第7章:聲ノ果テニ
雨が、止んでいた。
いつからだろう。三週間も降り続いていた雨が、いま、この瞬間に、静寂と共に消えている。空は鉛色のまま垂れ込めているのに、雨粒はもう落ちてこない。
僕――海原シグルは、音無湖の湖畔に立ち尽くしていた。
足元には、あの古い石の祭壇がある。「雨師ノ神」を封じるために建てられたという、苔むした円形の台座。その中央には、深い穴が口を開けている。底は見えない。水が溜まっているのか、それとも地の底まで続いているのか。
僕の手には、一枚の写真が握られていた。
妹のミユと僕が並んで笑っている、夏祭りの写真。でも、その写真の端が濡れている。誰かの涙で。
――それは僕の涙だった。
「お兄ちゃん」
振り返ると、ミユがいた。
でも、それは僕が記憶している妹ではなかった。髪は水に濡れたように黒く重く垂れ下がり、肌は青白く透けている。そして何より、その瞳には生きている者の光がなかった。
「やっと、気づいたのね」
ミユの声は、水底から響いてくるようだった。
「僕が……死んでいるって?」
「うん」
彼女は頷いた。その動きさえも、水中でゆらめくように緩慢だった。
「あの日、湖に落ちたのはお兄ちゃんだったの。私じゃない」
記憶が、波のように押し寄せてくる。
あの夏の日。ミユと二人で湖に遊びに来て、僕は足を滑らせた。冷たい水が口と鼻に押し寄せ、必死にもがいても、どんどん深く沈んでいく。ミユの声が水面の上から聞こえた。「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」と。
でも、手は届かなかった。
そして、静寂。
「でも、僕は生きている。こうして君と話している」
「違うの」ミユは首を振った。「お兄ちゃんは、雨師さまに拾われたの。そして、『水葬儀』によって、生きている記憶を与えられた」
水葬儀。
町の人々が語りたがらなかった、古い儀式の名前。
死者を水底に沈め、その魂を神に献上する代わりに、一つだけ願いを叶えてもらう。それが、この土地に伝わる禁忌の儀式だった。
「お母さんが、お兄ちゃんを失うことに耐えられなくて……」
ミユの声が震えている。
「だから、雨師さまにお願いしたの。お兄ちゃんを生き返らせてって。でも、雨師さまは言ったの。『死者を生き返らせることはできない。だが、生きていたという記憶を与えることはできる』って」
僕の膝が、がくりと崩れた。
地面に膝をついて、僕は震えながら自分の手を見つめた。これは本当に、僕の手なのか。この体は、この心は、この思い出は――全部、作り物なのか。
「それだけじゃないの」
ミユが、さらに残酷な真実を口にする。
「お兄ちゃんが『生きている』ためには、誰かが代わりに『死んでいる』ことになる必要があった。だから……」
「だから、君が」
「うん。私が死んだことになった。記憶の中で」
僕は顔を上げた。ミユの姿が、さっきよりもさらに薄くなっている。まるで霧のように、風に吹かれて消えそうになっている。
「でも、それって……」
「お母さんは、私のことを忘れた。町の人たちも。お兄ちゃん以外の誰も、私のことを覚えていない」
そうだった。気がつけば、母はミユの話をしなくなった。ミユの部屋も、いつの間にか物置になっていた。僕だけが、「妹を亡くした兄」として生きていた。
「霧川イサナちゃんも、同じよ」
ミユが続ける。
「あの子も、本当は水難事故で死んでいる。でも、生き残った子供たちの家族が、『水葬儀』を使って記憶を書き換えた。イサナちゃんが生きていることにして、代わりに死んだ子供たちの記憶を消した」
だから、イサナには事故の記憶がなかった。
だから、彼女は水に映る映像を見ることができた。死者の記憶を覗く能力――それは、彼女自身が死者だったからだ。
「みんな、自分の大切な人を失いたくなくて……」
ミユの声が、風に混じって聞こえなくなりそうになる。
「でも、そのせいで、雨師さまの力がどんどん強くなった。忘れられた死者たちの怨念が、神様を狂わせたの」
僕は立ち上がった。足がふらつく。でも、やらなければならないことがあった。
「どうすれば、元に戻せる?」
「『水葬儀』を逆に行うの」ミユが答えた。「誰かが、自分の名前を水に返すの。そうすれば、偽りの記憶も、狂った神様も、全部元に戻る」
「僕がやる」
即座に僕は答えた。でも、ミユは首を振った。
「お兄ちゃんがそれをしたら、お兄ちゃんは完全に消えてしまう。記憶からも、存在からも」
「それでもいい」
「でも、そうしたら……」
ミユの瞳に、初めて涙のようなものが浮かんだ。
「そうしたら、私たちが一緒に過ごした時間も、全部嘘だったことになっちゃう」
そうだった。
この三週間、僕はミユと再び時間を過ごすことができた。たとえそれが偽りの現実だったとしても、彼女と笑い合い、話し合い、時には喧嘩もした。それは、僕にとって本物の思い出だった。
でも。
「それでも」僕は呟いた。「君が存在しないことになってしまうなら、僕だけが偽りの記憶で生き続けるなんて」
湖面が、突然光った。
水面から、たくさんの顔が浮かび上がってくる。子供たちの顔。大人たちの顔。みんな、水難事故で死んだ人たちの顔だった。そして、その中央に巨大な影がゆらめいている。
雨師ノ神だった。
その神は、人の形をしていなかった。水でできた、巨大な渦のような存在。その中に無数の顔が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返している。
『名前を……返せ……』
神の声が、湖全体に響いた。
『忘れられた者たちの名前を……返せ……』
僕は祭壇の穴の前に膝をついた。
手に握った写真を見つめる。そこに写っているのは、本当の僕とミユだった。生きていた頃の、幸せだった時の。
「海原シグル」
僕は自分の名前を口にした。
「僕は、この名前を水に返します」
でも、その時。
「待って」
別の声が響いた。
振り返ると、霧川イサナが立っていた。でも彼女もまた、ミユと同じように青白く透けていた。
「私も一緒にやる」イサナが言った。「私も、偽りの記憶で生きていた。だから、責任を取る」
「イサナちゃん……」
「一人じゃ、きっと寂しいでしょ?」
彼女は微笑んだ。その笑顔は、生きていた頃よりもずっと穏やかだった。
僕たちは並んで祭壇の前に座った。
イサナが僕の手を握る。その手は冷たかったけれど、とても温かく感じられた。
「霧川イサナ」
彼女が自分の名前を口にする。
「私も、この名前を水に返します」
二つの名前が、祭壇の穴に吸い込まれていく。
すると、湖面の雨師ノ神がゆっくりと形を変え始めた。渦が静まり、無数の顔が安らかな表情になっていく。
『ありがとう……』
神の声が、今度は穏やかに響いた。
『ようやく……眠ることができる……』
光が湖面を包んだ。
そして、世界が白く染まっていく。
僕の意識が薄れていく中で、最後にミユの声が聞こえた。
「お兄ちゃん、ありがとう。これで、みんな安らかに眠れる」
「ミユ……」
「でもね、お兄ちゃん」
彼女の声が、だんだん遠くなっていく。
「忘れないで。私たちが一緒に過ごした時間は、偽りじゃなかった。本当に、愛し合っていたから」
そして、静寂。
―――
音無町の湖畔で、一人の老人が釣り糸を垂らしていた。
午後の陽光が湖面を照らし、さざ波がキラキラと輝いている。
老人の隣には、古い石の祭壇があった。でも、その祭壇の意味を覚えている人は、もういない。
ただ、時々、湖面から小さな声が聞こえることがある。
誰かが誰かの名前を呼んでいるような、優しい声が。
でも、それが誰の声なのか、何を言っているのか、誰にもわからない。
老人は釣り竿を上げた。何も釣れていなかった。
でも、なぜか心が軽やかだった。まるで、長い間背負っていた重荷が取れたような気持ちだった。
「不思議なもんだな」
老人は呟いた。
「何を忘れたのかは覚えてないのに、忘れ物をしていた気がしなくなった」
湖面に、小さな波紋が広がった。
魚が跳ねたのかもしれない。
それとも、誰かが水面に石を投げたのかもしれない。
でも、そこには誰もいなかった。
ただ、風が吹いて、水面がさやさやと歌うだけだった。
そして、その歌声の中に、確かに混じっていた。
「ありがとう」という、小さな、小さな声が。
老人は立ち上がり、道具をまとめて帰路についた。
後ろから、湖がささやくのが聞こえたような気がした。
でも、振り返ることはしなかった。
振り返ってはいけないような気がしたから。
そして、音無湖は再び静寂に包まれた。
でも、それは死の静寂ではなく、安らぎの静寂だった。
全ての声が、水に還った静寂だった。
―――
【エピローグ】
海原家の仏壇に、新しい位牌が二つ置かれていた。
「海原シグル」「海原ミユ」と書かれた、小さな木の札。
母親は、なぜ自分がこの位牌を作ったのか思い出せなかった。
でも、毎朝、この二つの位牌に向かって手を合わせることが、自然に感じられた。
「おはよう」
母親が小さく呟く。
すると、位牌の前に置かれた水の入ったコップに、小さな波紋が立った。
誰も触れていないのに。
でも、母親はそれを不思議に思わなかった。
きっと、風のせいだろうと思った。
そして、コップの水面に、一瞬だけ映った。
二人の子供が並んで微笑んでいる姿が。
でも、それも風のいたずらだろうと、母親は思った。
朝日が仏壇を照らし、位牌が静かに光っていた。
その光の中で、「ありがとう」という声が聞こえたような気がした。
でも、それは風の音だった。
きっと、風の音だった。
だから、母親は涙を流した理由がわからなかった。
でも、その涙は悲しい涙ではなかった。
なぜだか、とても温かい涙だった。
―――
音無町の学校に、一枚の集合写真が残されている。
三年前の卒業アルバムの写真。
そこには、たくさんの生徒たちが並んで写っている。
でも、よく見ると、一部の生徒の顔がぼんやりと霞んで見える。
まるで、水の中にいるように。
でも、誰もそれを不思議に思わない。
きっと、写真が古くなったからだろうと思っている。
そして、時々、その写真を見つめている人がいる。
なぜその写真に惹かれるのか、本人にもわからない。
ただ、見ていると心が落ち着く。
まるで、大切な人に見守られているような気持ちになる。
その人は、写真の前で小さく呟く。
「元気でいてね」
誰に向かって言っているのか、わからないまま。
でも、その言葉は確かに誰かに届いている。
水の向こうの、遠い場所に。
そして、写真の中の霞んだ顔が、一瞬だけ微笑んだような気がした。
でも、それは光のいたずらだった。
きっと、光のいたずらだった。
そうやって、音無町の人々は生きていく。
何かを忘れてしまったような気持ちを抱えながら。
でも、その忘れ物が何だったのかは、思い出せないまま。
ただ、時々、水の音を聞くと心が安らぐことだけが、確かにあった。
そして、水は今日も流れている。
全ての記憶を運んで、海へと向かって。
その流れの中に、小さな声が混じっている。
「ありがとう」
「さようなら」
「また会えますように」
たくさんの、優しい声が。
でも、それは風の音だった。
きっと、風の音だった。
だから、誰も振り返らない。
振り返ってはいけない。
なぜなら、振り返った時、本当に聞こえてしまうかもしれないから。
水の底から響く、愛する人の声が。
音無湖は、今日も静かに波紋を描いている。
全ての声を抱いて、永遠に。