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第七話 志望動機

「それで? 説教を食らった上にドーナツを押しつけられたのか。

ブラックジャックは」

「うん、だからノートのお礼に王にやる。

遠慮せずに受け取ってくれ」

十三時を少し回った半地下の職員用カフェテリア。

先ほどのカンファレンスのノートを受け取った佐々木は、

王が再び口を開く前に彼の手の中に油染みの浮いた紙袋を押し込んだ。

日本の物より数倍は大きく、甘ったるい菓子パンは

とても毎日食べ続けられるものではない。

だからといって食べられる物をゴミ箱に放り込むわけにもいかない。

かくしてこの病院では毎日あちこちで、

職員同士によるドーナツの押し付け合いが行われているのだ。

無論全ての元凶は院長で、昔は抗議する者もいたらしいのだが、

暖炉の傍らで編み物をしているような表情で

「あら、でも甘いものは気分が落ち着くし皆大好きでしょう」

とおっとりと言い返されるばかりで、いつしか皆諦めきってしまったらしい。

「絶対に院長はこの病院の職員を纏めて成人病にする気だぜ。

自分が肥満体の糖尿病予備軍だから

道連れが欲しいんだ。あ、でもブラックジャックは違うな。

大きくなってほしいんだよ」

と言っていつものように人の長い髪の毛をぐしゃぐしゃとかきまわす王を、

佐々木はじろりと上目づかいに睨みつけた。

「殴ってもいいか、グーで」

日本人の中でも小柄な佐々木は、大きな目に丸顔という童顔も重なって

こちらでは未成年に間違えられる事も多い。

その事をからかわれると流石に気分が悪かった。

叩きつけられた腕を寸での所でかわして、王は意外そうな顔をする。

「なんだ、こういう時はちゃんと怒ることが出来るじゃないか」

ばつの悪い表情をする佐々木に、王はまあ、さっきのと今のでは

状況が違いすぎるか、と独り言のように呟いて

「すまん、悪かった」

ときちんと佐々木に向けて謝った。

「いいよ、からかわれるのは慣れているから」

「可愛くないな。……所で本当なのか。その、両親の記憶がほとんどないというのは」

本当だよ、と答えて佐々木はカフェテリアの隅に備え付けられている

サーバーからコーヒーを二つの紙コップに注ぐと、一つを王に手渡した。

「聞いた話だけど、子供に無関心な人たちだったようだし

ここの患者さん達みたいに辛い記憶に苦しむよりは、よっぽどいいと思っているよ」

「それでも、幸せな思い出が皆無というわけじゃないと思うんだがな」

ややあってぽつりと返された言葉に、佐々木は妻の言葉を思い出す。

実の親から性的虐待を受けた彼女も、楽しい思い出があると

それを糧に生きてこれたと言っていた。

また、胸の奥が痛んだ。

「治療は受けた事があるのか? 」

「何回か。効果がなかったからもう諦めているよ」

それを頭を軽く振って誤魔化して、佐々木は答える。

「そうか、不思議だよな人の心は。ブラックジャックみたいに

ある時期の記憶だけすっぽりと抜け落る事もあるし、逆に何十年も前の事なのに

昨日のように思い出すことができて、それで苦しんでいる患者さんもいる。

俺の祖父さんは中国人だから、病は気からってよく言っていて

子供の頃は信じられなかったけれど、実際自分が医者になって見ると

納得できる事例は多い。俺は人の心を解きほぐす事が治療とはいえ

恐ろしいと思う時があるよ」

「じゃあ、別の科を選択すればよかったんじゃないのか?

どうして精神科医の道を進んだ?」

佐々木の問いに、王は肩をすくめる。

「治してやりたい人がいるんだ」

「心の病をか? 」

酷くまじめな表情で王は頷いた。

「正式な精神病、というわけじゃないんだが。こっちが見ていて辛くなるほど

本人は自分を追い詰めている。でも何度説明しても認めようとしないんだ」

「そうか、それは辛いな」

精神病は患者や周りの人間が病気を受け入れられない例が、

肉体の病気よりはるかに多い。それは時として病の悪化を招き

最悪な状態になってから、精神科救急に担ぎ込まれる人々を佐々木は何度も見た。

アメリカは日本より遥かに精神科受診に対してのハードルが低いが、

それでも抵抗を感じる人もいるのだろう。

「それ以外は頭もいいし、理解力も人一倍ある奴なんだけどな。

あんまり頑固だから、俺の方が心配でおかしくなりそうになった時に思ったんだ。

助けを求められた時、すぐに手を差し伸べられるような職業についておけば

少しは俺自身が楽になれるし、一生かけて付き合ってやれるだろう。

ブラックジャックから見れば邪道だろうけどな」

その言葉に佐々木は首を振った。

「いや、立派な理由だと思うよ。半年ごとに恋人を替えるから

色々と誤解していた。王君、悪かった」

今度は王が憮然とした表情を浮かべる。

「恋人だと言った覚えはないがな。せっかく男に生まれたんだから

楽しむ時は楽しまなきゃ損だろう。ブラックジャック」

そこでにやりと笑って、王は白衣のポケットからカラフルなチケットを

取り出した。

「今度の日曜日、よく行くバーでライブがあるんだが行かないか?

いや、演奏は大したことないんだが、集まる女の子達が中々美人揃いなんだ。

たまには息抜きも必要だぜ」

「いいよ」

苦笑しながら佐々木はもう一度首を振る。

「俺はそういう事は苦手だから」

「……本当に奥手だなあ、ブラックジャックは。そんな事じゃ

いざ好みの子が現われても、何もできやしないぜ。それにいつまでも

右手が恋人じゃ寂しいだろう。お兄ちゃんは判ってるんだ」

「真昼間になんてこと言うんだ、それに誰が兄だ」

顔を赤黒くして叫ぶ佐々木の頭を、今度は子供にするように

軽くたたいて王はもう一度笑う。

「身長差で決定した。じゃ、そろそろ診察があるから

行くぞ。ノートは来週までに返してくれればいい」

空の紙コップをゴミ箱に放り投げて、さっさとカフェテリアから

立ちさる友人の背中が見えなくなると、残された佐々木は

ため息をついて

「一生かけて付き合ってやれる、か」

と王の言葉を口の中で反芻した。

何のてらいもなく自然とその言葉を口にできる友人が心の底から

うらやましい。

自分がそうしてやりたいと思う相手は、もうこの世のどこにもいないのだから。

空っぽの右手が無性に寂しくて、佐々木は胸元の銀のリングを握り締める。

だが、冷たい金属のそれに、十年前妻の手に感じていたような温もりは

欠片もなかった。




続く

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