第七章 処刑前夜
――ラフェーレ公爵家、老執事ルネ・ド・カーミラの手記より
王城の鐘が、処刑前夜を告げる九つの音を響かせました。
湿った石の匂いが満ちる牢獄の中を、冷たい風が吹き抜け、壁に吊るされたランプの灯だけが、まるで最後の命のように静かに揺れておりました。
お嬢様――ミシティア様は、その頼りない薄明かりのもと、古びた木箱を机代わりに便箋を広げておられました。
監視の兵が離れた、ほんのわずかな時間。その中で、彼女は震える指を叱咤するように、最後の手紙を綴っておられたのです。
“あなたの信じる正義が、この先も、どうか多くの人を救いますように。
そして、あなたが救ったその誰かが、いつかあなたの孤独を救ってくれますように。”
インクが乾くのを待って、お嬢様は静かに小さな木箱の蓋を開けられました。
そして、自らの心の最も大切な部分を封じ込めるかのような、静かで厳かな手つきで、一つの指輪をそっと中へ納められました。それは、幼い頃にアルフォンス様から贈られた、兄妹の絆の証。
「ねえ、ルネ。棺に入れるものというのは、願いでも、いいのかしら」
その問いに、私は答える言葉を持たず、ただ冷たい石の床に膝を折り、深く頭を垂れました。
お嬢様は、そんな私を見て小さく微笑まれると、こう続けられました。
「では――この小箱を、私の棺に入れてちょうだい。いつか、彼が真実に気づいた時に……この祈りが届くように」
その声は穏やかで、まるで遠い未来の夢を語るようでございました。
私は、震える手でその小箱を恭しく受け取りました。ずしりと重かったのは、木の重さではございません。一人の女性が、その生涯のすべてを懸けて貫き通した、愛と覚悟の重さでございました。
お嬢様は静かに立ち上がられると、鉄格子の嵌められた小さな窓から、外の夜空を見上げられました。
厚い雲の切れ間を、ひとすじの流星がすうっと走り抜けていきます。
「……まあ、きれい。落ちていくものというのは、どうしてこうも、人の心を惹きつけるのかしら」
その横顔に、もはや恐れも絶望もありませんでした。
そこにあったのは、ただ、自らの運命を受け入れ、愛を貫いた者だけが持つ、静かな誇り。
翌朝、夜明け前の冷たい青い光が牢獄に差し込むころ、処刑執行の時刻が告げられました。
お嬢様は、あらかじめ用意させていた純白のドレスにその身を包み、私が差し出した一輪の白薔薇を、静かに髪に飾られました。
牢から断頭台へと続く道。その歩みに、迷いは一片もございません。
そのお姿は、もはや断罪された罪人ではなく、自らの意志で、自らの運命を統べる、気高き女王そのものでございました。
最後の階段を上る前、お嬢様は私の方へ振り返り、微笑まれました。
「ルネ、ありがとう。あなたが最後まで傍にいてくれたから、私は“悪女ミシティア”ではなく、ただの“私”として逝けるわ」
私は、そのお言葉を魂に刻みつけ、溢れそうになる涙を必死にこらえて、生涯最後の忠誠を込めて、深く、深く頭を垂れました。
――お嬢様は、微笑んでおられました。
集まった民衆の息を呑む音さえ消え、ただ風の音だけが吹き抜ける中、世界が一瞬だけ、完全に静まり返ったのです。
その沈黙の中で、彼女は最期の笑みを浮かべられました。
それは、勝利者の笑みでも、諦観の笑みでもない。
ただ、愛する人の未来を信じきった者だけが浮かべられる、あまりにも優しく、そして強い光を放つ微笑みでございました。
ああ、そうだ。私は、確かに感じました。
この御方は、たった一つの純粋な愛を、その胸に抱いたまま、誇り高く逝かれたのだ、と。




