いた独特の臭気が強くなる気がした。カビと、古い紙の匂い、そしてどこか甘ったるい、熟れすぎた果実が発酵したような微かな腐臭。
私は右手を伸ばし、ゆっくりと隆起の中心と思われる箇所に触れた。
ひやりとした硬い感触を予想していた私は、思わず小さく悲鳴を上げ、手を引っ込めた。
生温かかったのだ。
それも、コンクリートが西日を蓄えた熱さではない。高熱を出して寝込んでいる子供の額のような、あるいは剥きたての茹で卵のような、湿り気を帯びた有機的な熱だった。
鼓動が早くなるのを感じながら、私はもう一度、恐る恐る指先を押し当てた。
ぐにゅり。
指が沈んだ。
壁紙の下にあるはずの石膏ボードの硬さはなく、そこには頼りない弾力があった。分厚い脂肪の層か、水を含んだスポンジのような感触。
私が指に力を込めると、壁はその圧力に抵抗することなく、ねっとりと形を変えて指を包み込もうとした。
そして、指の腹に伝わってきたのだ。
ドクン……ドクン……という、重く、鈍い振動が。
私は後ずさり、尻餅をついた。
壁が、生きている。
そんな馬鹿なことがあるはずがない。建築材が腐って柔らかくなり、裏側の配管の振動を拾っているだけだ。頭ではそう理解しようと努めたが、指先に残るあの生々しい感触は、明らかに「生物」のそれだった。
翌日、私はホームセンターで聴診器を購入した。医療機器メーカーの営業という職業柄、入手は容易だった。
帰宅後、私は震える手で聴診器のチェストピースを壁に当てた。
耳に飛び込んできた音に、私は戦慄した。
ゴォォ……シュゥゥ……。
それは配管を流れる水音ではなかった。
湿った空気が、無数の狭い気道を通り抜ける時に発する、肺胞の摩擦音。
時折、ゴボッ、という粘液が弾けるような音が混じる。
間違いなかった。この壁の向こう側には、巨大な肺が存在している。いや、この壁そのものが、呼吸する器官の一部なのだ。
私は管理会社に連絡を入れた。「壁から異音がする」「水漏れしているようだ」と、あくまで常識的なクレームとして伝えた。
数日後、作業着姿の初老の男がやってきた。
彼は面倒くさそうに部屋に入ると、壁を無造作に拳で叩いた。
コン、コン、と乾いた音が響く。
「お客さん、特に異常はないですよ」
男は言った。「湿気でクロスが浮くことはありますがね。音もしません」
「そんなはずはない。触ってみてください。柔らかいんです」
私が訴えると、男は渋々手を伸ばした。
私は固唾を飲んで見守った。
男の手が壁に触れる。
「……ただの壁ですね」
「え?」
私は男を押しのけ、自分で壁に触れた。
硬い。
冷たくて、ざらついた、ただの古びた壁紙の感触だった。昨夜のあの生々しい弾力はどこにもない。
「仕事でお疲れなんでしょう。ゆっくり休んだ方がいい」
男は私を、神経を病んだクレーマーを見るような目で一瞥し、逃げるように帰っていった。
取り残された私は、呆然と壁を見つめた。
幻覚だったのか。
いや、違う。男が帰った直後、壁は嘲笑うかのように、再びゆっくりと脈動を始めたのだ。
茶色い染みが、充血したように赤黒く色を変えていく。
私は理解した。
この壁は、人を選んでいる。
あるいは、私という個体に対してのみ、その生態を「開示」しているのだ。
それからの生活は、壁の観察に取り憑かれる日々となった。
会社から帰ると、着替えもせずに壁の前に座り込む。
壁の変異は進行していた。
直径三十センチほどだった隆起は、一週間で大人の背中ほどの面積に広がっていた。
クロスの継ぎ目は限界まで引き伸ばされ、その隙間から、薄桃色の濡れた膜のようなものが見え隠れしていた。
私は聴診器を当て、その音を録音した。
さらに、壁の呼吸リズムに合わせて、自分の呼吸を調整する実験を始めた。
壁が膨らむ(息を吐く)タイミングで、私も息を吐く。
壁が沈む(息を吸う)タイミングで、私も息を吸う。
――同調。
その瞬間、脳内麻薬が溢れ出したかのような、強烈な多幸感が全身を駆け巡った。
肺の奥底まで、濃密な酸素が行き渡る感覚。
ただの空気ではない。壁の毛穴から放出される、目に見えない成分を含んだ粒子が、私の血液に取り込まれていく。
私はその夜、壁に背中を預けたまま、泥のように深い眠りに落ちた。
母親の胎内で、へその緒を通じて呼吸していた頃の記憶。絶対的な安心感と、個としての責任からの解放。
夏が本格化する頃には、私は会社に行かなくなっていた。
外の世界の空気は薄すぎた。希薄で、乾燥していて、不純物に満ちていた。
一度、食料を買いにコンビニへ出かけたが、自動ドアが開いた瞬間に激しい眩暈と嘔吐感に襲われた。
アスファルトの照り返し、車の排気ガス、すれ違う人々の乾いた皮膚の臭い。それら全てが、私の粘膜に対する暴力だった。
私は逃げ帰るように部屋に戻り、壁に縋り付いた。
壁は、傷ついた私を慰めるように、いつもより多くの粘液を分泌し、湿った空気を吐き出してくれた。
私はもう、この部屋の外では呼吸ができない体になっていた。
部屋の様子も一変していた。
家具はすべて部屋の隅に追いやるか、捨ててしまった。
壁の増殖は床や天井にまで及んでいた。畳の目からは産毛のような繊維が生え、天井の照明は肉に埋もれて、ぼんやりとした赤い光を放つだけの器官になっていた。
私は一日中、裸で床に寝転がっていた。
床もまた、人肌の温かさと弾力を持っていた。
食事はほとんど摂っていなかったが、空腹感はなかった。
壁に触れている皮膚から、直接栄養分が送り込まれているような感覚があった。濃厚なスープのような、温かい液体が、毛穴を通じて体内に浸透してくる。
ある時、壁の呼吸音が変わったことに気づいた。
ヒュー、ヒューという、細く苦しげな音が混じっている。
私は壁の表面を這い回り、原因を探した。
壁の中央、最も大きく隆起している部分に、硬いしこりのようなものがあった。
私は爪を立て(私の爪はすでに柔らかく変質していたが)、慎重にその周辺の組織を押し広げた。
壁は痛がるように身をよじり、大量の粘液を溢れさせた。
「大丈夫だよ、すぐに楽にしてやるから」
私は外科医のような手つきで、しこりを摘出した。
出てきたのは、錆びついた釘の塊と、石膏ボードの破片だった。建物の古傷が、壁の成長を阻害していたのだ。
異物を取り除くと、壁はゴウッという満足げな音を立てて大きく膨らみ、正常なリズムを取り戻した。
私は取り出した釘を愛おしそうに眺め、それを口に含んだ。鉄の味と、壁の体液の味が混ざり合い、痺れるような旨味を感じた。
右腕が、壁の中に埋まっていた。
いつの間にそうなったのかは分からない。
肩まで、ずぶりと赤い肉の中に沈んでいる。
引き抜こうと思えばできるかもしれない。だが、そうすれば壁の組織と癒着した私の皮膚が剥がれ、血管が千切れてしまうだろう。
痛みはなかった。
むしろ、右腕を通じて、壁と循環系が接続されたことによる一体感が心地よかった。
私の心臓は、もう自分のペースで動くことをやめていた。
部屋のドクン、ドクンという巨大な拍動に合わせて、共振させられているだけだった。
それは究極の受動だった。
私はもう、生きるための努力をしなくていい。この部屋という巨大な臓器の一部、あるいは良性の腫瘍として、生かされていればいいのだ。
不意に、玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン。ピンポーン。
無機質で、暴力的で、ひどく遠い音。
「管理会社の者ですが! 連絡がつかないので来ました! 安否確認のため鍵を開けます!」
男の太い声。
あの時の作業員の男ではない、もっと若い、覇気のある声だ。
鍵穴に金属が差し込まれる音がする。
ガチャリ。
ドアが開く音。
外の乾いた空気が、鋭利な刃物のように流れ込んでくる気配。
「うっ、なんだこの臭いは……」
土足の足音が、玄関のたたきを踏む。
入ってはいけない。
ここは、完全な閉鎖系なのだ。
異物の侵入を察知した部屋が、怒るように、あるいは怯えるように、激しく痙攣した。
天井の肉壁が波打ち、床が大きく隆起する。
私は叫ぼうとした。
帰れ、と。
しかし、口を開いても声は出なかった。
私の喉は、すでに床の粘膜と癒着し、気道は部屋の換気口へとバイパスされていた。口からは、空気が漏れるシューという音しか出ない。
若い男が、リビングに入ってきた。
彼はスーツ姿で、ハンカチで口元を覆っていた。
私と目が合った。
いや、彼の視線は私を通り越して、部屋全体を見回しているようだった。
私はここにいる。部屋の真ん中で、右半身を壁に埋めて、彼を見上げている。
だが、彼の目には、私は人間として映っていないようだった。
「ひどいカビだな……。こりゃ全面改装だ」
男は眉をひそめ、私の顔のすぐ横にある床を、革靴のつま先でコツコツと叩いた。
痛い。
私の頬骨に衝撃が響く。
男が叩いているのは、床ではない。私だ。私の頭部だ。
だが、男の耳には、硬い床板を叩く乾いた音しか聞こえていないようだった。
「誰もいないのか……夜逃げか?」
男は呟き、私の体に土足で乗り上げた。
ぐしゃり、と私の肋骨が悲鳴を上げる。
しかし、男は気づかない。彼はただ、少し床が歪んでいる程度の認識で、私の胸の上を歩いていく。
痛みと共に、奇妙な快感が走った。
ああ、私はもう、人間として認識されていない。
私は完全に、この部屋になったのだ。
この男にとって、私は汚れた壁紙や、腐りかけた床板と同じ「物件の一部」に過ぎない。
男の侵入に対する部屋の拒絶反応が、限界に達した。
部屋中の壁が一斉に収縮し、気圧が急激に下がる。
キーン、という音が鼓膜を打つ。
男が耳を押さえてうずくまる。「な、なんだ、耳が……」
次の瞬間、部屋は大きく息を吸い込んだ。
壁が風船のように膨らみ、空間を圧迫する。
そして、爆発的な「咳」をした。
ボフッ!!!
圧縮された空気と粘液の塊が、玄関に向かって噴出した。
男は枯れ葉のように吹き飛ばされ、悲鳴を上げながら廊下へと転がり出た。
バン! とドアが風圧で閉まる。
鍵が勝手に掛かる音がした。
静寂が戻った。
部屋は、荒い呼吸を繰り返している。
ズゥー……ゴボッ……ズゥー……ゴボッ……。
私は心の中で、部屋をなだめるように呼びかけた。
もう大丈夫だ。僕が隙間を埋めるから。
私は、まだ自由の利く左手と、溶けかけた下半身を使って、ドアの方へ這っていった。
ドアの縁から、微かに外の光と空気が漏れている。
私は自分の体を、パテのようにその隙間に押し込んだ。
皮膚が伸び、粘膜が広がり、金属のドア枠と癒着していく。
完全に、塞いだ。
これで、外の世界とは永遠に断絶された。
私は目を閉じた。
瞼の裏に、この建物の複雑な配管図が、鮮やかな血管網として浮かび上がる。
私は感じる。
上の階の住人の忍び足。下の階の赤ん坊の泣き声。隣の部屋のテレビの音。
それらはすべて、私の巨大な体内で起きている、些細なノイズに過ぎない。
私の意識は拡散し、コーポうずまきの三〇五号室という空間そのものと同化した。
次の入居者は、いつ来るだろうか。
彼がドアを開けた時、私はどんな顔をして迎えてやれるだろう。
壁に浮かんだ無数のシミの一つとして、あるいは床から生える柔らかな突起として。
私は、部屋として、静かに次の呼吸を吸い込んだ。
三〇五号室の肺は、今日も正常に機能している。




