第八話 発作
「パパ。お願い、もうやめて」
「どうしてだい、パパはお前を愛している。
愛しているからこそ、これをやるんだよ」
「嫌、こんなこと友達は誰もやっていない。
パパの愛は本当の愛じゃない」
カーペットだけが床に敷き詰められた
白い壁のがらんとした部屋に、数人の男女が大げさな身振りで
会話を交わしている。
棒読みの台詞に、真に迫る表情や動作が壁際でそれを見つめる
佐々木には妙に生々しく思えた。
サイコドラマ療法。
過去の体験を乗り越える為の集団精神療法(グループ療法)の一つで
即興で自分の抱え込んでいる悩みを、他の参加者に「話す」かわりに
「演じる」ものだ。これによって、演者は参加者に慰めをもらい、
参加者は演者、主に主役を演じた人に癒しを与える。
人を受け入れる体験と、受け入れられる体験を同時にできるこの療法は
回復期の患者達がわりと積極的に参加したがる治療のひとつである。
佐々木はこの場に進行、内容、など起こること全てに責任を持つ
治療者として参加していた。
今日の主役は父親の性的虐待の記憶を乗り越えたいらしい。
身体的、心理的虐待より性的なそれは、より大きな罪悪感と自己卑下の
感情を抱え込みやすい。それを他人に話せる様になるまでには
長い時間と、葛藤とそして根気強い治療が必要だっただろう。
「パパ、嫌なの。私を愛しているのならばこんなことはやめて」
ひと際悲しげな声で、主役を演じている女性が叫ぶ。
その姿にいつのまにかよく見知った人影が、二重写しのように重なる。
重そうな長い黒髪に、疲れたような表情と暗いまなざしをした少女。
「繭!!」
ぴたりと演者たちの動きがとまった。
一斉に向けられた視線に、初めて佐々木は自分が叫び声を
上げた事に気づく。
「佐々木先生、どうしましたか。何かの指示ですか」
一緒に劇を見学していた心理士が怪訝な顔をして尋ねてきた。
耳慣れない日本名が何かの合図に聞こえたらしい。
「い、いや何でもない。すまなかった。演技を続けて」
佐々木の言葉に、演者たちは頷いて劇は再開されたが
一度霧散してしまった集中力は戻らずに、先ほどより
演技はずっと上滑りしたモノになっている。
……どうかしている、本当に……
いくら性的虐待という共通点があるからと言って
大柄でブロンドの髪の白人女性に、妻の姿を重ねるなんて。
もう余計な事を考えないようにと、佐々木は患者達が
演じる劇に意識を集中させる。だが、
「お前が私を誘惑するから悪いんだ」
父親役の患者の台詞に、再び脳裏に泣き顔の妻の姿が浮かぶ。
彼女も同じような事を言われたと自分を責め続けていた。
そう思ってしまうと、もう佐々木には劇を演じている患者が
繭にしか見えなくなった。
十七歳の妻が、もっとも信頼され、守られるべき父親に
押し倒され、欲望のはけ口にされ心を殺されようとしているのに
ただそれを傍で見ているしか出来ない自分。
「先生、佐々木先生、先生」
再びかけられた声に、佐々木はようやく我に返った。
いつのまにか劇が終わっていて、演者たちがまた自分を見つめている。
「大丈夫ですか、顔色が真っ青ですよ。
劇の総評と、患者さん達にアドバイスをお願いします」
心理士の言葉に佐々木は操り人形のようなぎくしゃくとした動きで頷いた。
※
「珍しいな、二日酔いか? 」
かけられた声に、佐々木はやっと水を流し続ける水道の下に突っ込んでいた
頭を上げた。
「ああ、肩口までびしょぬれじゃないか。しっかり拭かないと
風邪をひくぞ」
振り返ると同時に、後ろに立っていた王が手の中にタオルを放り込んだ。
「何か用か?」
自分でもぎょっとするほどとげとげしい声に、王もまた面食らったようだ。
「どうした、えらいご機嫌斜めだな。何があったブラックジャック」
「なんでもない。ごめん」
タオルで髪を乱暴にぬぐいながら、佐々木は一転して小声で謝る。
冷たい水で頭を冷やせば少しは妻の面影が
離れてくれるのではないかと思ったのだ。
「いや、謝らなくてもいいが。本当に大丈夫か
先日から少しおかしいぞ、お前は」
「何でもないんだ。大丈夫だよ本当に」
無理やり明るく答えて、佐々木は大仰な動作でタオルを友人の手の中に
投げ返した。
「だといいがな。ハイデッカー先生が呼んでいたぞ」
「それを早く言ってくれ」
佐々木は慌てて男子トイレから飛び出して医局に向かった。
「佐々木、どうしたの?患者さんから何かをかけられた?」
まだぐっしょりと濡れたままの髪を見て、佐々木の指導医である
黒人の女医が問いかける。
「ええ、まあそんな所です。何の御用ですか」
それを曖昧な笑顔でごまかして、佐々木は問い返した。
「ああそうそう、私は今日の午後一件カウンセリングを入れていたんだけど
急な仕事が入ってしまったの。回復期の患者さんだから代わりを頼むわ
帰ってきたら内容を聞かせて頂戴」
差し出されたカルテを受け取って目を走らせ、佐々木は心の中で舌うちする。
「ミキ・ロス・タチバナ 17歳 女子。
幼少時より実父からの性的虐待あり。自傷、他害、幻覚、幻聴。解離症状あり。」
今一番話を聞きたくない症状の患者だ。だが、断る理由も思い付かない。
カウンセリングルームに入って、改めてカルテを読み返していると
赤黒い筋が幾つもはしる白い腕が、そっと繋いでいた荒れた指先が、
ごめんなさい、と謝る声が、切れ切れに、
しかし鮮やかに佐々木の脳裏に蘇ってきた。
……なんでこんな昔の事ばかり……、落ち着け、これは繭じゃない……
何度も深呼吸を繰り返していると、控えめなノックの音がして
心理士に伴われて小柄な少女が入ってきた。
その長い黒髪に、先ほどの女性患者よりも鮮やかに
妻の姿が重なって見える。
「気分はどうかな」
動揺を押し殺して佐々木は尋ねる。
「まあまあ、かな。天気がいいし。外に出られればもっとよくなりそう」
控えめに笑いながらミキは返答した。と、その手から
弄んでいた白いハンカチが落ちた。
「あ、ごめんなさい」
その言葉を聞いた瞬間、佐々木の目の前の風景が一変した。
部屋の中央に置かれた様々な医療器具に囲まれたベッド。
その上に力なく横たわる妻。
「……ごめんなさい」
苦しげな息の下から囁かれる謝罪の言葉。
そして、握りしめていた腕から急速に力が抜けていく感覚。
手足の先がすっと冷えていく。
呼吸を繰り返しているのに酸素が肺に入っていかない。
……フラッシュバックによる、パニック発作だ……
自分がどんな状況に陥ったのかは冷静に把握できるのに、
身体が動いてくれない。
「先生、佐々木先生」
異常を感じ取った心理士が慌てて駆け寄ってきた。
早く、ほかの、医師を。
言葉が出ない。細かい震えが全身を駆け巡る。
その様子を見て、ミキが悲鳴を上げてうずくまった。
その拍子に、カルテの入った移動式ワゴンが倒れ大きな音を立てる。
「どうした、何があった」
部屋に飛び込んできた王の姿を見たのを最後に
佐々木の記憶は途切れた。