第二章 悪女の仮面
お嬢様が王立学園の門をくぐられたのは、最後の桜がはらはらと舞い散る、風の強い季節でございました。
真新しい紺青の制服は、お嬢様の白い肌をいっそう際立たせ、襟元で血のように輝くルビーのブローチが、これから彼女が歩むであろう茨の道を示唆しているかのようでした。
古い石造りの回廊は、生徒たちの期待と不安を含んだざわめきに満ちておりましたが、お嬢様が姿を現した瞬間、ぴたりと静まり返りました。
ステンドグラスから落ちる七色の光が、まるで彼女のためだけの舞台照明のように、その細いシルエットを縁取ります。
その時でした。野心的な目で輝く若い令息が、計算ずくの笑みを浮かべて進路を遮ったのです。
「これはミシティア様。この学園でお会いできるとは光栄の至り。もしよろしければ、この私にあなた様の――」
「そこまで」
パチン、と乾いた音を立てて、お嬢様が扇を閉じられました。
「私の、何ですって? あなたのような方が、私の傍に立つ価値があるとでもお思いで? 身の程を知りなさい。人に傅く前に、まずはご自身の影が地に足がついているか確かめていらっしゃることね」
宝石を磨き上げたように冷たく、澄み切った声。
しかしその声には、相手の自尊心を木っ端微塵にするほどの絶対的な響きがありました。
令息は屈辱に顔を真っ赤に染め、周囲の嘲笑から逃れるように走り去って行きました。
生徒たちは息を呑み、そして囁き始めます。噂に違わぬ、ラフェーレの“悪女”だと。
“氷の貴婦人”――お嬢様の新たな異名が生まれるのに、時間はかかりませんでした。
けれど、私は見ておりました。
扇を握りしめるお嬢様の指先が、その血の気の失せるほど白く、微かに震えていたことを。
そして、人波が途切れた廊下の窓辺で、誰にも聞こえぬように吐き出された、か細いため息を。
「……ねえ、ルネ。どうしてかしら。前世の私なら、きっと彼に手を差し伸べていたわ。それなのに……この世界で優しくすれば、人はきっと弱くなるのね」
私は何もお答えできず、ただ黙って頭を垂れることしかできませんでした。
彼女の問いは、あまりにも純粋で、あまりにも悲しい諦観に満ちていたのですから。
その“完璧な演技”は、実の義兄であるアルフォンス様に対しても向けられました。
騎士道を教える彼の授業で、それは起こりました。
「――よって、騎士の正義とは、いかなる身分の者の罪も見逃さぬ、公平無私なる剣でなければならない!」
理想に燃えるアルフォンス様が、熱くそう語られた、その時。
教室の最も後ろの席で、お嬢様が静かに挙手されました。
「素晴らしい理想論ですわね、義兄上。けれど、そのお言葉は、どれほど血の汚れを知らぬ清らかなお口から紡がれているのかしら?」
教室の空気が、一瞬にして凍りつきました。生徒たちの視線が、恐怖と好奇がないまぜになって二人に突き刺さります。
アルフォンス様は、まるで不意に斬りつけられたかのように目を見開き、その瞳に深い悲しみの色を浮かべて唇を噛みしめられました。
老いたこの身に、まるで氷の刃を突き立てられたような痛みが走りました。
あれは侮辱ではございません。あれは、悲痛な祈り。
(どうか、あなたのその清らかな正義が、私たち一族の血塗られた罪に触れることがありませんように)
お嬢様の“悪女の仮見”は、あまりにも完璧でございました。
そして、その完璧さこそが、彼女の底知れぬ孤独の、何よりの証だったのでございます。