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第三十八話 再生

司祭メアリの言葉は少年メロウに深い衝撃と刺すような疑問とを突き付けた。


メロウはただ一人、この謎と向き合わねばならなかった。なぜ、神聖な御方を自分たちは殺してしまったのか。なぜ天使も人間も竜人もそのような御方にこれほど無関心であるのか。その復活と死にはどのような意味があるのか。


なぜ。その答えを探るために、メロウは必死に天使聖典を読みふけった。古い紙の匂い。鉱質インクの筆致。乾いた革装丁のざらりとした手触り。指先に残る埃の細かな刺激。それらすべてが、少年の焦燥と結びついていた。


メロウは幼いころから愚鈍とみなされてきた。唾棄されるようにさげすまれてきた。しかし、その経験は決してメロウを堕落させなかった。そのような外部的経験はメロウに深い内面性を与えた。メロウは内面に詩編と信仰が織りなす美しい世界観を構築していた。それは少年が世界と向き合う唯一の拠り所だった。メロウは外界の粗暴さから身を守るように、内側に小さな聖域を築いていた。


しかしメロウが天使隊に入隊して以来、美しい内面世界は崩壊しようとしていた。他の天使たちの暴力は非道と言う言葉でも足りない残酷性に満ちていた。白鱗症(天使化症)は恐るべき力と早さで人間や竜の肉体を襤褸ぼろのように崩壊させていった。


外部の現実を目の当たりにしてから、少年の内面世界は少しずつ、だが確実に崩壊しようとしていた。


天使信仰は自分を無垢な世界に連れ戻してはくれなかった。それでも少年メロウが頼るものは詩編や天使信仰のほか、なにもなかったのである。


そのような瞬間に起こった出来事こそ三貴神信仰者との戦いだった。そのときに出会った女性こそ司祭メアリだった。少年メロウは目に見えぬ糸に引かれるように、司祭メアリの許を訪れた。彼女の語る言葉は慈愛に満ちていた。メロウは温かい飲み物を喉に流し込むときのように、メアリの言葉をゆっくりと体の奥深くに吸収した。


司祭メアリは『天使教会より三貴神信仰より尊いものがある。それが神聖ウィルである』そのように語っていた。


なぜ。少年メロウは思う。なぜ自分たちはそのような聖なる御方を殺めてしまったのか。なぜだれもがそのことに無関心なのか。神聖ウィルの死と復活とはどのような意味があるのか。


メロウは必死に天使聖典を読みふけった。祭司や多くの宗教学者たちの言葉をまとめた蔵書に答えは隠れていないか。詩編やシーラ聖典に答えは秘匿されてはいないのか。メロウは破壊された小さな図書館に籠り読書を続けた。だれが集めたものなのか。そこには天使聖典に関わる資料が山のように積み上げられていた。


メロウは昼間は三貴神信仰者の工房で奴隷のように働き、夜になるとランタンに火を灯して神学を探求する生活を続けた。ハプタ藻油が燃えると、青緑がかった淡い光が机の上に揺らぐ。薄明かりが本の紙面を照らす。メロウは自分の生活を苦しいとは思わなかった。メロウは己の中に新しい信仰の火を灯そうとしていた。


そうしてある天使聖典の詩編を、メロウは発見したのだった。



——見よ、我がしもべは栄える、彼は高められる。

その姿は人の子らとは異なっていた。

彼は多くの民を驚かし、王たちの口をつぐます。

(だがやがて)彼は侮られて人々に棄てられる。…

顔をおおって忌み嫌われる者のように侮られる。我々も彼を尊ばなかった。

まこと彼は我々の嘆きを負い、我々の悲しみを担った。しかるに我々は思った、

 彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

しかし彼は我々の咎のために傷つけられ、我々の不義のために砕かれたのだ。

 我々の平穏のために彼は懲らしめを受け、彼の打たれた傷によって我々は癒されたのだ。

我々はみな羊のように迷って

おのおの自分の道に向かった。

主は我々全ての者の不義を彼の上におかれた。

彼はしいたげられ、苦しめられたが

黙っていた。

屠殺場ほふりに引かれる子羊のように

毛を切る者の前にうなだれる羊のように

口を開かなかった。

彼は暴虐な裁きによって取り去られた。

その代の人のうち、誰が思っただろうか。

彼がわが民の咎のため打たれて

生ける者の地から絶たれたのだと。

しかも彼を砕くことは主のみむねであって

主は彼を悩まされた。

彼は己の魂の苦しみにより、光を見て満足する

義なる我がしもべはその智識によって

多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。

しかも彼は多くの人の罪を負い

とがある者のために、とりなしをした。



文字を追うメロウの唇が、無意識に小さく動いた。声にはならないが、胸の奥で言葉が震え、喉の奥が熱くなる。古い紙の匂いがひどく濃く感じられた。指で押さえた行のあたりだけがランタンの光に白く浮かび上がっていた。


メロウはこの部分を知らなかったわけではなかった。かつてはこの言葉に特に注意を払わなかったのだ。かつてこの詩編における『わがしもべ』とは特定の個人を指すのではなく、天使種族全体を指すのだと思われていた。


だが今。メロウはこの詩編にあの御方、神聖王ウィルを見つけた。だれが知ろうか。あの夜。寒い冬のあの日。天使隊と激突する原理主義者たちは神聖王ウィルを見捨てて次から次へと逃げ出したのだ。ウィルは彼らが逃げる時間を稼ぎ、しかる後に武器を捨てて自首をした。知っているものは逃げた者とわずかな天使隊の生き残りだけだ。


力を失った彼を、天使隊の一人が長銃で撃ち抜いた。


それがあの夜の真相だった。


メロウははっとする思いで何度も詩編を見た。

『我が僕は栄える、彼は高められる』とは多文化主義者に神聖王として高められたウィルを指していないか。

『侮られて人々に棄てられる』とは多文化主義者に見捨てられた神聖王ウィルを指していないか。


その挙句、彼は銃殺という『暴虐な裁き』を受けたが、『屠殺場に引かれる子羊のように』口を開かなかった。それだけではない。逃げる者たちが無事に逃げ切れるように時間稼ぎをした。苦しく、つらい戦いに身を投じ続けた。逃げる者たちを逃げるに任せるだけでなく、その身を案じ続けたのだ。それは『すべてを背負い、悲しみを担って殺された』とは言えないか。


同時にそれは『主のみ旨』であり、『彼は咎ある者たちのためにとりなしをした』とは言えないだろうか。


メロウは喉の奥に、熱いものと苦いものが同時に込み上げてくるのを感じた。指先は冷えているのに、胸の内側だけがじんじんと焼けるようだった。この神秘的な符号に、メロウは驚愕した。メロウは預言の適切さに驚愕したのではなかった。神聖王ウィルが最後の瞬間、この預言を身をもって演じ、そして成就した。そのことに強い感動を得たのだ。


メロウはこの詩編の続きをさらに読み進めた。『地は悲しみ、衰え、世はしおれ衰え』、この一編はどうやら多文化主義者たちの心を表しているようだ。『我が魂は夜、あなたを慕い、わが心は切にあなたを求める』、メロウは神聖王ウィルの悲しそうな両眼を覚えていた。あのような善良な人がなぜ、殺されねばならなかったのか。その答えを知るために、自分は日夜、朽ちた図書館に籠っている。


だがこの詩編は突然、こう述べ始める。『あなたの死者は生き、彼のなきがらは起きる。塵に伏す者よ、さめて悦び歌え』


この節に至ってメロウは愕然とする。ここには神聖王ウィルが生き、そのなきがらが起きる、とはっきり書いてあるからだ。


ここに書いてあることは真実かもしれない。霊感の強いメロウにこの時、希望が灯った。それは司祭メアリから、神聖王ウィルの師が天使レインという人物だった、と聞かされた時と同じものだった。


神聖な御方が再び来る。多文化主義を賛美した王が戻ってくる。メロウはこの再臨意識を確かにこのときに獲得した。まず、メロウは天使隊の暴力を直接見てきた。白鱗症のすさまじさをこの目で見てきた。自分たちが天使の名に値するとは、もう思えなかった。天使聖典が語る理想と現実の間にはあまりにもむごい乖離かいりがあった。


ランタンの炎が、また小さく揺れた。少年は震える指で聖典を閉じると、目を閉じ、胸に手を当てた。そこには確かに、新しい信仰の火が灯っていた。


天使も人間も竜人も救う者。メロウは救世主の再臨を信じようとしていた。ウィルの再臨理論を自らの霊的能力で紡ぎ上げようとしていた。


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