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第4章:誰が沈んだのか


雨が止んだ朝、シグルは鏡台の前で自分の顔を見つめていた。


昨夜の出来事が夢だったのか、それとも現実だったのか、もはや判然としない。霧川イサナの言葉が耳に残っている。『あなたは本当に、妹さんを失ったのですか』。


鏡の中の自分は、いつもより青白く見えた。頬に触れると、ひやりと冷たい。まるで水に濡れているような。


「シグル、朝ごはんよ」


母の声が階下から聞こえてくる。いつもと変わらない、穏やかな調子だった。シグルは立ち上がり、階段を降りる。


食卓には、いつものように二人分の朝食が並んでいる。母は台所で味噌汁をよそっていた。


「ミユの分は?」


シグルが尋ねると、母の手が止まった。振り返った母の表情には、深い困惑が浮かんでいる。


「ミユって……誰のこと?」


心臓が跳ね上がった。


「妹だよ。僕の妹の、ミユ」


「シグル……」母は心配そうに眉を寄せた。「あなたに妹なんていないでしょう? 一人っ子よ、あなたは」


嘘だ、とシグルは思った。確かにミユはいる。三つ年下の、人懐っこい笑顔の妹が。あの湖で溺れて、それから——


それから、どうなったのだろう。


シグルは慌てて自分の部屋に戻り、写真立てを探した。ミユと一緒に撮った写真があるはずだ。夏祭りの日の、浴衣姿の写真が。


だが、どこを探しても見つからない。


写真立てには、シグル一人の写真だけが収められていた。


## 二


学校でも、誰もミユのことを知らなかった。


「海原の妹? そんな子、見たことないよ」


クラスメイトたちは首を振る。シグルが必死に説明しても、彼らの表情には困惑と心配しかない。


昼休み、シグルは保健室を訪れた。養護教諭の佐々木先生なら、何か知っているかもしれない。


「先生、僕に妹がいたこと、覚えていませんか?」


佐々木先生は怪訝な顔をした。


「海原くん、あなたは一人っ子よ。入学時の家族構成を見ても、お父さんとお母さんの三人家族になってる」


「でも、確かにミユは——」


「ミユちゃん?」


佐々木先生の表情が、一瞬強張った。


「どうしてその名前を知ってるの?」


「僕の妹の名前です」


佐々木先生は長い間、シグルを見つめていた。やがて小さくため息をついて、椅子に座り直す。


「海原くん、あなたは七年前の水難事故のこと、覚えている?」


シグルの胸がざわついた。七年前——ちょうどミユが湖で溺れた時期だ。


「はい。妹が溺れて……」


「違うのよ」佐々木先生は静かに首を振った。「あの事故で亡くなったのは、海原ミユちゃん一人じゃない。合計で五人の子供たちが湖に沈んだの。そして——」


佐々木先生の声が震えた。


「生き残ったのは、霧川イサナちゃんだけだった」


世界が傾いた。


「でも僕は——僕も生きてます」


「あなたは事故の現場にいなかった」佐々木先生は困ったような顔をした。「家族旅行で東京に行ってたのよ。だから事故のことを知ったのは、帰ってきてからだった」


違う。それは違う。シグルは確かにあの場にいた。ミユの手を掴もうとして、届かなくて——


「先生、僕の記録を見せてください」


「記録?」


「七年前の、僕の行動記録です。学校の出席簿でも、病院の記録でも」


佐々木先生は渋りながらも、職員室から書類を持ってきた。七年前の夏休み中の記録。確かにそこには『家族旅行のため欠席』と記されている。


日付も間違いない。ミユが溺れた、まさにその日だった。


## 三


放課後、シグルは湖に向かった。


真相を確かめるために。自分の記憶が正しいのか、それとも皆の言うとおりなのか。


湖畔に着くと、霧川イサナが一人で水面を見つめていた。


「来ると思った」イサナは振り返らずに言った。「気がついたのね」


「僕の記憶は間違っているの?」


「記憶は、いつも正しいとは限らない」イサナは水面に手を伸ばした。「特に、水に関わる記憶は」


イサナの指先が水面に触れると、湖の表面に波紋が広がった。そして——映像が浮かび上がる。


七年前の夏の日。湖で遊ぶ子供たちの姿。


シグルは息を呑んだ。確かにそこに、自分がいる。ミユの手を引いて、湖の浅瀬で遊んでいる自分が。


「これが真実よ」イサナは囁いた。「あなたも、あの日湖にいた」


映像の中で、子供たちが湖の深い部分に向かっていく。危険だと分かっているのに、何かに誘われるように。


そして——


映像が揺れた。水しぶきが上がり、子供たちの悲鳴が響く。一人、また一人と水の中に消えていく。


シグルも、その中にいた。


「違う」シグルは頭を振った。「僕は助かった。ミユだけが——」


「本当に?」


イサナの問いかけに、シグルの記憶が再び混乱した。確かに自分は湖から上がった。陸に這い上がって、ミユを探して——


いや、違う。


本当は——


映像の続きが流れる。水に沈んでいく子供たちの中に、確かにシグル自身の姿があった。水を飲み込み、意識を失い、湖底に沈んでいく自分が。


「あなたも死んだのよ、シグル」イサナの声が遠くから聞こえる。「七年前のあの日に」


## 四


水面の映像が消えると、シグルは膝から崩れ落ちた。


全身が震えている。理解したくない真実が、胸の奥で暴れている。


「じゃあ、今の僕は何なの?」


「水に還った者」イサナは振り返った。その瞳は、深い哀しみに満ちている。「死者でありながら、生者として記憶を再構築された存在」


「そんなことが可能なの?」


「水神さまの力よ」イサナは湖の奥を指差した。「この土地の神は、死者の記憶を操ることができる。特に、水死した者の記憶を」


シグルは自分の胸に手を当てた。心臓が動いている。確かに脈打っている。


「でも僕は生きてる。温かいし、呼吸もしている」


「それも記憶よ」イサナは悲しそうに微笑んだ。「あなたは自分が生きていると思い込んでいるだけ。実際には——」


イサナが指を鳴らすと、シグルの体が急に冷えた。氷のように冷たくなり、呼吸が浅くなる。


「やめて」シグルは震え声で言った。


イサナが手を下ろすと、再び温かさが戻った。


「記憶の操作を解けば、あなたは本来の姿に戻る」イサナは言った。「水の中で眠る、七年前の少年に」


「なぜ」シグルは唇を震わせた。「なぜ僕だけが、こんな風に……」


「あなただけじゃない」


イサナの答えに、シグルは顔を上げた。


「他の死んだ子供たちも、同じように生きている記憶を与えられている。ただし、それぞれ別の場所で、別の家族として」


「ミユも?」


「そう。ミユちゃんも、どこかで『兄を亡くした妹』として生きている。あなたのことを知らずに」


シグルの胸が張り裂けそうになった。ミユは生きている。でも、自分のことを覚えていない。


「なぜ水神は、そんなことを?」


「償いよ」イサナの声に、深い悲しみが滲んだ。「昔、この町の人々は水神を封印した。そのとき、多くの子供たちが犠牲になった。水神は、その子供たちに『生きる記憶』を与えることで、自分の罪を償おうとしている」


「でも、それは偽りの人生じゃないか」


「偽りでも、幸せなら……」イサナは言いかけて、口をつぐんだ。


シグルは立ち上がった。体が軽い。まるで水に浮いているような感覚だった。


「僕はどうすればいい?」


「選ぶのよ」イサナは湖を見つめた。「このまま偽りの記憶と共に生き続けるか、それとも真実を受け入れて水の底に還るか」


風が吹いて、湖面に小さな波が立った。その向こうから、誰かの声が聞こえてくる。


『お兄ちゃん』


ミユの声だった。


『お兄ちゃん、こっちに来て』


シグルは一歩、湖に向かって歩いた。足が水に触れると、不思議と安らぎを感じた。


『一緒にいよう、お兄ちゃん』


ミユの声が、だんだん近くなる。


## 五


「待って」


イサナの声に、シグルは足を止めた。


「本当にそれでいいの?」


シグルは振り返った。イサナの瞳に、涙が浮かんでいる。


「あなたが水に還れば、この世界でのあなたの記憶は全て消える。あなたを愛している人たちの記憶からも、あなたは消えてしまう」


「僕を愛している人?」


「お母さんよ」イサナは言った。「確かにあなたは死んでいる。でも、水神さまがあなたに与えた『生きている記憶』は、お母さんにも共有されている。お母さんは心から、あなたを愛している」


シグルは母の顔を思い浮かべた。朝食を作ってくれる優しい手。心配そうに見つめる瞳。


「それも偽りの愛なの?」


「愛に偽りも真実もない」イサナは首を振った。「感情だけは、記憶を超えて本物になる」


シグルは混乱した。何が真実で、何が偽りなのか。もはや分からない。


湖の向こうから、再びミユの声が聞こえてくる。


『お兄ちゃん、寂しいよ』


『一人でずっと待ってたの』


『早く来て』


シグルは水の中に、もう一歩踏み出した。冷たい水が膝まで上がってくる。


「シグル」


今度は別の声がした。振り返ると、母が湖畔に立っている。


「お母さん?」


母は涙を流していた。


「お願い、行かないで」


「でも僕は——」


「あなたは私の大切な息子よ」母は必死に手を伸ばした。「死んでいようが生きていようが、関係ない。あなたは私の子供」


「記憶が作られたものでも?」


「記憶なんてどうでもいい」母は泣きながら言った。「私があなたを愛していることだけは、絶対に嘘じゃない」


シグルの胸が熱くなった。これほど愛されていることを、初めて実感した。


『お兄ちゃん……』


ミユの声が、だんだん弱くなっていく。


『いいの……お母さんと一緒にいて』


『私は大丈夫だから』


「ミユ」シグルは湖に向かって呼びかけた。「本当にいいの?」


『お兄ちゃんが幸せなら』


ミユの声が最後に、小さく響いた。


『私も幸せよ』


## 六


シグルは水から上がった。


母が駆け寄って、濡れた体を抱きしめる。


「ありがとう」母は涙声で囁いた。「帰ってきてくれて」


シグルも母を抱きしめ返した。偽りの記憶かもしれない。死者の幻想かもしれない。


でも、この温かさだけは本物だった。


「僕も、お母さんを愛してる」


イサナが、そっと微笑んでいる。


「これでよかったのよ」イサナは言った。「水神さまも、きっと安心している」


夕日が湖面を赤く染めている。静かで、美しい光景だった。


「イサナちゃん」シグルは尋ねた。「君はどうするの?」


「私は……」イサナは少し考えてから答えた。「この湖を守る。死者と生者の境界を見張って、誰も間違いを犯さないように」


「一人で?」


「一人じゃない」イサナは湖を見つめた。「みんなが一緒にいてくれる。水の底で、静かに見守ってくれている」


シグルは理解した。イサナは生存者だが、同時に死者たちの声を聞く役割を負っている。


「時々、会いに来てもいい?」


「もちろん」イサナは頷いた。「でも、もう水の中には入らないで」


「約束する」


母に手を引かれながら、シグルは湖を後にした。


振り返ると、イサナが手を振っている。湖面には、夕日に照らされて、たくさんの人影が映っているような気がした。


ミユもその中にいるのだろうか。


『大丈夫』


風に運ばれて、ミユの声が聞こえたような気がした。


『お兄ちゃんは、ちゃんと生きてるから』


シグルは空を見上げた。星が一つ、きらめいている。


死者でありながら生者として生きる。矛盾した存在だけれど、愛は確かにここにある。


それで十分だった。


## 七


その夜、シグルは日記を書いた。


『今日、僕は本当の自分を知った。死んでいるかもしれないし、生きているかもしれない。でも、どちらでもいいと思う。


大切なのは、愛する人がいて、愛してくれる人がいることだ。


ミユは水の底にいる。でも、きっと幸せでいてくれる。僕も、この記憶と共に生きていこう。


偽りかもしれないけれど、この人生を大切にしよう』


日記を閉じると、窓の外から雨の音が聞こえてきた。


優しい雨だった。


水たまりに、誰かの名前が映っているかもしれない。でも、もう怖くない。


シグルは安らかに眠りについた。


そして夢の中で、ミユと一緒に笑っていた。

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