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第1章:水の名を呼ぶな

雨が止んだ。

音無町の六月は、いつも静寂に始まり、静寂に終わる。まるで町全体が水底に沈んでいるかのように、人々は口を閉ざし、足音さえも控えめに響かせながら日々を過ごしていた。

僕――海原シグルは、校舎の三階から見下ろす中庭の水たまりを眺めていた。昨夜の雨が作り上げた鏡面が、曇り空を映して鈍く光っている。まるで大地に穿たれた眼のようだ、とふと思った。

「また見てるの?」

背後から声をかけられて振り返ると、クラスメイトの霧川イサナが立っていた。彼女の瞳は、いつも水を湛えているような青さで、僕を見つめていた。

「別に。ただ、なんとなく」

イサナは僕の隣に立ち、同じように窓の外を見下ろした。彼女の髪からは、雨の匂いがした。いつもそうだった。雨が降っていない日でも、イサナからは水の気配が漂っていた。

「ねえ、シグル」彼女が小さな声で呟いた。「あの水たまりに、何か見える?」

「何って?」

「名前」

その一言で、僕の背筋に冷たいものが走った。名前――それは音無町では決して口にしてはいけない禁句だった。特に、水に関連する場所では。

「イサナ、そんなこと言っちゃダメだ」

「でも」彼女は僕の制止を無視して続けた。「昨日の夜から、ずっと聞こえるの。あそこから、誰かが名前を呼んでる」

僕は再び水たまりに視線を向けた。ただの雨水の溜まりにしか見えない。けれど、イサナの言葉を聞いた途端、その水面が微かに波打っているように思えてきた。

風もないのに。

「誰の名前?」思わず聞いてしまった。

「最初は分からなかった。でも、今朝になって、はっきりと」イサナの声が震えていた。「『ミユ』って」

その瞬間、僕の中で何かが凍りついた。ミユ――それは、三年前に湖で溺れ死んだ僕の妹の名前だった。

「そんなわけない」僕は無理に笑おうとしたが、声がかすれた。「ミユは、もう――」

「死んでる。分かってる」イサナが僕の言葉を遮った。「でも、聞こえるのよ。水の中から」

チャイムが鳴り、昼休みの終わりを告げた。生徒たちがぞろぞろと教室に戻り始める中、僕とイサナだけがその場に立ち尽くしていた。

五時間目は古典だった。担任の中川先生が、万葉集の歌について説明していたが、僕の頭には一向に入ってこなかった。窓の外の水たまりが、まるで生き物のように僕の意識を引きつけて離さない。

「水に宿る魂について詠んだ歌は数多くあります」中川先生の声が教室に響く。「古来より日本人は、水を単なる物質ではなく、霊的な存在として捉えてきました。特に――」

先生の言葉が途切れた。教室が、妙に静かになった。

僕は顔を上げた。中川先生が窓の外を見詰めている。他の生徒たちも、一斉に同じ方向を向いていた。

中庭の水たまりの前に、誰かが立っていた。

小さな影。子どもの体躯。そして、見覚えのある後ろ姿。

「ミユ?」

僕の口から、その名前が漏れ出た。教室が、一瞬で凍りついた。誰もが息を止めている。音無町では、死者の名前を口にすることは最大の禁忌だった。特に、水難事故で亡くなった者の名前は。

しかし、窓の向こうの小さな影は、僕の声に反応するように振り返った。

顔は見えなかった。距離がありすぎたから。けれど、僕には分かった。それは確かに、三年前に湖の底に沈んだ僕の妹だった。

「海原君」中川先生の声が震えていた。「席を立たないでください」

僕は自分が立ち上がっていることに気づいた。いつの間にか、足が勝手に動いていた。窓に向かって、水たまりに向かって。

「シグル、だめ」イサナが僕の袖を掴んだ。「行っちゃだめ」

「でも、ミユが――」

「それはミユじゃない」イサナの瞳が、恐怖で見開かれていた。「水が見せる幻よ。行ったら、戻って来られなくなる」

教室の窓から見える水たまりの前で、小さな影がこちらを見上げていた。手を振っているようにも見えた。まるで、僕を呼んでいるかのように。

そのとき、ポツリと音がした。

天井から、一滴の水が僕の机に落ちた。

見上げると、天井に染みが広がっていた。まるで巨大な水たまりが、そこにあるかのように。そして、その染みの中央から、また一滴。今度は僕の頬に。

水は冷たかった。そして、微かに塩の味がした。

涙の味だった。

「みんな、教室から出てください」中川先生の声が切迫していた。「今すぐに」

生徒たちが慌てて席を立つ中、僕だけがその場に座り続けていた。頬を伝う水を拭おうともせずに、ただ窓の外の小さな影を見詰めていた。

ミユは、まだそこにいた。水たまりの前で、僕を見上げていた。

そして、その唇が動いた。音は聞こえなかったが、その口の形で僕には分かった。

「お兄ちゃん」

そう言っていた。

教室が空になっても、僕は立ち上がれなかった。天井からは相変わらず水が滴り続け、僕の制服を濡らしていく。

「シグル」イサナだけが、僕の傍に残っていた。「お願い、一緒に出よう」

「なぜ?」僕は彼女を見上げた。「なぜミユが見えるの? なぜ今になって?」

イサナの瞳に、涙が浮かんでいた。けれど、それは悲しみの涙ではなかった。もっと深い、恐怖の涙だった。

「分からない」彼女が震え声で答えた。「でも、きっと、雨師さまが目覚めたのよ」

雨師――それは音無町に古くから伝わる水神の名前だった。町の人々が封印し、忘れ去ろうとした神の名前。

「雨師さまが目覚めると、水が記憶を呼び戻すって、おばあちゃんが言ってた」イサナが続けた。「忘れられた死者たちの記憶を」

僕は再び窓の外を見た。

ミユの姿は、もうそこにはなかった。代わりに、水たまりの表面に、僕自身の顔が映っていた。

いや、よく見ると違った。そこに映っているのは、僕によく似た誰か別の人間だった。僕よりも幼い顔。僕よりも悲しい眼をした。

まるで、三年前の僕のような。

「シグル」イサナが僕の肩に手を置いた。「あなた、本当に覚えてる? あの日のこと」

「何が?」

「ミユが溺れた日のこと。本当に、全部覚えてる?」

僕は答えられなかった。なぜなら、考えれば考えるほど、あの日の記憶が曖昧になっていくから。ミユと一緒に湖に行ったこと。彼女が深い場所で遊んでいたこと。僕が助けを呼びに走ったこと。

でも、それ以外の記憶が、どうしても思い出せなかった。

なぜ僕は湖から上がれたのか。なぜ僕だけが生き残れたのか。

「イサナ」僕は彼女を見詰めた。「君は知ってるの? あの日、何があったのか」

彼女は答える代わりに、窓の外を指差した。

中庭に、また誰かが立っていた。今度はミユではなかった。背の高い、大人の女性だった。長い黒髪を濡らし、白い服を着て、こちらを見上げている。

その顔は見えなかった。いや、正確には、顔があるべき場所に、水面があった。まるで、顔の部分だけが水に溶けてしまったかのように。

「あの人、知ってる?」イサナが呟いた。

僕は首を振った。けれど、なぜか既視感があった。どこかで会ったことがあるような、懐かしいような。

女性が手を上げた。僕たちに向かって、何かを示そうとしているようだった。その手の先には――。

中庭の水たまりが、突然大きくなり始めた。まるで地面が崩れ落ちるように、水面がどんどん広がっていく。そして、その拡大する水面の中央から、さらに多くの影が立ち上がってきた。

子どもたち、大人たち、老人たち。みんな濡れそぼった服を着て、みんな顔に水面を湛えて、校舎を見上げている。

「町の人たち?」僕が呟くと、イサナが首を振った。

「違う。あの人たちは――」

その時、校内放送が流れた。

『全校生徒は、直ちに校舎から避難してください。繰り返します。直ちに校舎から――』

放送が途切れた。代わりに聞こえてきたのは、水の音だった。まるで校舎全体が水に沈んでいくかのような、ざわめきに似た音。

廊下から、生徒たちの悲鳴が聞こえてきた。

「シグル、行こう」イサナが僕の手を引いた。「もう時間がない」

僕たちは教室を出て、廊下を走った。他の生徒たちも、パニック状態で階段に殺到している。

一階に降りると、玄関の外に異様な光景が広がっていた。

校庭が、巨大な池になっていた。

そして、その水の中を、無数の人影が歩いている。まるで水中を歩くことが当然であるかのように、ゆっくりと、静かに。

「あれは――」僕の声が震えた。

「町の人たち」イサナが答えた。「でも、三十年前に湖で溺れ死んだ町の人たち」

三十年前。僕が生まれるずっと前に起きた大規模な水難事故。音無町の歴史から抹消された、忘れ去られた惨劇。

「なぜ今になって?」

「分からない」イサナの瞳に、恐怖と同時に、何か別の感情が浮かんでいた。まるで、これが起こることを予想していたかのような。「でも、きっと誰かが禁忌を破ったのよ。死者の名前を呼んだ人がいる」

僕は、自分が教室でミユの名前を口にしたことを思い出した。

「僕が?」

「違う」イサナが首を振った。「もっと前から。もっと深いところで、誰かがずっと呼び続けていた」

水の中を歩く人影たちが、僕たちに気づいた。一斉に顔を上げ、校舎を見詰める。

その顔は、みんな水面だった。

そして、その水面に映っているのは、僕たちの顔だった。

「逃げて」イサナが呟いた。「逃げなきゃ」

でも、僕の足は動かなかった。なぜなら、水の中を歩く人影の一人が、僕に手を振っていたから。

小さな手。子どもの手。

ミユの手だった。

「お兄ちゃん」

今度は、はっきりと聞こえた。水を通して伝わってくる、ミユの声が。

「一緒に来て」

僕は一歩、校舎の外に足を向けた。

水の感触が、靴の中に侵入してきた。冷たくて、懐かしい感触。まるで母親の羊水の中にいるような、安らぎにも似た感覚。

「シグル、だめ!」

イサナが僕の腕を掴んで引き戻した。その拍子に、僕は我に返った。

水は、僕の膝まで来ていた。いつの間にか、校舎の中にまで浸水していたのだ。

「逃げよう」イサナが僕を引っ張った。「上に」

僕たちは階段を駆け上がった。他の生徒たちも、同じように上階に避難している。しかし、水位はどんどん上がってきた。まるで校舎全体が湖の底に沈んでいくかのに。

屋上に着いたとき、僕は息を呑んだ。

音無町全体が、水に覆われていた。

建物の屋根だけが水面から顔を出し、街全体が巨大な湖と化している。そして、その水の中を、無数の人影が歩き回っていた。

「これが」イサナが呟いた。「雨師さまの本当の姿」

水面に、巨大な眼が浮かんでいた。町全体を見下ろす、神の眼が。

そして、その眼の中に映っているのは――。

僕だった。

いや、僕ではなかった。僕によく似た、でも僕ではない誰かが、その眼の中でこちらを見詰めていた。

まるで、水底から見上げる死者のように。

「シグル」イサナが僕の手を握った。「あなたは、本当は――」

その時、水面から声が響いた。

無数の声が重なり合った、巨大な合唱。

「名前を、返せ」

その声は、町全体に響き渡った。

「忘れられた名前を、返せ」

僕は理解した。これは始まりに過ぎないのだと。

音無町に隠された真実が、ついに水面に浮かび上がろうとしているのだと。

そして、その真実の中心に、僕自身がいるのだと。

屋上から見下ろす水面に、ミユの顔が映っていた。

でも、その隣に映っているもう一つの顔は、僕のものではなかった。

それは、三年前に湖で溺れ死んだ、本当の海原シグルの顔だった。

では、今ここに立っている僕は、一体誰なのだろう。

水面の声が、再び響いた。

「帰っておいで」

その声は、僕だけに向けられていた。

「お帰りなさい」

ミユの声だった。

いや、違う。

それは、僕自身の声だった。


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