第三十五話 死闘
遠くに幾度も剣戟の音が響いていた。怒号があり、絶叫があった。風が、血の匂いと焦げた油脂の匂いを教会の中へと運び込んでくる。石壁はその匂いを吸い込み、湿った戦いの熱気が肌にまとわりついた。
メアリは歌っていた。負傷した女性も口をわずかに動かして共に歌っていた。だれもが生きていた。
——大地に叶わぬ願いが降るという 。
癒すこと 。
寄り添うこと。
守ること 。
叶わなかった願いが降るという。
メアリの両腕に抱かれていた女性が身震いし、汗と血で湿った髪がメアリの袖に貼りついた。そうしてうなだれて動かなくなった。メアリは三貴神の祈りを唱え、そして女性を石床に寝かせた。メアリは歌っていた。世界には神々しさが存在していて、ある種の大いなるものが存在する、というように。メアリは女性の衣服を裂き、裂いた衣服を別の負傷者の出血に押し当てた。布の下で血の熱がじわりと広がり、掌を温める。
外では剣が骨を断つような鈍い衝突音が響き、倒れ伏す兵の喉を裂くような悲鳴が混じった。風がまた吹き込み、土と血の匂いが鼻腔を刺した。怒号と絶叫が響いていた。誰もが教会を中心にして剣や素手で戦っているようだった。剣が何か硬いものを断つ鈍い音がした。負傷者が踏み砕かれる絶叫があった。兵の靴底にへばりついた土と血の匂いが、風に乗って流れ込んできた。
——深海に届かぬ祈りが降るという 。
憩うこと 。
生き延びること。
育つこと 。
届かなかった祈りが降るという。
そうして負傷した天使隊の男が教会に現れ、両手を上げて慈悲を乞うていた。顔は灰のように青ざめ、喉から漏れる息はひゅうひゅうと震えていた。メアリはその男を教会に招き入れ、三貴神の聖像の近くへ座らせると、男の呼吸がかすかに泡立った。鉄錆びの匂いが濃くなる。床に落ちた血の雫が、ぽたり、ぽたりと音を立てる。そうして天使隊の男の治療を始めた。頸部に深い傷を負っていた。致命傷を負っていた。傷は深く、動脈を断ち切っていた。メアリは天使隊の男に向き合い、その傷口に布切れをあてた。
——天国に言葉が降るという 。
痛みと悲しみ 。
苦しみと絶望 。
それらの言葉も土となる 。
いつか土になるという。
入口で何かが倒れ、複数の影が揉み合いながら転がり込んできた。負傷者の呻き、割れた木材の軋み、剣戟が一つの濁流のように押し寄せる。ついに教会入り口近くで死闘が始まった。
メアリは死者を祭壇から遠ざけ、負傷した者たちと共に祈りの言葉を捧げた。自分の周囲に座り込んだけが人や子どもたちが、いつの間にか小さな円陣を形づくっていた。
——そうして雨と光が差すという 。
願いの葉と 。
祈りの根に 。
やがて言葉は天に還る。
白い雲になるという。
烈しい愛に満たされ、メアリは高らかに宣言するように歌を紡いでいた。メアリの両手には血糊が付着していた。もう水も蒸留酒も無い。自分に寄り添う怪我人や子供たちの重さを感じた。負傷した戦士達が円陣の外側を守るように立ちはだかってくれた。だれもが歌っていた。彼らが何を感じているのか。メアリには理解できた。誰もが高潔さを欲し、正義と礼節を欲していた。死の際にあって、戦争の悪の中心にあって人間の平和と和合を求めていた。
——かの地に白い雲が散るという 。
綿のように。
透明に 。
それは物語であるという 。
私たちであるという。
その瞬間、戦場の喧騒が一拍だけ止んだように思えた。誰かの息づかいさえ聞こえるほどの静けさ。そうして、大地を割るような竜の咆撃があった。震えが空気を震わせ、石壁に掛けた聖具が小刻みに揺れた。崩れた壁面を通して緑竜ロコの巨体を確認できた。ロコを駆るウィルの姿がそこにあった。
ウィルが魔弓を用いて、一人、また一人と敵を屠っていく。鋼鉄の矢が天使隊の甲冑を穿つ。分厚い金属が裂け飛ぶ破砕音が何度も重なった。ウィルの率いる竜騎兵たちが天使隊を踏み砕いて蹴散らしていく。嵐が過ぎ去るように、少しずつ、怒号と喧騒が遠くへ押しやられていく。
剣戟の音が止んでいた。
メアリ、とウィルが叫んでいた。
メアリは、ウィル、と叫んだ。
ウィルが瓦礫と骸を踏み越えて、メアリの許へと駆け寄ってきていた。メアリはそれを迎え入れるように両手を広げていた。
ウィルがメアリを抱き留めていた。その体温が、全ての戦いの音を遠ざけていった。




