第六話 カンファレンス
「この頃気候がいいせいかしら、
どの子も皆落ち着いてきているようね
とてもいい事だわ」
院長は穏やかな声で言いながら、ぽっちゃりとした肉厚の手で
暖かい紅茶が満たされたカップをつかんだ。
回診後、専門研修医達と院長とで行われる勉強会を兼ねた
カンファレンス。しかし、専門医や看護師達と行われるそれの雰囲気が
緊張感に満ちた作戦会議だとすれば、こちらは午後のお茶会だ。
それは、院長の容姿と身にまとう空気が
周りを穏やかな気持ちにさせるせいかもしれないし
そっけない会議用のテーブルの上の大皿に山と積まれたドーナツと、
各々に配られる暖かい紅茶のせいかもしれない。
通常のカンファレンスは苦手でも、
月一回のこれは楽しみだと言う専門研修医達は多い。
「では担当している患者さん達の病状で、
相談したい事がある人はいるかしら」
何本かの手が一斉に上げられ、
院長が孫の話を聞く祖母のような表情で
順々に発言者を指名していく。
アメリカの専門研修医とは、レジデント課程を終えてなお
より専門的な知識習得を目的に研修を続ける医者達である。
以前は外科、内分泌科など限られた科にしか存在しなかったが
医学が進歩してより高度な専門知識が必要となった現在、ほぼ全ての科に
専門研修医は存在する。
佐々木が志す小児精神科専門医は最も新しい分野の一つで
今目の前にいる現役の院長が草分け的存在の一人だった。
彼女が院長に就任してから
この病院は特に一七才以下の虐待を受けた子供達の
心のケアに力を入れている。
研修医達から放たれる質問を、院長はやはり穏やかな口調でゆっくりと答えていく。
他の研修医達はそれを熱心にノートに書き留める。
四〇年以上第一線で子供達の
治療に当たってきた医師の言葉は、どんな医学書よりも貴重だ。
佐々木もノートを広げていたが、ペンを走らせる速度は
他の研修医達よりかなり遅い。
アメリカに来て三年、喋ることと聞くことはほぼ不自由なくなったが、
他人が喋る事を理解しながら書きとめるという
三つの作業を同時にこなすのは、やはりまだ難しい。
書くことに集中すれば、英語は単に音の羅列となって
頭を通過していくだけだし
聞く事に意識を向ければ手が止まる。
いつものように四苦八苦していると、
隣に座っていた王がさりげなく自分のノートをこちらに押しやってきた。
そこには
「ノートはあとで見せてやる」
と走り書きがあった。
「ありがとう」
小声で礼を言って佐々木はペンを置き、院長の話を聞く事に集中した。
「院長先生、よろしいですか」
一通りの質問が終わり、静寂が訪れた室内に凛とした声が響く。
同時に上がったすらりとした手の持ち主は、ミナ・ハーカー医師だ。
その姿を見て佐々木は、
今日の回診は小児内科の専門研修医も一緒だった事を思い出した。
まだ大人ほど意思を言葉として伝える能力がない子供達の心的不調は
よく身体の不調となって現れる。頻繁に彼らが訴える頭痛や腹痛やだるさが
精神的なものか、身体的なものか判断を下すために、
この病院は小児科内科も併設されていた。
「なんですか、ハーカー」
名前を呼ばれた彼女は、猫を連想させる強い光をたたえたアーモンド形の瞳を
なぜか佐々木に見据えて立ちあがった。
「国によって、固有の虐待があると書物で読みましたが、
そういう場合特殊な対処法が必要でしょうか」
「国に、よってというのは大げさね。ただし文化の違いによって
我々では考えられない虐待がおこることは、あるわ」
きびきびとした早口の問いに、
院長はあいかわらずゆったりと返答する。
「たとえば、日本の心中のようなものでしょうか」
心中、という言葉に、
佐々木は心臓に針でも突き刺されたような痛みを覚えた。
「そうね、心中は我々には想像できない虐待だわ」
かつて、米国人の夫の浮気を悩んで
子供を道連れに車で湖に飛び込んだ邦人女性がいた。
子供は溺死、女性は助かったこの事件は全米に大きな衝撃を与え
裁判では日米の親子関係の考え方の相違が浮き彫りになった。
「親、特に母親に先立たれた子供は哀れである」
日本ではごく自然に受け入れられてきた母子を一体と見る
考え方は、米国人には理解されず
母親は子供の生きる権利を侵害した殺人罪で裁かれた。
「そういえば、佐々木医師は心中から生き残られたんですよね」
いきなり話の矛先を向けられて、佐々木は面食らった。
と同時に、とうに治ったはずの体中の傷痕が不快な熱をともなって
ジクジクと痛みだす。
「心中から生き残られた後に、何かここの子供達のように
問題行動を起こした自覚はありますか?それと、貴方は今
ご両親に対してどのような思いを抱えられています?」
矢継ぎ早な質問に、佐々木は黙って首を振った。
「どういう意味ですか?」
ミナの追及の手は緩まない。
「俺は、両親についての記憶は一切ありません」
部屋の中が微かにざわめいた。
「俺の記憶は両頬の傷を鏡で見た時から始まっています。
心中の時の事は、後日医師や警察官に聞いた話しか判りません
だから、心中が原因の心的外傷もありませんし
PTSD(心的外傷ストレス症候群)も発症していません
唯一刃物を見ると過呼吸の発作を起こす事が、十代後半まで
あったくらいです」
「乖離が治っていないのですか、それはPTSDより
重大な問題だと思います。記憶の一部を欠落させたまま
精神医療に携わる事に私は強い危機感を覚えます」
「ハーカー」
珍しく強い調子で、院長がミナの発言を遮った。
「そのような質問はこの場には不適切です。これ以上続けるなら
退出を求めますよ」
それに何を感じたのか、ミナは不承不承頷いて着席する。
息をつめて三人のやり取りを聞いていた他の研修医達が
ほっと胸をなでおろし、
再び部屋の空気は午後のお茶会のそれに戻っていった。
※
「佐々木。少しいい? 」
カンファレンスが終わった後、院長はこれも珍しく
少し厳しい表情で佐々木に声をかけた。
「どうして貴方はあの時怒らなかったの?」
「怒る?だれにですか」
困惑したような佐々木に、院長は諭すような口調で話を続けた。
「ハーカーによ。彼女は二つの過ちを犯した。
一つはみなの前で貴方の了解なくあなたの過去を話した」
「……いや、それは皆も知っていることですし」
佐々木の傷跡は髪で隠しているとはいえ、相当目立つ。
当然ここにきたときも質問されたし、隠してもしょうがないことなので
佐々木も正直に答えた。日本と違ったのは、だれも陰口を叩かなかったことと
「ブラックジャック」というありがた迷惑なあだ名を頂戴したことだろう。
「喩えそうだとしても、貴方に傷を負わせた過去をこのような場所で
勝手に話すのは大問題よ。そして、
偏見によって勝手に貴方を精神科医不適格と発言しようとした」
「でも、解離というか、記憶が戻ってないことは事実ですから」
いい訳じみた佐々木の言葉に、院長は深いため息をついた。
「いい。佐々木。貴方はここに来るために、
幾つかのレポートと心理テストを受けたわよね
それを採点したうえで、専門研修医として迎え入れる決定を下したのは私なの
彼女の発言を貴方が認めるなら、
それは私の見た目が無かったことになるわね」
「すいません」
口の中で呟いて頭を下げた佐々木に、
院長はもう一度ため息をついた。
「佐々木、謝罪が美徳に繋がるのは貴方の国だけよ。
貴方は「怒る」ということを覚えた方がいいわ。
すべてが自分の非だと思ってしまえば、楽なのかもしれないけど
それでは相手の為にもならないのよ」
あくまでも穏やかな口調で話し続ける院長に、
佐々木はただ、頷くことしかできなかった。