第五章 運命の兆し
――ラフェーレ公爵家、老執事ルネ・ド・カーミラの手記より
庭の薔薇が最も美しく咲き誇り、その甘い香りが屋敷中を満たすころ。人は、穏やかな季節が永遠に続くものだと錯覚いたします。
けれど、幸福という名のガラス細工は、いつだって壊れる直前が最も美しく輝くものなのでございます。
お嬢様とアルフォンス様の文通は、まるで陽だまりのように、互いの心を温めておりました。
月に二度の手紙の往復は、お嬢様にとって何よりの喜びでした。夜ごと書斎に籠り、様々な色の便箋を選び、封蝋に焚きしめる香りを選び、そして一語一語、心を込めて言葉を磨かれる。その横顔に浮かぶ微笑みは、この屋敷の何よりも美しい光でございました。
しかし、その微笑みは、薄氷の上で舞う蝶のように、あまりにも儚く危険なものであったことを、私は知っておりました。
その頃からでございます。街では、陰口のように黒い噂が囁かれ始めたのは。
ラフェーレ家の商会が扱う品に、不審な点があること。帳簿に、決して表に出せぬ取引の記録があること。そして、口封じのために“消された”使用人がいること――。
重く、よどんだ風が、確実にこの屋敷に向かって吹き始めておりました。
ある月夜の晩、お嬢様が書斎の窓辺で私を呼び止められました。
窓の外には、まるで剃刀のように冷たい光を放つ月。その光に照らし出されたお嬢様の横顔は、以前よりもずっと大人びて、そして静かな諦観をたたえておられました。
「……ルネ」
「はっ」
「ねえ、もしもこのラフェ-レの家が、明日にも滅びるとしたら……あなたはどうする?」
その問いに、私は答える言葉を持ちませんでした。ただ深く膝を折り、冷たい大理石の床に頭を垂れることしかできませぬ。
お嬢様は、そんな私を責めるでもなく、ゆっくりと続けられました。
「アルフォンスが……もうすぐ“真実”に辿り着くかもしれないの。彼は、そういう人だから。決して、不正や罪を見逃しはしない。それが、たとえ家族の罪であっても」
その震える声を聞き、私ははっきりと悟りました。
お嬢様が最も恐れておられるのは、断頭台の刃でも、一族の破滅でもない。
ただ一つ、愛する義兄君の、その清らかな手によって断罪されることなのだ、と。
しかし、お嬢様はふっと微笑まれました。
すべての痛みと絶望を、そのか細い喉の奥に飲み込むかのような、あまりにも優しい笑みで。
「……それでも、いいの。彼のその揺るぎない正義こそが、私のずっと昔からの憧れだったのだから」
その夜、お嬢様は最後の手紙を書かれました。
これまでのように便箋を選ぶでもなく、香りを選ぶでもなく、ただ目の前にあった一枚の紙に、まるで何かに追われるようにペンを走らせておられました。
インクが乾かぬうちに落ちた涙の雫が、文字の端を歪に滲ませるのを、私は扉の影からただ見ていることしかできませんでした。
“これからあなたの前には、冷たい冬の嵐が訪れるかもしれません。
けれど、どうかその足で、嵐の先にある大地を踏みしめてください。
そこには必ず、新しい季節の芽吹きが待っています。
あなたの未来に、暖かな光が差すことを、遠い場所から祈っております”
――名無しの令嬢より
それが、アルフォンス様のもとへ届けられた“名無しの令嬢”からの、最後の便りとなりました。
そして、二人の魂が穏やかに言葉を交わした、最後の夜となったのでございます。