第七話 魔剣
天使レインは口と両手を総動員してジェム族の少年から名前を聞きだした。彼は名をウィルと名乗った。かすかな潮のにおいがする毛皮の外套は、雨に濡れて重たく、獣脂と煙の匂いが染みついていた。長い時間をかけてやりとりをし、少年ウィルの部族は天使の虐殺にあって全滅していることも分かった。多くの人が死んだ、とウィルは説明を付け足していた。
少年ウィルは憔悴しきっていた。頬はこけ、青筋の浮いたこめかみが小刻みに脈打つ。肩は冷えで震え、指は乾いてひび割れている。心も肉体も決して丈夫ではないようだった。まだほんの子供なのだ。ウィルのただ一人の友達は、彼の抱いていた飛竜の幼生だけだった。
竜の幼生は名前が無かった。体は熱したように暖かく、鼻先からは白い息が漏れていた。元気になるとすぐに硬い床を爪でコリコリとならす。鱗のきめは薄い陶器のようにさらりと冷たく、腹側は軟らかくて、抱えると心音が喉奥から「ゴロロ」と低く伝わる。
レインはこの竜の幼生を勝手にコーマと名付けた。コーマは善良で人懐こい飛竜の幼生で、元気になるとすぐにハードな散歩に出かけた。おかげでたった数日でコーマは拠点内で有名なマスコットのようになったし、天使レインと少年ウィルは兄弟のように扱われるようになっていた。
そして、少年ウィルと飛竜の幼生コーマはきちんとした会話を成立させていた。コーマが喉の奥を使って、コココ…、と音を発し、ウィルもまたそれに応えて喉の奥を使って答える。そのようにしてウィルとコーマは会話をしていた。
少年ウィルが祈っている間、コーマもまたきちんと伏せの姿勢をとって祈っていた。乾いた床板に膝が当たって、衣の布が擦れる音がする。ウィルは膝を折り、冷たい指を固く組んで祈りの言葉を紡いでいた。何に祈っているのか、レインには分からなかった。
そのようにして少年ウィルは拠点に新しい層を加えた。
天使レインは天使として始祖シーラを信仰していた。
竜人カイネは聖造の母である冥蘭を信仰していた。
少年ウィルはそれらとは違う信仰世界に生きていた。
竜の幼生コーマも目を伏せて祈りの姿勢を保っていた。
ウィルはそのようにしてレインやカイネの住むコミュニティに新しい陰翳を加える存在となっていた。拠点は信頼関係でつながっているわけではない。全員に共通するのは全員が生き延びたいという欲求だけだった。誰もがディール(取引)だけでつながっている場所だった。薄氷のようなつながりで維持されている居場所。それがレインたちの住む旧軍事拠点の現在地点だった。
車体は凍てつく空気を割って進み、藻油と金属の匂いが車内に薄く漂う。スプリングが段差で軋み、背骨に小刻みな振動がのぼる。コーマが自動車両の荷台に乗って風を浴びていた。
「レイン。私は何か行動をすべきだと思うんだ。」
カイネが仕事の現場まで運転する間、ふとそんなことを言った。レインはウィルに聖典の詩編を教えていた。聖典の詩編を紡げるようになれば、天使との取引において信用される可能性が高くなる。そう考えてのことだった。
「竜は不死身だ。レイン、ずっと考えていたことがあるんだ。」
カイネがそう言った。レインは何も言えずにカイネの決然とした表情を眺めていた。拠点で暮らす以上、ウィルにも働いてもらわねばならない。そしてレインやウィルのように特殊技能を持たないものは、命がけで硝石を回収するほかない。生き延びられるかどうかは運命が決める。運だけが生き延びる者を決定する。自分とウィルのために、レインは必死で詩編を紡いでいた。そのさなかのことだった。
そのさなかに、カイネがレインに言葉を贈ろうとしていた。カイネは運転のために前方を見ていた。
「竜には逆鱗と呼ばれる部位があってね。その個所を破壊すれば、竜は活動が出来なくなる。竜は普通じゃない。上半身と下半身に切断してさえ、再び融合して復活する怪物だから。逆鱗を破壊しないとダメなんだ。」
カイネが前方を見据えてそう言った。
レインは頷くことしかできなかった。硝石回収業者が最も恐れるべきことは小型竜との遭遇だった。硝石回収業に身を投じる限り、避けては通れない危険だ。ましてや今は幼いウィルがいる。竜から逃げ切ることは困難であるように思えた。
カイネは思いつめたように前方だけを見ていた。
「逆鱗を破壊する手段は一つだけあるんだよ。それが逆鱗から構成された魔法武器。」
カイネがそのように言葉を紡いでいた。
「そして魔法武器を作れるのは、私たち竜人だけなんだよ。」
カイネがそのように言葉を重ねていた。
カイネに見つめられ、一瞬、レインはウィルに視線を逃がした。レインは責任を負いたくなかった。生きることも、死ぬことも運命に任せたいと思っていた。
だが今、カイネは言葉を欲しているように思えた。カイネが、このままではレインもウィルも死ぬだけだ、と伝えようとしているように思えた。
だからレインは、カイネの覚悟とその視線をまっすぐに受け止めた。
「カイネ。僕たちの拠点に天国を作ろう。竜人も人間も、僕ら天使も。みんなが安全に暮らせる場所を作ろう。」
レインはカイネにそのような言葉で答えた。それはただの言葉ではなかった。運命を自分たちで切り拓こう、という意思表示だった。
「カイネ。君の協力が必要だ。」
レインはそう言った。カイネをまっすぐに見つめていた。
カイネがレインの視線を受け止めて、そしてまた運転のために前方に視線を戻していた。
「渡したいものがあるんだ。二人とも硝石の仮置き場に来てくれ。」
カイネがそう言って真っすぐに前方を見つめていた。
硝石の仮置き場はきちんと整頓されていた。雨に濡れないように木板の壁が四方に張られ、天井には屋根板と木片で屋根が張られている。浸水した水で硝石が流されないように、硝石はすべて樽詰めにして保管されていた。
ウィルとコーマが珍しそうに全周囲を眺めていた。木板の壁に雨粒の痕で斑に濃淡が付いた様子を見つめ、樽の鉄帯は触れると冷やりとする感触を確かめていた。天井の屋根板をたたく滴の音が規則正しい。硝石は樽詰めにされていて、こぼれた硝石の粉は塩のようにざらついていた。
そして、カイネはテーブルの上に一振りの剣を置いた。ブレードの部分が蛇腹の様に規則的な切れ目をもっていた。異形の剣は呼吸をしていた。その動きに合わせて伸縮を繰り返していた。
「レイン、掌を出して。」
カイネがそう言い、レインはなにを思うともなくカイネに手を差し出した。
カイネはその掌に触れ、そしてゆっくりとレインの掌に爪を立てた。レインは陶然として厚ぼったい竜人の掌と爪の感触を受け止めた。紙一枚分だけ皮膚が裂け、ひやりとした痛みがあった。カイネの掌は熱を帯び、鱗の感触は思った以上に繊細な柔らかさがあった。
「これは契約だよ。」
カイネがそう言った。
「これは象徴なんだよ。」
カイネがそう言っていた。
「今。この瞬間から私たちの関係は再定義される。體母と造竜の名のもとに。」
そう言ってカイネがレインを見つめていた。気のせいだろうか。カイネの頬がわずかに艶を帯びて上気しているように見えた。
カイネはすぐに視線を外し、魔剣を手に取ってレインに向き直った。
「この剣が逆鱗から再構築した冥腑魔導法の剣。魔剣と呼ばれる類の代物だよ。」
カイネはレインに向けて説明の言葉を紡いでいた。
「私を育てた年長者の作品なんだ。その人はとっくに朽ちてしまったけれど。とにかく、その人が私にこの魔剣と言葉を与えてくれたんだよ。その人は、いつか私の前に魔剣を手渡すべき男が現れる、そう言っていた。」
カイネは自分の言葉に頷くようにして、それからレインに視線を向けた。
「私にはそれがレインであるように思えたんだ。」
カイネがそう言って、魔剣をレインに差し出した。
レインは、自分はカイネに試されている。そう思った。喉が渇く感覚があった。胃の底に冷たい石が落ちていく感覚があった。カイネはレインに、竜と戦えるか、と問いかけている。カイネの生活がかかっている。ウィルとコーマの生活がかかっている。
カイネとウィルのために戦えるか。命を賭けて戦えるのか。カイネはレインにそれを尋ねていた。
僕は、とレインはカイネに言いたかった。レインはもちろん竜と戦う準備なんて出来ていなかった。所詮、レインの本質は臆病であり気弱であり弱者だった。自分は他者のために命を差し出せるのか。それはどうやっても不可能であるように思えた。
だがそれと同時に、勇気と向き合うこと自体が一種の勇気であるような気がした。そう。思えば任務を投げ出した自分をカイネが肯定してくれたその瞬間から現在まで、カイネはそれを伝えようとしていたように思えた。
「カイネ。僕は、ずるくて臆病で。弱虫で。」
レインは言葉を発していた。
「だけどやっぱり、命は大切だと思う。自分の命も他人の命も。」
レインは言葉を紡いでいた。
「死ぬような無茶はできない。でもその真似事ならできる。剣を振りかざして竜を威嚇することはできる。」
レインは強く言葉を発し、カイネの差しだした剣を受け取った。柄は手のひらにしっかりと馴染んだ。剣の脈動を肌で感じた。想像より軽いのに、沈むような重さも感じさせる。レインが手に取ったその瞬間、魔剣が一度、強く伸縮した。剣の呼吸に合わせて部屋全体の空気がひりつくような緊張感に包まれていた。




