第三章 手紙の始まり
夜のラフェーレ邸は、時を止めた深い海の底のようでございます。月光が磨かれた大理石の床に銀色の川を作り、壁に並ぶ歴代当主の肖像画は、その瞳を闇に沈めておりました。響くのは、大広間の古時計が厳かに時を刻む音だけ。
その晩、私はいつものように廊下を巡回しておりました。すると、お嬢様のお部屋の扉の隙間から、頼りなげな蝋燭の光が一条、こぼれているのが見えたのです。何かあったのではと、控えめに扉を叩きましたが、お返事はありません。言いようのない不安に駆られ、私は静かに扉の鍵穴から、中の様子をうかがいました。
そこには、昼間の傲慢な“氷の貴婦人”の姿はどこにもありませんでした。
机に向かう華奢な背中が、窓から差し込む月明かりの中にぽつりと浮かび上がっております。テーブルの上には、いくつも丸められた書き損じの紙片が小さな山を作り、インクの匂いが部屋に満ちておりました。
白い指が、まだ何も書かれていない便箋の上を、何度も迷い、彷徨っています。
「どんな言葉なら……あなたの心を汚さずに、届くのかしら」
それは祈りであり、悲痛な問いかけでございました。
昼間の完璧な悪女の仮面を脱ぎ捨て、ほんの少しでも“本当の心”で彼に触れたい。そんな切なる願いが、その背中から伝わってくるようでした。
やがて、お嬢様は覚悟を決めたようにペンを握り、インクをつけ、震える指先を抑えながら、ゆっくりと文字を紡ぎ始められました。
“あなたの信じる正義は、きっとこの世界のどこかで、誰かを救っています。
どうか、その道を疑わないで。あなたが、光でいてください”
その一文を書き終えたあと、お嬢様の肩が微かに震えました。
安堵したかのように、ふっと笑みを浮かべられたのです。しかし、その頬を伝うひとすじの涙が、蝋燭の光を反射してきらりと光るのを、私は見てしまいました。
お嬢様は、その涙が便箋に落ちてインクを滲ませる前に、そっと指で拭うと、封をする前に、こう付け加えられました。
“――名無しの令嬢より”
それは、この世界で背負わされた“ミシティア・ド・ラフェーレ”という罪深き名を脱ぎ捨て、彼女が彼女自身でいるための、たった一つの赦しのようにも聞こえました。
封筒は、アルフォンス様の愛読書である、古びた装丁の騎士の英雄譚の間に、そっと忍ばせられました。お嬢様は、その表紙を慈しむように指でなぞり、小さな息を吐かれます。
「もう、これきり。届かなくてもいいの。……でも、もしも万に一つ奇跡があるのなら、彼の眠れぬ夜に、小さな灯火がひとつ、灯りますように」
やがて蝋燭の炎が静かに消え、お嬢様の部屋は完全な闇に包まれました。
その闇に溶けていく小さな背中を見つめながら、私の胸を貫いたのは、一つの確信でございました。いいえ、それは確信というよりはむしろ、一つの祈りでした。
この御方は、断じて悪女などではない。どうか、誰か一人でも、その魂の本当の姿に気づいてくれますように、と。
翌朝。書斎でアルフォンス様が何気なくその本を手に取り、挟まれていた見慣れぬ封筒に気づいて、わずかに眉をひそめられました。
その瞬間、誰にも知られず、二人の運命の歯車が、ほんの少しだけ、軋みを立てて動き始めたのでございます。