第二十六話 軋轢
衝突が、起こった。乾いた叫び声が麦畑に響き、馬に騎乗した天使が汗の匂いを発して疾走していた。ウィルが教会周辺の麦畑を巡回している最中の出来事だった。ウィルに縋る視線を向け、馬で駆けてきた天使が事情を説明した。天使ブラウンと竜人の銃士サンダウンが殺し合いに近い喧嘩をした、という。
ウィルは緑竜ロコに騎乗し、現場に急行した。二人の確執は前からあった。硫酸を得るために下水遺跡に潜る天使ブラウンと、教会に隣接した工房で危険な硫酸作りを行う竜人サンダウンは、当初から互いの仕事を卑下し続けていた。怒鳴り合いになることもあった。
必然かもしれない、とウィルはロコに語り掛けていた。アメリンド族では、こういう時にどうするかはすでに決まっていた。争いを止める最も速い方法は、代表を一人殺すこと。かつてウィルがいた部族では、それは“ただの手続き”だった。
現場に到達したとき、すでにサンダウンが血だらけになって地面に倒れていた。天使ブラウンは興奮したまま、サンダウンを見下ろして酒を呷って(あおって)いた。
ウィルは急いでいなかった。焦りもなかった。ただ『手順』を一つ一つこなしていこうと決めただけだった。ウィルは緑竜ロコから降り立ち、一瞬で行動を起こした。ウィルはナイフを引き抜き、すばやく天使ブラウンの腹に刃を沈めた。その部分からナイフの刃をブラウンの内部にねじり込み、肋骨を避けるようにしてブラウンの内部にある肺や心臓の部分や血管を引き裂いた。
ウィルが近づき天使ブラウンが地に伏すまで、ほとんど一瞬の出来事だった。それからすさまじい喧騒が起こった。周囲を囲む天使たちはたまりかねたように叫んだ。裁判をすべきだった、と叫びを上げていた。一方、人間たちは、見慣れた光景だと言わんばかりに、アメリンド族ならば当然だ、と叫び返していた。
喧騒の中で、ウィルは黙って天使ブラウンの死相を見下ろしていた。苦悶の表情で眼を見開き、舌を突き出したその顔を無言で眺めていた。殺したという意識はなかった。争いを終わらせ、次の暴力を抑止する。アメリンド族ではそれが当然だった。暴力を抑止するためのただの処置にすぎなかった。
司祭メアリは、その現場を茫然と眺めていた。すべてがひどく騒がしく思えた。緑竜ロコ。その傍らに立つウィル。教会の鐘楼の影が彼を覆い、顔の半分は暗く沈んでいた。その足元に、天使ブラウンが倒れていた。
教会の壁が夕陽を受けて鈍く光っていた。木枠造りの小屋が風を受けて軋んでいた。血がしみ込んだ土埃が舞い上がっていた。ウィルが手を汚した。自分の祈りは何ひとつ役に立てなかった。
天使ブラウンの死相は惨く壮絶だった。舌を突き出し、苦悶に歪んだその顔。かつて礼拝堂で祈りを捧げた天使の顔がそこにはなかった。体温の残り香と血の生臭さ。それだけが天使ブラウンに残されたすべてだった。
ウィルの視線が一瞬、彷徨い、そして静かにメアリを見つめていた。
——君はどうする。
ウィルの視線がメアリに問うていた。メアリは視線を受け止めきれずに目を伏せた。ウィルを裁くべきなのか。庇うべきなのか。止めるべきなのではないか。それとも、これは救いだったのか。
共同体を運営してきた三年間で、彼女は知っていた。法律も、教義も、まだ何も整っていない。裁判の枠組みを作ってきたとはいえ、それは「真似事」にすぎない。
自分では正しい形を作れなかった。祈りしか知らなかった。けれど、ウィルは血を浴びてでも動いた。それだけは事実だった。
祈りの言葉も、ここでは実態を持たなかった。メアリはついに視線を上げ、ウィルを見つめた。
「ウィル。」
声に出した瞬間、メアリは胸中に痛みを感じた。比喩ではなかった。それは物理的な力を持つ痛みだった。ウィルはゆっくりと振り返り、死体のそばに立つまま、苦しげに微笑んだ。
「これしか方法を知らないんだ。」
ウィルがそう呟いていた。
ウィルは穏やかな表情をしていた。メアリはそれを見つめていた。ウィルの言葉は宿命を受け入れた者の諦念にも見えた。
ウィルを止められるのは自分しかいない。しかし、ウィルを壊してしまうのも自分かもしれない。
風が吹いた。メアリは目を閉じた。答えはわからない。確かなことは一つだけだった。
今この瞬間、何かが取り返しのつかない場所へ転がり始めた。
その予感だけがあった。




