第2章:溺れる記憶
水が引いた。
朝が来ると、音無町は何事もなかったかのように元の姿を取り戻していた。校庭に水たまりの痕跡すらない。昨夜の惨劇が幻だったかのように、町は静寂に包まれていた。
けれど、僕の記憶は確かだった。あの巨大な眼、水の中を歩く死者たち、そして最後に聞いた声――「お帰りなさい」。
登校途中、僕は何度も立ち止まって振り返った。誰かに見られているような、追いかけられているような感覚が拭えない。けれど、そこには普通の朝の風景があるだけだった。
「おはよう、シグル」
校門でイサナが待っていた。彼女の顔には疲労の色が濃く、まるで一睡もしていないようだった。
「昨夜のこと、覚えてる?」僕は小声で尋ねた。
「当然よ」イサナが頷いた。「でも、他のみんなは忘れてる。まるで何も起こらなかったみたいに」
教室に入ると、クラスメイトたちは普段と変わらない様子で談笑していた。昨日あれほどパニックになっていたのに、誰一人として昨夜の出来事に触れようとしない。
「おかしい」僕は呟いた。
「水が記憶を洗い流すのよ」イサナが答えた。「でも、完全には消えない。どこかに残ってる」
午前中の授業中、僕の意識は度々過去に飛んだ。三年前の夏、ミユと一緒に過ごした最後の日のことを思い出そうとしたが、記憶が霞んでいて、まるで水の中を覗き込むように曖昧だった。
あの日、僕たちは確かに湖に行った。町外れにある、底知れぬ深さの古い湖に。でも、なぜそこに行ったのか、誰が提案したのか、どうしても思い出せない。
「海原君」
古典の時間に、中川先生に名前を呼ばれて我に返った。
「万葉集のこの歌について、どう思いますか」
黒板に書かれた歌を読み上げる。
「水底の 玉に交じりて 我が恋ふる 君がみ姿 見らくし好しも」
水底の玉――その言葉が、僕の胸に突き刺さった。
「これは、水に沈んだ恋人を想う歌ですね」中川先生が解説を続ける。「古代の人々は、美しいものや愛するものが水に沈むことで、より美しく、より永遠になると考えていました」
永遠――。
その時、僕の脳裏に鮮明な映像が浮かんだ。
湖の畔に立つミユ。白いワンピースを着て、振り返る彼女の笑顔。そして、彼女が水に向かって歩いていく後ろ姿。
「やめて」僕は思わず声に出していた。
教室が静まり返った。
「海原君?」中川先生が心配そうに僕を見つめる。
「すみません」僕は慌てて頭を下げた。「なんでもありません」
授業が終わると、イサナが僕の元にやってきた。
「また見えたの? 記憶が」
僕は頷いた。「でも、断片的で。まるでパズルのピースがバラバラになったみたいに」
「それでいいのよ」イサナが呟いた。「一度に全部思い出したら、きっと壊れてしまうから」
昼休み、僕たちは図書室に向かった。音無町の歴史について調べるためだった。
司書の田中さんは、古い町の住人だった。七十を過ぎた小柄な女性で、いつも穏やかな笑顔を浮かべていたが、僕たちが水難事故について尋ねると、表情が一変した。
「なぜそんなことを知りたがるの?」田中さんの声が震えていた。
「学校の課題で」イサナが嘘をついた。「町の歴史について調べているんです」
田中さんは長い間僕たちを見つめていたが、やがて奥の書庫に消えていった。戻ってきた時、手には古い新聞の束を持っていた。
「これを見なさい」田中さんが新聞を広げた。「でも、決して口外してはいけません」
昭和六十二年八月十五日の新聞。一面に大きな見出しが躍っていた。
『音無湖で集団水難事故 町民27名が死亡』
記事を読み進めると、恐ろしい事実が明らかになった。
三十八年前の夏祭りの夜、音無湖で町の人々が集団で溺死したのだ。被害者は子どもから老人まで、町の人口の約三分の一に及んだ。
しかし、事故の原因については曖昧な記述しかなかった。「突然の増水」「謎の渦潮」「集団パニック」――どれも根拠に乏しい推測ばかりだった。
「本当は何があったんですか?」僕は田中さんに尋ねた。
「分からない」田中さんが首を振った。「生存者は誰も真実を語ろうとしなかった。みんな、記憶を失っていたのよ」
「記憶を?」
「水のせいだと言われていた」田中さんの声が小さくなった。「湖の水を飲んだ者は、記憶を失うと」
イサナと僕は顔を見合わせた。
「でも」田中さんが続けた。「一人だけ、違う証言をした人がいた」
「誰ですか?」
「当時まだ十歳だった女の子。彼女は言ったの。『みんな自分から水に入っていった』って」
僕の背筋に冷たいものが走った。
「自分から?」
「呼ばれたって言ってた。水の底から、誰かに名前を呼ばれて、みんなが水に向かって歩いていったって」
田中さんは新聞を閉じた。
「その女の子は、今でも町にいるわよ。霧川さんのお母さん」
イサナの顔が青ざめた。
「お母さんが?」
「あなたのお母さんは、あの事故の唯一の証人なのよ」田中さんが静かに言った。「でも、大人になってからは、決してその話をしようとしない」
図書館を出ると、イサナは足早に歩き始めた。
「イサナ、待って」僕は彼女を追いかけた。
「なぜ教えてくれなかったの? お母さんのこと」
イサナが振り返った。その瞳に涙が浮かんでいた。
「言えなかった」彼女が震え声で答えた。「お母さんは、あの日のことを思い出すたびに、苦しむの。だから、私も触れないようにしていた」
「でも、今起きていることと関係があるかもしれない」
「分かってる」イサナが頷いた。「だから、今夜、お母さんに聞いてみる」
その夜、僕は一人で湖に向かった。
なぜそんなことをしたのか、自分でも分からなかった。ただ、そうしなければならないような強い衝動に駆られていた。
月のない夜だった。湖面は漆黒に沈み、まるで巨大な穴が大地に開いているようだった。
湖畔に立つと、風もないのに水面が微かに波打っていた。
「ミユ」
僕は妹の名前を呼んだ。すると、湖面に波紋が広がった。
「ミユ、聞こえる?」
再び波紋。まるで返事をしているかのように。
そして、水面に何かが浮かんできた。
最初は影のように見えた。けれど、それがはっきりと人の形をしていることが分かった。
ミユだった。
水の中に立ち、僕を見上げている。その顔は確かに妹のものだったが、何かが違っていた。瞳が、生きている人間の瞳ではなかった。
「お兄ちゃん」
ミユの声が、水を通して聞こえてきた。
「なぜ来てくれなかったの?」
「ミユ? 本当にミユなの?」
「分からないの?」ミユが悲しそうに首を傾げた。「私よ。あなたの妹よ」
僕は湖畔にしゃがみ込んだ。水面に手を伸ばそうとして、躊躇した。
「あの日、何があったの?」僕は尋ねた。「僕には思い出せない」
「思い出したくないのね」ミユが言った。「辛いことだから」
「教えて」
ミユが水の中で微笑んだ。その笑顔は、生前と変わらず愛らしかった。
「あの日」ミユが語り始めた。「私たちは湖に来た。でも、遊びに来たんじゃない」
「じゃあ、なぜ?」
「儀式のため」
儀式――その言葉を聞いた瞬間、僕の記憶に何かが蘇った。
湖畔に集まった大人たち。白い服を着た人々。そして、中央に座る一人の老婆。
「雨師さまの儀式」ミユが続けた。「町の人々は、毎年この湖で儀式を行っていた。水神さまに、町の安全を祈るために」
「でも、その年は違った」
「何が?」
「私たちが選ばれた」ミユの表情が暗くなった。「水神さまに捧げる『供物』として」
僕の血が凍りついた。
「供物?」
「海原家の子どもたち。私とあなた。でも、最後の瞬間に――」
その時、湖面が激しく波立った。まるで何かが水底から立ち上がってくるかのように。
「いけない」ミユの表情が恐怖に歪んだ。「雨師さまが怒ってる。まだ話してはいけないのに」
「ミユ!」
湖面が渦を巻き始めた。ミユの姿が、その渦の中に吸い込まれていく。
「お兄ちゃん、逃げて」ミユが叫んだ。「まだ時じゃない。全部思い出すのは、まだ早すぎる」
「待って!」
僕は手を伸ばした。湖水に触れた瞬間、激しい痛みが脳を貫いた。
記憶の断片が、津波のように押し寄せてきた。
湖畔の儀式。白い服を着た町の人々。そして――。
僕が水に向かって歩いている。ミユの手を引いて。
いや、違う。ミユが僕の手を引いていた。
いや、それも違う。僕たちは一人だった。最初から一人だった。
「やめて!」
僕は手を湖から引き離した。頭痛が和らぎ、湖面も静かになった。
ミユの姿はもうそこにはなかった。
代わりに、湖面に僕自身の顔が映っていた。けれど、その顔は今の僕ではなく、三年前の僕だった。十三歳の、幼い顔。
そして、その映った顔が、僕に向かって笑いかけた。
僕は慌てて湖から離れた。足音を立てて走り、家に向かった。
振り返ると、湖面に巨大な眼が浮かんでいた。雨師の眼が、僕を見送っていた。
家に着くと、母が玄関で待っていた。
「シグル、どこに行ってたの?」母の声に怒りはなく、ただ心配だけがあった。
「散歩」僕は嘘をついた。
母は僕を見つめていたが、やがて首を振った。
「最近、変な夢を見るの」母が呟いた。「ミユが帰ってくる夢」
僕の心臓が跳ね上がった。
「どんな夢?」
「湖から上がってくるの。ずぶ濡れになって、でも笑顔で。そして言うの。『お母さん、ただいま』って」
母の瞳に涙が浮かんでいた。
「でも、夢の中のミユは、どこか違ってるの。まるで、ミユじゃない誰かが、ミユの皮を被ってるみたいに」
僕は何も言えなかった。
「シグル」母が僕の肩に手を置いた。「あなたも変な夢、見てない?」
僕は頷いた。嘘はつけなかった。
「最近、昔のことをよく思い出すの」母が続けた。「あなたが小さかった頃のこと。でも、記憶が曖昧で、まるで水の中を覗いているみたい」
「お母さん」僕は意を決して尋ねた。「三年前のこと、本当に覚えてる?」
母の表情が変わった。
「何を言ってるの?」
「ミユが死んだ日のこと。僕にも曖昧な記憶しかないんだ」
母は長い間黙っていた。やがて、小さな声で答えた。
「あなたが湖から戻ってきたの。一人で。ずぶ濡れになって、震えながら。そして言ったの。『ミユが沈んだ』って」
「でも、その後の記憶は?」
「ない」母が首を振った。「警察が来て、捜索が始まって、でもミユは見つからなくて。そのあたりの記憶が、どうしてもはっきりしない」
僕は母を見つめた。母も僕を見つめ返していた。
そして、二人とも同じことを考えていることが分かった。
あの日、本当は何があったのか。
なぜ僕だけが生き残ったのか。
そして、なぜ僕たちの記憶は、こんなにも曖昧なのか。
その夜、僕は夢を見た。
湖の底にいる夢だった。水の中で息をしながら、上を見上げている。水面の向こうに、誰かの影が見えた。
自分の影だった。
湖畔に立つ僕が、水底の僕を見下ろしていた。
そして、湖畔の僕が口を開いた。
「お疲れさまでした」
水底の僕も答えた。
「ありがとうございました」
まるで、交代の挨拶をしているかのように。
夢から覚めると、枕が濡れていた。涙ではなく、湖水の匂いがする水で。
翌朝、イサナから電話があった。
「お母さんが話してくれた」彼女の声が震えていた。「でも、信じられないことばかり」
「何て?」
「会って話す。今すぐ、学校で」
僕は急いで支度をして家を出た。
途中、湖の方角を見ると、空に黒い雲が立ち込めていた。まるで湖から立ち上る煙のように。
そして、その雲の中に、巨大な眼が浮かんでいるのが見えた。
雨師の眼が、町全体を見下ろしていた。
僕は走った。イサナが何を聞いたのか、早く知りたかった。
でも、心の奥底では分かっていた。
それを聞いた瞬間、僕の世界は完全に変わってしまうだろうということを。
そして、もう元には戻れないだろうということを。
学校の門が見えてきた時、空から雨が降り始めた。
でも、その雨は透明ではなかった。
微かに、血の匂いがした。