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第5章:水鏡ノ中ノ私


雨が降り続いている。


三日前から止むことなく、町を包み込むように降り続いている。窓の外を眺めると、道路には水たまりが無数にでき、まるで町全体が巨大な鏡の破片に覆われているようだった。


シグルは自分の部屋で、膝を抱えて座っていた。


昨夜のことが頭から離れない。霧川イサナが語った"水難事故"の真相。そして、妹のミユが病院のベッドで眠り続けているという現実。


「僕は……何を見ていたんだ」


これまでミユと過ごしてきた記憶が、まるで霧のように曖昧になっていく。朝食を一緒に食べた記憶。学校の帰り道で話した会話。夜、彼女が「おやすみ」と言って部屋に戻っていく後ろ姿。


それらすべてが、本当にあったことなのだろうか。


シグルは立ち上がり、洗面台の鏡の前に立った。鏡に映る自分の顔を見つめる。いつもの自分の顔だった。少し青白く、目の下にうっすらとクマができている。でも確かに、自分の顔だった。


「シグル」


振り返る。誰もいない。


また聞こえた。今度は確実に聞こえた。自分の名前を呼ぶ声が。


「シグル」


声は洗面台の方から聞こえてくる。シグルは恐る恐る鏡を見た。


鏡の中に、もう一人の自分がいた。


いや、正確には違う。鏡に映っているのは自分の姿だが、その表情が違っていた。鏡の中の自分は、悲しそうに微笑んでいる。そして、口を動かしている。


「やっと……気づいてくれたね」


鏡の中の自分が話しかけてくる。シグルは後ずさりした。


「君は……誰だ」


「僕はシグル。君と同じ、海原シグル」


「そんなはずはない。僕が海原シグルだ」


「そうだね。僕たちは同じ人間だ。でも……」


鏡の中のシグルは、頭を振った。


「でも、君は僕じゃない。君は僕の代わりに、ここにいる」


## 2


シグルは鏡から目を離せなかった。鏡の中の自分——もう一人のシグルは、水の中にいるように見えた。髪が水に濡れ、服も水を含んで重そうにしている。


「君は覚えているかい?あの日のことを」


鏡の中のシグルが問いかける。


「あの日?」


「ミユと一緒に湖に行った日。君は妹を助けようとして……」


記憶が蘇ってくる。断片的に、しかし鮮明に。


あの日、ミユは泣いていた。クラスの友達と喧嘩をしたからだった。シグルは妹を慰めるために、二人で湖畔を散歩することにした。


「ねえ、お兄ちゃん。私、みんなに嫌われちゃったのかな」


「そんなことないよ。明日になったら、きっと仲直りできる」


湖は静かだった。風もなく、水面は鏡のように平らで、空の雲を映していた。


そのとき、ミユが足を滑らせた。


湖に落ちる妹。シグルは迷わず飛び込んだ。でも、水は思っていたよりもずっと深く、冷たかった。ミユを掴もうとしたが、手が届かない。水の中で必死にもがいた。息ができない。肺が苦しい。


そして——


「君は溺れた」


鏡の中のシグルが静かに言った。


「君は妹を救うことができずに、湖の底に沈んだ。でも、死にたくなかった。だから……」


「だから?」


「雨師ノ神に願った。『妹を守らせてください』と」


シグルの頭の中で、パズルのピースがはまっていく。


「雨師ノ神は君の願いを聞き入れた。君を"生きている者"として、この世界に送り返してくれた。でも、それは本当の生ではなかった。君は水の中にいる存在として、陸上での生活を"演じて"いるだけだった」


鏡の中のシグルは、悲しそうに続けた。


「そして君は、本当は生きているミユを『死んだ妹』として記憶を改ざんした。君が生きていることを正当化するために」


## 3


シグルは膝から崩れ落ちた。


すべてが逆だった。死んだのは自分で、生きているのがミユだった。


「じゃあ、今まで僕が見てきたミユは……」


「君が作り出した幻影。君の罪悪感と愛情が生み出した、『守りたかった妹』の姿」


鏡の中のシグルの声が、水の底から響いてくるように聞こえる。


「でも、ミユは本当は生きている。病院で眠り続けているんだ。君が溺れたあの日から、ずっと」


「なぜだ?なぜミユが眠り続けているんだ?」


「君が死んだショックで、彼女の心は深い眠りについてしまった。そして今も、君を待っている。君が『お兄ちゃん』として戻ってくることを」


シグルは鏡に手を伸ばした。鏡の向こうの自分も同じように手を伸ばす。二人の手のひらが、冷たいガラスを挟んで重なった。


「僕は……死んでいるのか」


「そうだ。君は三年前に死んでいる。でも、死を受け入れることができずに、この中途半端な状態でさまよい続けている」


鏡の表面に水滴が浮かび上がってくる。まるで鏡の向こうから水が染み出してくるように。


「君が本当に安らかに眠るためには、ミユを解放しなければならない。彼女の心の中から、君の死の記憶を取り除いて」


「でも、それをしたら……」


「君は消える。完全に、この世界から」


シグルは震える手で鏡に触れた。鏡は冷たく、そして濡れていた。


「ミユは目を覚ますのか?」


「分からない。でも、少なくとも君の死に縛られることはなくなる。彼女は自分の人生を歩むことができる」


部屋の外で雷が鳴った。雨の音が激しくなる。


「選択の時が来ている、シグル」


鏡の中のシグルが言った。


「君は自分の存在に固執し続けるか、それとも妹の未来のために消えるか」


## 4


シグルは立ち上がり、窓の外を見た。雨に打たれた街並みが、まるで水の中にいるようにゆらゆらと揺れて見える。


「もし僕が消えたら、ミユは僕のことを忘れてしまうのか?」


「きっと覚えているよ。愛しい兄の記憶として。でも、それは死の記憶ではなく、生きていた頃の温かい記憶として」


鏡の中のシグルは微笑んだ。


「君は良い兄だった。ミユを愛し、守ろうとした。その気持ちは本物だった」


シグルの目から涙がこぼれた。涙は床に落ち、小さな水たまりを作る。


「僕は……怖いんだ。消えてしまうのが」


「怖くて当然だ。でも、君はもう十分に頑張った。もう休んでもいいんだ」


雨の音が次第に小さくなっていく。嵐が過ぎ去ろうとしている。


シグルは鏡を見つめた。鏡の中の自分——本当の自分が、静かに頷いている。


「分かった」


シグルは小さくつぶやいた。


「僕は……選択する」


鏡の表面に手を当てる。今度は、手が鏡の中に入っていくような感覚があった。まるで水の中に手を差し入れるように。


「ありがとう、シグル」


鏡の中の自分が言った。


「君は僕の中で、永遠に生き続ける」


鏡の表面が波打ち始めた。まるで湖面に石を投げ込んだときのように、同心円状の波紋が広がっていく。


そして、鏡の中のシグルがゆっくりと沈んでいく。水の中に還っていく。


「さよなら」


シグルは鏡に向かって手を振った。


鏡の向こうから、かすかに声が聞こえた。


「さよなら。そして……ありがとう」


## 5


気がつくと、シグルは病院の前に立っていた。


いつの間にか雨は止み、夕日が雲の合間から射し込んでいる。濡れたアスファルトが夕日を反射して、きらきらと光っている。


病院の入り口の自動ドアが開く。シグルは歩き始めた。


廊下を歩いていると、看護師とすれ違った。しかし、看護師はシグルに気づかない。まるでシグルが透明人間であるかのように。


「やっぱり……僕は死んでいるんだ」


シグルは悲しくなかったし、怖くもなかった。ただ、すべてを理解した安らぎがあった。


ミユの病室に着く。ドアの前で立ち止まり、深呼吸をする。


「ミユ……」


ドアを開けると、白いベッドの上で眠る妹の姿があった。顔は穏やかで、まるで美しい夢を見ているかのようだった。


シグルはベッドの横の椅子に座った。ミユの手を取る——しかし、触れることはできなかった。手がすり抜けてしまう。


「ミユ、僕だよ。シグル」


ミユの眉がわずかに動いた。


「お兄ちゃん……?」


ミユが目を開けた。しかし、その視線はシグルを通り過ぎて、どこか遠くを見つめている。


「お兄ちゃん、どこにいるの?」


「僕はここにいるよ。でも……もうすぐいなくなる」


ミユには聞こえているのかいないのか分からなかったが、シグルは続けた。


「ミユ、僕のことは忘れて。君は自分の人生を生きて。友達を作って、恋をして、たくさん笑って、たくさん泣いて」


ミユの頬に涙が流れた。


「お兄ちゃん……ごめんなさい。私があの日、湖に行こうなんて言わなければ……」


「違うよ、ミユ。君は何も悪くない。僕が勝手に飛び込んだんだ。君を守りたくて」


シグルの体が薄くなっていく。まるで朝霧が日光に溶けていくように。


「僕は君を愛している。この気持ちだけは、永遠に変わらない」


ミユが微笑んだ。その笑顔は、シグルが知っている中で一番美しいものだった。


「お兄ちゃんも、愛してる」


シグルの姿が完全に消える直前、窓の外で虹が架かった。雨上がりの空に、七色の橋が美しく弧を描いている。


「さよなら、ミユ」


シグルの声が風のように消えていく。


病室には、静かに眠るミユだけが残された。でも今度は、安らかな眠りだった。悪夢ではなく、温かい夢を見ているような、穏やかな表情で。


## エピローグ


一週間後、ミユは目を覚ました。


医師も看護師も、そして両親も驚いた。三年間眠り続けていた少女が、まるで何事もなかったかのように目を開けたのだから。


「おはよう」


ミユの最初の言葉だった。


「お兄ちゃんの夢を見たの。とても優しい夢だった」


両親は涙を流した。ミユは兄のことを覚えていたが、それは死の記憶ではなく、生きていた頃の温かい記憶として心に刻まれていた。


退院の日、ミユは病院の中庭の池を見つめた。


池の水面に映る自分の顔を見ながら、小さくつぶやいた。


「ありがとう、お兄ちゃん」


水面に小さな波紋が広がった。風が吹いたのか、それとも——


ミユは微笑んで、新しい人生へと歩き出した。


空には、もう雲は一つもなかった。

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