第四十五話 果実
医療院設立から十五年の時が流れた。花が一斉に開花するように、メロウ医療院は発展を遂げた。
メロウの最初の成功は、メロウ医療院を運営する財源を確保したことだった。医療院の主な収入源は、周囲の集落からの徴税だった。徴税のために集められた革袋が並ぶと、金属貨や穀粒の擦れる音が倉に満ちた。
メロウは医療院周囲の集落から税を徴収する一方、それらの集落が必要とする原始的な歯科医療や外科医療を提供する体制を構築していった。
医療支援隊は古参の神王教徒から成る集団であり、竜人の神王教徒が主にこの業務を担当した。彼らは各地を巡り天幕を張り、存分に腕を振るった。天幕にはいつも膿の臭い、焼いた刃物の焦げた臭い、煮沸した布の湿った匂いが漂っていた。
医療支援隊の天幕にはまばらに病人が現れた。骨折や化膿、歯の痛みに苦しむ者がその天幕を訪れると、治療が始まる。担架が運び込まれるたび、木枠が軋む音と呻き声が重なる。それでも治療は確実に成果を上げた。だれもが医療支援隊にねぎらいや尊敬の言葉をかけてくれるようになっていた。
外交面での成功もあった。第一に、メロウは表向き天使聖教を受け入れることを決定した。その下準備をしてから、メロウは積極的にウィル・カナン(ウィルの興した町)へと出向いた。整備の行き届いた石畳を踏むたび、足裏に硬い感触が返ってきた。ウィル・カナンに到着するたびに、メロウは王宮へ赴き、ジョン王への拝謁を請願した。そのたびに多額の税金を納付することも忘れなかった。そのようにして、メロウはジョン王から一応の信頼を得ることに成功した。
王宮にはいつもすばらしい香油とハプタ藻油の匂いに満ちていた。メロウはジョン王への目通りが叶うと、落ち着いて医療院を興した理由を説明した。
ジョン王はこの時に、メロウに興味を持ってくれた。メロウ医療院との間に大きな道路を整備することを約束してくれた。
メロウにとって、これは大きな外交的成果だった。道路が整うにつれ、医療院付近には人間や竜人の商人たちが集まり始めた。商人たちはそれぞれに露店を設けて活動を始めた。車輪が土を踏み固める音、荷を下ろす掛け声が響き、乾いた風に布や革の匂いが混じった。商人たちは色とりどりの布や金属製品、保存食を並べてにぎやかな声を上げた。
メロウは商人たちを利用して必要な物資を入手できるようになっていた。
そのようなメロウ医療院に可能性を見出す者も現れた。幾人かの竜人の職人たちが医療院近くに工房を構えるようになった。工房では内燃機関が重く唸り、撥霊器が回転するたびに空気が騒がしく震えた。油と金属の匂いが漂い、霊力(電力)で動く機械が規則正しい音を立てて動く。
竜人の職人たちは完成した装置を市場に並べ、集まった人々は目を輝かせながら、それを取り囲んだ。
メロウはふと、息をつく思いがした。生来華奢であったメロウはもう、自分の時間が長くないことを感じた。
メロウの蒔いた種は、いつの間にか彼自身の手を離れ、別のかたちで実を結び始めていた。
メロウの子、ヤロクは学舎の中で生活していた。ヤロクは父親を知らない。母ヤハナは亡くなっていた。母を失ったヤロクはヤハナの仲間によって学舎へと導かれ、以降、学舎の中で生活していた。学舎は医療院を囲む町の片隅にあり、ヤロクは数多の孤児たちと一緒に暮らしていた。
そこは石畳から外れた静かな区画にある場所だった。朝になると、医療院から漂ってくる煮沸した布と薬草の匂いが薄く流れ込んでくる。遠くでは車輪の音や商人の呼び声が聞こえる。この一角だけは、どこか時間が遅れて流れているようだった。
学舎の目的はただ一つ、天使聖教に支配される世界にあって、神王教をひそかに継承していくこと。そのために集められたのが、ヤロクを含む数多の孤児たちだった。
ヤロクと少年たちは僧侶のように髪をそり、青い着物を制服としていた。布は何度も洗われ、ところどころ色が薄くなっていたが、肌触りは柔らかかった。朝露の冷えた空気の中で着ると、ひやりと背中に張りついた。
ヤロクたちの住む寮は板で仕切られ、狭いながらも一人分の寝台と小さな棚が与えられていた。夜になると、板越しに誰かの寝息や寝返りの音が聞こえ、木材が微かに軋んだ。
毎日の日課は厳しく、時計の音と鐘の合図に支配されていた。けれども温かい食事で腹を満たし、おいしいナツメの実を食べることができる。甘く乾いたナツメの実を噛むと、歯にねっとりとした感触が残り、舌の奥にほのかな酸味が広がった。そのような食事に加え、土曜日と日曜日には町へ遊びに出かけることも許される。文句を言う者は誰もいなかった。
一、四時半起床。起床後、神王教徒の祈り。
冷えた床に膝をつくと、骨にまで冷気が染みた。
二、五時から六時、聖祭の祈り。
朗唱が重なり、声が天井に反響した。
三、六時から七時半、竜人の言葉を学ぶ。
低く喉を震わせる発音に、舌がもつれる。そのたびに笑い声が溢れた。
四、七時半から九時、人間の言葉を学ぶ。
鉱質インクの匂いが立つ板に、文字を書き写す音が続く。人間の言葉は素朴で、文法は素直だった。
五、九時から十一時、朝食と休憩。
湯気と食器の触れ合う音が、ようやく空気を緩める。
六、十一時から午後二時、天使の言葉を学ぶ。
天使の言葉は文法は人間の言葉を元にしていたが、ずっと洗練されていた。文法は論理的に組み上げられていて、単語の数は膨大だった。発音は澄んでいて、耳に心地よかった。
七、午後二時から三時、休憩。ただし、音楽の才能のある者は音楽を学ぶ。
弦を弾く音や笛の音が、廊下に細く流れた。
八、午後三時から四時半、魔訶錬金術(魔術)を学ぶ。
薬草をすり潰す音と、焦げた匂いが鼻を刺激した。
九、午後五時から七時、夕食と休憩。
一日の疲れが、ようやく身体から抜けていく。町も人も弛緩したこの時間は心地よかった。
十、午後七時から八時、一日の復習。
灯りの下で、影が揺れた。
十一、午後九時、一日の反省と祈り。
静寂の中で、誰かの咳払いだけが響いた。
平日はそのように過ぎて、土曜日と日曜日は自由に出かけることが出来た。食事はカイコ肉のスープが主食で、脂の膜が表面に浮いていた。これにデザートとしてナツメの実やマンゴーの実の干した果実を食べることが出来る。甘みが口の中に残るのが、ヤロクは好きだった。
娯楽は散歩だった。お弁当のかわりに餅や果実をおやつとしてもらうことができた。町外れの道を歩くと、風に乗って土と草の匂いが運ばれてくる。市場では様々な商品を目にすることが出来て、そして様々な匂いを嗅ぐことができた。
ヤロクは自分の生活を想う時、小さく笑い声をあげる。足りないものは何もない。ヤロクは自分の生活を愛していた。




