第九話 絶望
「馬鹿じゃないの」
頭上から降ってくる罵声を、佐々木はベッドに横たわったまま
無言で受け止めていた。
「患者さんをカウンセリングしている最中に倒れるなんて、
貴方は自分の体調一つ管理できないの? それ以前に
精神科医としての自覚はあるの? 」
数分前に佐々木が目を覚ましてから、ミナは途切れることなく
糾弾を続けている。
「患者さんの方も倒れた貴方を見て、恐慌状態に陥って
拘束して鎮静剤を使わなければならなかったわ。
判ってる? 貴方の行動がせっかく良くなりかけた患者さんの
症状を悪化させたのよ」
「……ごめん」
シーツの端を握り締めて、佐々木は呟くような声で謝る。
ミナのアーモンド形の瞳が怒気で輝きを増す。
「言う事はそれだけ? それで済む問題なの? 」
「おいミナ、いい加減にしないか」
何時の間に部屋に入ってきたのか、王が大きな手で
彼女の華奢な肩を宥めるように叩いた。
「なによ、陰月私はこの医者の自覚もない
大馬鹿者に事の重大さを教えているだけよ」
今度は従兄弟にくってかかるミナ。
「自覚がないわけないだろう。何をやらかしたのか
佐々木は十分に判っているはずだ。今ここで彼を責めても
どうしようもない」
「陰月、私は」
「ミナ」
王の口調がほんの少し強くなった。
「病人の耳元で怒鳴り続ける。これが医者のやる事か?」
その言葉にミナは再び口を開きかけたが、王が手振りで
外してくれ、と伝えると荒い足音を立てて部屋を出て行った。
「やれやれ、すまんな。手が空いている医者が彼女しかいなかったから
診ていてくれと頼んだんだが……。気分はどうだ? 」
枕元に腰を下ろした王に、佐々木は首を振る。
「俺の事はどうでもいい、患者さんの具合はどうだ?」
王の顔が曇った。
「ミナのいった通りだ。今は薬で眠っているから
目が覚めないと詳しい事は判らないが、多分症状は悪化すると思う」
「俺のせいだ」
ちぎれるほどシーツを握り締める酷い傷痕の残る子供のように
小さな手を、一回り大きな王の手がいたわるようにそっと叩く。
「余り自分を責めるな。不可抗力だったんだろう」
「……ハーカー先生の言うとおりだ、俺は医師としての自覚もない
大馬鹿者だよ」
自責を続ける佐々木を、王はしばらく黙って見つめていたが
やがて
「起きられるか? 院長が会いたいそうだ」
と言いにくそうに告げた。
※
「謝罪はいいから、こちらに来てお座りなさい。
倒れた時に頭は打たなかった? 目眩や気分の悪さはもうないかしら? 」
院長室に入るなり、
「申し訳ありませんでした」
と深く頭を下げた佐々木に、院長はいつものように優しく語りかけ、
ソファの方を指差した。
その態度が逆に身を切られるほど辛い。
怒鳴りつけられた方がよほど気が楽だ。
「ドーナツはいかが?」
「いえ、結構です」
腰を下ろし硬い表情で首を振った佐々木に、院長は
「ではせめてお茶をお飲みなさい。少しは気分が楽になるわ」
と大きなカップになみなみと入ったミルクティーを手渡した。
カップの縁に口をつけると、柔らかい甘味が口の中に広がる。
「少しは顔色が良くなってきたわね。じゃあ貴方が喋りたくなったら
カウンセリングルームで何があったか聞かせてもらえるかしら」
どこまでも自分を気遣ってくれる院長の態度に、佐々木は
入院患者達が彼女を慕う理由がやっとわかった気がした。
「そう、奥様が亡くなった時の風景が急にフラッシュバックして
過呼吸発作を起こしたのね」
少なくない時間をかけて、出来る限り客観的に自分の症状を
説明した専門研修医に、院長は深くうなずいた。
「奥様が亡くなったのが十年前。いままでにこのような症状が
でたことはない?」
佐々木は首を振った。
「過呼吸の発作も、二十代に入ってからは皆無です。
妻の死は……乗り越えたものとばかり思っていました」
「自分の心は、自分が一番わからないのかもしれないわ」
「俺はもう、精神科医としてはやっていけないのでしょうか」
「結論を急ぐのは良くないわ」
孫に対する祖母のような口調で、院長は佐々木を諌める。
「病は治療すれば治るものよ。貴方だって今まで
積み上げてきたキャリアを無にしたくはないでしょう」
「はい」
「でも、佐々木」
院長の表情が孫を見る祖母から、研修医を見つめる
指導医のそれに代わる。
「十分に判っていると思うけれども、精神の病は
治療期間がはっきりしないわ。性的虐待の経験を持った
女性患者はこの病院に沢山いる。そして、
貴方が精神科医を続けていくならば、患者として
数多く出合う事になるでしょう。彼女達を
長期間治療できないかもしれないと言う事は、
大変なハンディよ」
「……じゃあ、俺はやはり」
「結論を急ぐのは良くないと言ったでしょう、
三か月、貴方には投薬を中心とした治療を受けてもらいます。
もちろんその間、発作を起こす条件に該当する患者の
治療は一切禁止。それでもし、症状が緩和されなければ」
そこで一度言葉を切り、院長は佐々木を
じっと見つめた。かわいい孫に悪い知らせを告げなければいけない
祖母の表情で。
「私は精神科医として、貴方に転科をすすめます」
その言葉に、佐々木は足もとの固い床が砂になって崩れていくような
錯覚を覚えた。
「今日はこのまま帰りなさい。そしての休養を命じます。」
「大丈夫です。仕事をしていたほうが気が休まるんです」
「佐々木」
院長の肉厚の手が優しく白衣に包まれた肩をたたく。
「病を仕事に依存して誤魔化そうとしている時点で
貴方に患者は診せられないわ。これはこれは院長ではなく
一人の精神科医としての意見よ。貴方に必要なのは休息。
処方箋は書いておくから、きちんと服薬して心を休めなさい」
「……はい」
絶望感がゆっくりと体中に満ちるのを感じながら
佐々木は硬い表情で、院長の言葉に頷いた。