第6章:水葬儀
1. 記憶の水面
シグルの手のひらに、雨が冷たく落ちていく。
霧川イサナと向かい合うように立った彼は、彼女の瞳の奥に映る水面を見つめていた。そこには確かに、あの日の光景が揺らめいている。湖の畔で、妹のミユが手を伸ばしていた。助けを求めるように。だが、その記憶の中で、手を伸ばしていたのは――。
「違う」イサナが震え声で呟く。「違うの。あなたが覚えているのと、全然違う」
シグルの胸に、氷のような予感が走った。
「何が違うって?」
「手を伸ばしていたのは、ミユちゃんじゃない」イサナの瞳から、一筋の涙が流れ落ちる。「あなただった。あなたが、湖の中から手を伸ばして――」
その瞬間、シグルの記憶の水面が激しく波打った。
湖。夏の午後。蝉の声。そして――。
「やめろ」シグルは頭を抱えた。「そんなはずはない。俺はミユを助けられなかった。俺は岸にいて、ミユが溺れるのを見ていただけで――」
「あなたは湖の中にいた」イサナの声が、雨音に混じって響く。「私たちが駆けつけたとき、あなたは既に水の底に沈んでいて。ミユちゃんは岸で泣いていた。『お兄ちゃんが帰ってこない』って」
シグルの視界が歪んだ。
記憶が、まるで水に溶けた絵の具のように滲んでいく。
2. 水鏡の真実
「水視体質」――イサナが持つその能力は、水面に過去の記憶を映し出すことだった。だが彼女にとって、それは呪いでもあった。なぜなら水は決して嘘をつかないから。水に映る記憶は、どれほど痛々しくても、どれほど受け入れ難くても、真実そのものだから。
雨に濡れた校庭の水たまりに、イサナは手をかざした。
「見て」彼女は震える声で言った。「本当のことを」
水面が揺らめき、そこに映像が浮かび上がる。
十年前の夏。音無湖の畔。
子供たちの笑い声。水遊びに興じる姿。そして――事故。
だが、シグルが記憶していたものとは、全てが逆だった。
水面に映る光景の中で、湖に落ちたのはシグル自身だった。足を滑らせ、深みにはまり、必死にもがきながら岸に向かって手を伸ばす少年。そして岸では、妹のミユが泣き叫びながら大人を呼びに走っていく。
「嘘だ」シグルは水たまりを蹴り飛ばした。「俺の記憶では――」
「あなたの記憶は『水葬儀』で書き換えられた」イサナが言う。「町の人たちが、真実を隠すために」
3. 禁忌の儀式
『水葬儀』。
音無町に古くから伝わる、禁断の儀式。
死者の魂を水に溶かし、生者の記憶に混ぜ込むことで、死と生の境界を曖昧にする。それは本来、愛する者を失った悲しみを和らげるための、慈悲の儀式だった。
だが、その儀式には恐ろしい副作用があった。
記憶を混ぜ合わせる過程で、死者と生者の存在そのものが入れ替わってしまうことがある。死んだ者が生きていると錯覚し、生きている者が死んだと思い込む。そして最終的には、どちらが本当に生きているのか、誰にも分からなくなる。
「あの日、あなたは確かに溺れ死んだ」イサナの声が、雨音に溶けていく。「でも町の人たちは、ミユちゃんがあまりにも泣くから、可哀想に思って――」
「水葬儀を行った」シグルが呟く。
「そう。あなたの魂を生者の記憶に混ぜて、『生きている』ことにした。そして本当のことを知っているのは、儀式を執り行った一部の大人たちだけ」
シグルの膝が、ガクリと崩れ落ちた。
雨に濡れた地面に手をつき、彼は荒い息を吐く。
「じゃあ、俺は――」
「死んでいる」イサナが答える。「十年前から、ずっと」
4. 歪んだ愛情
水たまりの映像は、さらに続いた。
水葬儀の夜。音無湖の畔に集まった町の大人たち。祭壇に供えられた水盃。そして、その中に溶かされていく、シグルの髪の毛、爪、血――。
儀式を執り行う老婆が、古い言葉で詠唱を始める。
『死せる魂よ、水に還れ。生きる者の記憶に宿り、再び歩め』
水盃の水が、不気味に光る。
そして、その水は小さな器に分けられ、町の人々――特に、シグルを知る子供たちに飲まされた。
「みんな、あなたのことを忘れたくなかった」イサナが涙を拭う。「だから『生きている』ことにした。でもそのせいで――」
「ミユの記憶も歪んでしまった」
シグルは理解した。妹のミユが時々見せる、不自然な表情。まるで彼の存在を疑うような、困惑した眼差し。それは彼女の心の奥底で、真実と作られた記憶が激しく葛藤していたからだ。
「ミユちゃんは覚えてる」イサナが続ける。「本当は兄が死んだってことを。でも同時に、『兄は生きている』という偽の記憶も植え付けられてる。だから彼女の心は、ずっと引き裂かれてる」
5. 雨師ノ神の正体
雨が激しくなってきた。
校庭に立つ二人の周りで、無数の水たまりが踊るように波打っている。そしてその全ての水面に、同じ映像が映り始めた。
音無湖。そして、その湖底に沈む無数の骸骨。
「あの湖では、昔から人が死んでいた」イサナが震え声で説明する。「事故、自殺、時には殺人も。でも町の人たちは、その度に水葬儀を行って、死者を『生きている』ことにしてきた」
シグルの背筋に、氷のような恐怖が走った。
「まさか――」
「そう。雨師ノ神の正体は、水葬儀で『生きている』ことにされた死者たちの集合意識」イサナの瞳が、絶望に満ちている。「みんな、自分が本当は死んでいることに気づいて、怒り狂ってる。だから生きている人間の名前を奪って、本当に生き返ろうとしてる」
水たまりの映像が変わった。
湖底の骸骨たちが、ゆらりと立ち上がる。そして水面に向かって、無数の手が伸ばされていく。それは祈りにも見えるし、呪いにも見えた。
『名前を返せ』
『記憶を返せ』
『生を返せ』
無数の声が、雨音に混じって響いてくる。
6. 選択の時
「でも、まだ方法はある」イサナが立ち上がった。「水葬儀を逆行させれば、死者は本来の姿に戻る。そうすれば雨師ノ神も鎮まる」
「逆行?」
「死者の記憶を生者から取り除くの。そうすることで、死者は安らかに眠ることができる」
シグルは理解した。それは即ち、自分の存在が人々の記憶から完全に消去されることを意味していた。
「俺が消えれば、ミユの苦しみも終わる」彼は呟いた。
「でも」イサナが躊躇する。「それは、あなたが本当に死ぬことでもある。今まではまだ、人々の記憶の中で生きていた。でも記憶から消えてしまえば――」
「何も残らない」
シグルは空を見上げた。雨が、まるで涙のように頬を伝う。
だが不思議と、恐怖はなかった。むしろ、長い間胸の奥にあった重いものが、ようやく解放されそうな予感があった。
「俺は、もう十分に生きた」彼は微笑んだ。「十年間、ミユのそばにいることができた。それだけで十分だ」
7. 水の記憶
イサナは泣いていた。
「でも、私はあなたのことを忘れたくない」
「忘れなくていい」シグルが彼女の手を取る。「君の『水視体質』なら、俺の本当の記憶を水の中に残せるだろう?」
イサナの瞳が、希望の光を宿した。
「そうね。水は、全てを覚えてる」
「じゃあ、頼む」シグルは校庭の中央に歩いていく。「俺の本当の記憶を、この雨に託してくれ」
雨が、二人を包み込んだ。
イサナが手をかざすと、雨粒の一つ一つが光り始める。そしてその中に、シグルの記憶が溶け込んでいく。
妹と過ごした幸せな日々。
一緒に見た夕焼け。
一緒に食べたかき氷。
一緒に追いかけた蝶々。
そして、最後に湖で溺れる瞬間の、安らかな諦め。
「ありがとう、ミユ」シグルが雨の中で呟く。「君が、俺のことを忘れられないでいてくれて。君が、俺を愛してくれて」
雨音の中に、ミユの泣き声が聞こえた。
『お兄ちゃん――』
8. 消失
水葬儀の逆行が始まった。
町中の人々の記憶から、シグルの存在が少しずつ薄れていく。まるで水に落とした墨汁が拡散するのと逆の現象が起きているかのように、彼に関する記憶が一点に収束し、そして消えていく。
学校の教室から、彼の机が消えた。
家族写真から、彼の姿が薄れた。
友人たちの会話から、彼の名前が抜け落ちた。
だが同時に、人々の心から重い枷が外れていく。
特に、ミユの表情が劇的に変わった。長い間彼女を苦しめていた混乱と矛盾が解消され、穏やかな悲しみだけが残った。愛する兄を失った、自然な悲しみが。
『お兄ちゃんは死んじゃった』
『でも、私は大丈夫』
『ちゃんと、一人で生きていけるから』
9. 水面の約束
シグルの姿が、雨の中に溶けていく。
だが彼の記憶は、雨粒の中に永遠に刻まれた。そしてその雨は、音無湖に注がれ、地下水となり、やがて再び雲となって空に昇る。
イサナだけが、その循環を見ることができた。
「いつか、また雨の日に」彼女は呟く。「あなたの声を聞かせて」
水たまりの表面が、静かに揺らめいた。
そこには、微笑むシグルの顔が映っている。口は動かないが、彼の言葉がイサナの心に響いた。
『ありがとう。みんなに、ありがとうと伝えて』
そして、水面の彼の姿も、ゆっくりと消えていった。
10. 鎮魂
その夜、音無湖は静寂に包まれた。
長い間湖底で苦しんでいた死者たちの魂が、ようやく安らぎを得たのだ。雨師ノ神もまた、その役目を終えて眠りについた。
湖面に月が映り、その光が水底まで届く。
そこには、もう骸骨はなかった。ただ、美しい水草が揺らめいているだけ。
翌朝、町の人々は不思議な清々しさを感じた。長い間胸を圧迫していた何かが取り除かれたような、解放感があった。
だが、誰もその理由を思い出すことはできなかった。
ただ一人、イサナだけが知っている。
雨の日になると、彼女は必ず窓辺に立つ。そして雨粒に手をかざし、その中に宿る記憶を静かに見つめる。
愛する兄を守るために、自らを犠牲にした少年の記憶を。
そして時々、雨音に混じって聞こえる、優しい声を。
『元気でな、ミユ』
それは、永遠に続く兄妹の絆だった。
水に溶けても、決して失われることのない――。