第二十七話 欺瞞
メアリは一時的にウィルを教会内部に匿った(かくまった)。天使ブラウンの遺体は生石灰による消毒の後、土の中に沈めた。土葬とも火葬ともつかないこの処置は、土葬を求める天使と火葬を求める竜人の要求を同時に納得させるぎりぎりの妥協点だ。これだけの処置でさえ、三年間をかけねば実現できないことだった。
メアリは右の小さな拳を左の掌で包むようにして何かに祈っていた。でも何に祈っているのか、自分でもわからなかった。
ウィルを助けなければならない。だがどうすればいい。思考が働かない。心に霧がかかったように真っ白だった。その霧に耳を澄ませると、あらゆる種類の鐘の音やオルガンの音が聞こえた。
でっち上げればいいのに、と霧の中で誰かがささやいていた。
母が、天使のシーラが死後を総べる、とささやいていた。
父が、人間の地母神が大地を総べる、と語っていた。
妹が、竜人の體母が海を総べる、と呟いていた
亡くなった兄がいた。一度まみえた司教がいた。彼を取り巻く司祭たちがいた。誰もが叫んでいた。
——でっち上げろ。真実は誰も救わない。
メアリの中で霊的世界が沸騰していた。旧大陸の市長がいた。露天商を束ねる大商人がいた。聖天使教会の教師がいた。聖歌隊の女学生たち。伯父と叔母。何人かの英雄と聖女。
——でっち上げてしまえ。祈りを作れ。
彼ら全員が叫んでいた。天使ブラウンもそこにいた。これから死ぬことになる顔のない人々がそこにいた。いままで政治的欺瞞の犠牲になった人々がいた。ありとあらゆる形の国旗。旗を打ち振る何百万人もの市民が叫んでいた。
——でっち上げるんだ。今こそ秩序を作るんだ。
風が吹き、そしてメアリは立ち上がった。耳鳴りが止むと、現実の世界がゆっくりと輪郭を取り戻した。礼拝堂に差し込む赤い夕陽、教会の外でざわめく人々の気配。守ってきた現実の重さがメアリの肩にのしかかった。座り込もうとした。でもメアリは歩き出していた。
教会の外にはメアリの意見を仰ぐべしとする人々がいる。メアリは彼らに何かを言わねばならなかった。
何を。——でたらめを。それぞれの宗教から都合よく切り貼りした、分かりやすい答えを。
卑怯者、彼らはそう言うだろう。でもウィルを失うよりはましだった。
嘘つき、彼らはそう言うだろう。でも共同体を失うよりはましだった。
弱虫、彼らはそう言うだろう。でもここで投げ出すよりはましだった。
メアリは教会の扉を開いた。扉を開けた瞬間、ざわめきが止んだ。夕陽が彼らの顔を赤く染めていた。誰もが、救いを欲しがっている目をしていた。
メアリは気付いていた。これは欺瞞だ。だが、欺瞞以外に何が出来る。今こそ混乱を鎮めねばならない。秩序を作らねばならない。
教会の外にはメアリの見解を知りたいと願う者たちが十数人待機していた。天使が二人。竜人が一人。人間は十数人。全員が一斉にメアリを見つめていた。
メアリは全員を見渡した。
「三貴神より神託が下りました。ウィルの行為は正当です。暴力を武力で収めただけのことです。」
メアリはさも事実のようにそう言った。
どよめきが起こった。混乱があり、怒号があった。メアリはまったく怯まなかった。それらは風のようなものだった。
「聞きなさい。これからは、暴力を用いずに教会を頼るのです。三貴神の法と秩序を信じなさい。」
メアリはごく自然に宣言していた。
メアリは自分の声の清澄さに驚いていた。声は冷たい水のように澄んでいた。メアリは、自分は狂ってしまったのか、と本気で思った。土埃の匂いが舞っていた。メアリの内心とは別に、天使の老人が集団の前列に現われた。
老いた天使はうやうやしくメアリを見上げ、帽子を取った。
「三年の間、貴女の献身によって、この土地の人々は健やかに生きることが出来ました。」
老人の声には張りがあり、湿った夕風の中によく響いた。
「白鱗症(天使化症)がもたらす疫病もあなたがもたらした聖禽の布(生ワクチンを含ませた布)を用いることでたちまちに収まりました。その点について、私は貴女の努力、犠牲的な行為に深い尊敬を抱いております。」
老人はメアリを見上げて朗々と話した。静寂が一瞬、集団の中に広まった。焚火の残り香、香油の匂い、古い木材が軋む音だけがあった。
「ぜひお聞きしたい。われらは天使教会に税を納めるべきか、そうでないのか。」
老人が鋭くメアリに言葉を放っていた。
場の空気が一瞬、ざらりと揺れた。
この老人は賢い、とメアリは思った。メアリが、天使教会に税を納めるべき、と言えば集団全体に臆病な指導者という印象を与えることができる。逆にメアリが、天使教会に税を納めるべきではない、と言えば天使教会と完全に敵対することになる。秩序の破壊者として教会から懸賞金をかけられることもありうる。メアリは静かに老人を見下ろしていた。
老人の眼が鋭く歪んでいた。夕陽が彼の横顔の皺を際立たせ、狡猾な影がその目元に落ちていた。
メアリがどのような答えを提示するのか。集団全員がメアリを見守っていた。
だから、メアリは一度、目を閉じた。風が頬を撫で、遠くで犬が吠える声がわずかに聞こえる。静寂が限界に近づいた瞬間、メアリは静かに答えた。
「銀貨を鋳造したのは天使教会です。天使の物は天使に返しましょう。神の物は神に返しましょう。皆で生きるのです。秩序を保って。平和に。」
それがメアリの答えだった。
集団にさざ波が広がるように話し声が溢れた。臆病な指導者と言う声も無く、かといって過激な反社会的活動家という声も無い。老人が悔しそうにメアリを睨んでいた。夕陽がその瞳を細い金色の線に変えていた。
メアリはゆっくりと息を吸った。焦げた草の匂いが鼻を掠める。鳥の羽ばたきが響いた。メアリは、老人のたくらみをかわした、と思った。そして集団の一人一人に慈愛の眼を向けた。
陽が傾き、影が強くなっていた。夜が迫り、冷たい風が路地を撫でる。暗く冷たい夜が迫ろうとしていた。




