第三十二話 祈祷
翌日、メアリは外の騒動で眼が覚めた。驚いて寝着のまま扉を開けると、前日以上の人々が入り乱れていた。絶え間なく人々が往来し、土嚢や藁袋を運んでいた。遠くで藁袋に土を流し込む音がした。誰かが怒鳴る声があちこちに起こっていた。湿った土の生ぬるい匂いがあった。
メアリは白竜と戦った経験から、その意図がすぐにわかった。土嚢を積み上げた障壁は、効率よく衝撃を緩和してくれる。当然、銃弾や砲弾の衝撃も和らげてくれる。その効果を期待して土嚢を一つ一つ積み上げているのに違いない。ウィルの演説に感化されたのか、土嚢を運ぶ人々はどこか活気づいて見えた。
石畳を闊歩する足音を感じて、メアリは急いで寝室に戻った。寝着を片付け、三貴神を祀る祭服をまとい、装飾品を身に着ける。メアリはこの衣服を纏うたびに、どこか空虚になる自分を感じていた。
朝の祈りに参加するものはいつも以上に多かった。教会の中は人いきれでむっとしており、汗と湿った衣服の匂いがこもっている。蝋燭の炎が揺れ、焦げた芯のくすぶる匂いが、窓から流れ込む湿気と混ざり合っていた。
メアリは全員が鎮まるまで、そっと天井を見上げていた。教会の祈りの間は、旧文明の構造物を再利用して作られている。天井は半円形に高く、薄く曇った天窓から差す朝の光が、舞い上がる埃を淡く照らしている。壁面は材質の分からない旧世界の合金板と、その失われた部分を補填する荒いレンガで出来ている。祭壇の中央には、木彫りの三貴神の神像が据え置かれていた。それらを眺めてから、メアリは祭壇を見守る全員を見渡した。
メアリはいつものように古い預言者たちの言葉を切り貼りし、欺瞞に満ちた言葉を紡ぐことが日課になっていた。
「・・・つまり我々はかつて三貴神が奇蹟を起こしたもうた歴史を有しているのです。この苦難においても奇蹟を起こしたもうと、確信があるのです。そして未来においてもそうなのです。我々と三貴神の間には、奇蹟を起こす神秘の契約があるのです。」
欺瞞だった。メアリはもう、そのことについて何も感じなくなっていた。
「一神教にこだわる天使教会と、三神和合の神秘を知る我らの教会。どちらが真実であるのか。それは、わたくしと皆様の肉体が明らかにしていることでありましょう。」
欺瞞だった。万雷の拍手に微笑で応えながら、メアリの内心は空虚だった。メアリは言葉を紡ぎながら、胸の奥に水音すら立たない静寂がひろがるのを感じていた。
メアリはそうして三貴神を称える詩編を朗読した。
——大地に叶わぬ願いが降るという 。
癒すこと 。
寄り添うこと。
守ること 。
叶わなかった願いが降るという。
深海に届かぬ祈りが降るという 。
憩うこと 。
生き延びること。
育つこと 。
届かなかった祈りが降るという。
天国に言葉が降るという。
痛みと悲しみ 。
苦しみと絶望 。
それらの言葉も土となる 。
いつか土になるという。
そうして雨と光が差すという。
願いの葉と 。
祈りの根に 。
やがて言葉は天に還る。
白い雲になるという。
かの地に白い雲が散るという 。
綿のように。
透明に 。
それは物語であるという 。
私たちであるという。
この空虚さはなんだろう。この寂しさはなんだろう。メアリは、この詩編がなぜ三貴神の信仰者に人気なのか、実はよくわかっていなかった。だれもがこの詩編の朗読を好んだ。子供たちでさえそうだった。自分だけが別の場所に立っているようだった。
自分は空虚を抱えて死んでいくのだろうか。窓の外から差し込む光が埃を照らし、その粒子が人々の肩に降り積む。朝の礼拝を終えると大部分の者たちが退室したが、それでも熱心に拝む者が何人もいるのを見つけた。メアリは最も近くにいる若い母親と幼い娘に近づいた。
「怖がらないで。お前たちはどこから来たのか。」
メアリは親子にそうささやいて、腰をかがめた。母親が怯えた目でメアリに事情を告白した。
「島の中央部、から参りました。そこではもう、人間は安全に暮らせません。夜になると、どこからともなく銃声が聞こえて、子どもを抱いて眠れなくなりました。」
母親は声を震わせて祈りの言葉をつぶやいた。娘の指がメアリの衣の裾をそっとつまんだ。 「何を祈っていたのか。」
メアリがそう問うと、母親は思い切ったように頷いた。
「戦争が起らないように、祈っていました。私たちは弱く非力で、」
そう言って母親は娘をそっと抱きしめた。母親は娘の頭を、包み込むように抱き寄せた。幼い体からは、寝汗と子どもの甘い匂いがした。
「そして、臆病なのです。」
メアリはこの親子に三貴神の祈りを唱え、そして周囲を見渡した。老人がいた。負傷した若者がいた。体の線が細い病弱そうな少年がいた。
自分とウィルの作り出した空虚な幻想に、弱者が巻き込まれている。メアリは、その真実を今更のように悟った。
すべてをぶちまけてしまいたい衝動を覚え、メアリは逃げるように祈りの間から退室した。裏口の扉を開け裏庭に出た瞬間、湿った空気が肌に張りついた。遠くで土嚢を積む鈍い衝撃音が続いていた。




