表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/33

第五話  罪悪感

 再び聞こえてきた着信音に、佐々木の意識は回想の水底から

現実に引き戻された。

 手元の携帯電話は沈黙したままだ。

金属的な単音で彼が10代の頃流行った歌を奏でているのは、

フォトスタンドの前に置かれた解約済みの古い機種。

曇って見えにくくなった液晶画面に表示されている名前は「木之口繭」。

あたりまえのように、佐々木は通話ボタンを押した。

大学に合格したあの日以来、電話は気まぐれに妻の声を彼に届け続けている。

羽場医師の治療を受けている時は、幻聴だと思った。

彼の前で妻の死を悼む涙を流すことが出来た後は、たちの悪いいたずらだと

思いこもうとした。

優しく語りかける声に怒鳴りつけた事も、

一晩中なり続ける携帯を布団にくるんでベランダにほうりだした事もある。

だがそれでも、携帯は妻の名前を液晶に表示して

謳い続けた。そして水没させた携帯を解約したその夜、

高らかに着信音を鳴らし始めた携帯を見て、

佐々木は全てをありのままに受け入れようと決意した。

これは、神様がくれた奇跡だ。

「もしもし」

十年前と少しも変りもない声に、

「もしもし」

十年の年月を重ねた声が答える。

「今、何をしているの?」

「仕事から帰って来たばかりだよ。これから夕飯なんだ」

交わされる会話は、いつもたわいのないものばかり。

「夜中に食べ過ぎると太っちゃうよ」

「わかってるよ、気をつけている」

この声を聞く度に、日本で妻が自分の帰りを待っているような

錯覚に襲われる。だが、

「そっち……」

……ツー・ツー・ツー……

一分にも満たない時間で一方的に向こうから通話を切られた瞬間

佐々木は現実に引き戻される。

妻はもう、世界中を探してもどこにもいない。

肉体の僅かな名残りが冷たい銀のリングとなって、

彼の胸にぶら下がっているだけだ。

「ごめんね」

通話が終わると佐々木はいつも同じ言葉をつぶやいて、

携帯電話をミル君が印刷されたハンドタオルで丁寧に拭く。

大学合格と同時にバイトを辞めた時に、大量にもらってきたそれも

すでに残りが五枚ほどになってしまった。

だが、妻が死んでそれほどの年月がたっても、

何度謝罪の言葉を口にしても、佐々木の中で罪悪感が薄れることはなく、

目に見えぬ枷となって、彼の心に食いこんでいる。

ため息をついて、佐々木は買ってきたベーグルサンドを

アパートに備え付けられていた、広すぎるダイニングテーブルの上であけた。

「こりゃあ家族用だな。椅子だって四客もついているし

早く彼女を作って、手料理を並べてもらえよ」

以前家にやってきた王はからかいまじりにそう言った。

「兵ちゃん、知り合いのお嬢さんがまじめな交際相手を

探しているんだけどね、会って見ないかい?」

日本で働いていたころ、事あるごとに小母さんは見合いの話を

もってきた。

だが、佐々木はいつも困ったように笑いながら黙って首を振りつづけた。

「俺には、創る資格なんてないんだよ。彼女も、家族も」

誰もいない虚空に向かってつぶやいて、乾き始めたパンを口の中に押し込む。

かさかさと包み紙が擦れる音が、広すぎるテーブルの上で

妙に大きく響いた。


           ※


「おはよう、皆さん、今朝の御気分はいかが。

ちょっと先生にお話を聞かせて頂戴ね」

朝の慌ただしい空気の中を、優しく暖かな声が伝わっていく。

決して大きくはなく、ましてや命令口調でもないのに

ベッドの上でおもいおもいの事をして朝食前のひと時を過ごしていた子供達が

ぴたりと動きを止めた。

そして部屋の入口に立つピンクのスーツに白衣をまとった人の良さそうな

老婦人の姿を見ると、優しい祖母が尋ねてきた時の孫のような表情を浮かべる。

「そうそう皆いい子ね、順番に回っていくから待っていて頂戴ね」

微笑みながら言葉をついで、院長は回診を始める。

その後につき従いながら佐々木は何度も見たはずなのに、

普段の定期回診との余りの違いに感嘆のため息をつかずにいられない。

それは、他の専門研修医たちも同じようで、すぐ後ろから

「相変わらずすごいなあ、院長は」

と王の呟きが聞こえた。

週に一度院長が回診するこの病棟は、入院している子供達の中でも

症状が重い者たちが集められている。

他害、自害、パニック、多動、虚言,etc。

ここにいる子供達とコミュニケーションをとることは一苦労で、

毎日の検診は専門研修医達が交代で行っているが、簡単な会話すら成立せずに

時々人というより、手負いの野生動物を相手にしている気分になる。

しかし、院長の手にかかるとそんな彼らが一時とはいえ、普通の子供のようになるのだ。

職員たちはこれを、病院の七不思議のひとつに数えている。

「何も特別なことはしてないわ」

子供達を従わせるコツを尋ねる研修医たちに、

いつも院長は微笑みながら首を振る。

「ただ、いつも心に留めておくの。ここにいる子供達の大部分は

周りの大人たちから正しい人とのかかわり方を教わっていない。

そして、世の中すべてを極端に恐れている」

確かに、統合失調症や発達障害を除けば、ここに入院してくる子供達は

心身共に虐待を受けてきたものが多い。

「口汚い言葉で罵ってきても、拳を振り上げてきても、

それは彼らなりの感情の表現であり、愛情の伝え方かもしれない。

決して人を傷つけたくて傷つけている訳ではない。だから私は

まず自分が彼らにとって絶対安全な人間であると伝える努力をします。

信頼のロープが双方の心にかかるまで、決して怒らない、否定しない

生まれたての赤ん坊に接するように丸ごとかれらを受け入る

それだけの事です」

「……それが難しいんだよなあ」

王の呟きに、佐々木や他の研修医達がそっと頷く。

心を閉ざして己の内に閉じこもった子供達にこちらが投げかける

ロープはなかなか届かない。中々出ない治療の成果は苛立ちをうみ、

つい若い医者達は、

「この子供は病気ではなく単に性格が歪んでいるだけではないか」

という結論に達しそうになる。

「精神の病気に一番禁物なのは焦りよ。最近の世の中はスピードが

重視され過ぎているから、一つくらい『ゆっくり』が尊重される事があっても

いいでしょう」

患者に向けるのと同じ穏やかで優しい声で院長はいつも研修医達を諭す。

「リサ。気分はどう?」

何番目かに院長が話しかけたのは、

黒髪黒目の大人びた顔つきの少女。

「いつもと同じ、変わらないわ」

そっけなく答えた彼女に頬笑みを返しながら、

院長は主治医は誰と問いかける。

「俺です」

一歩前に進み出た佐々木に、院長は病状を説明して頂戴と告げた。

「自傷行為はなくなりましたが、先日……その、同じ年頃の

少年に挑発的な行動をとったために、一時的に個室に移し、

昨日二度としないと約束した為に、部屋に戻しました」

佐々木の手にしたカルテには、養父から幼少時から長期間にわたる

性的虐待を受けたと記されていた。

銀のリングの下の胸がずきりと痛む。

個室に隔離された彼女に、佐々木は行動の訳を尋ねたが

明確な答えは帰ってこなかった。

「そう、リサ。貴方は普通にしているだけで魅力的よ。

次は言葉だけで、相手を誘ってみましょうね。絶対にうまくいくわ」

「……私に、できるのかな。やったこと、ないよ」

長い沈黙の後たどたどしい言葉で答えたリサの肩を

院長は優しくたたく。

「大丈夫、やり方が判らなかったら佐々木先生が教えてくれるわ」

……そう言う事だったのか……

多分彼女は養父とのコミュニケーションを

そうやってとり続けていたのだろう

だから、普通のやり方が判らない。

性的虐待を受けた子供にありがちなことだったのに、

どうして気付かなかったのだろう。

唇をかみしめる佐々木の胸の奥から

……そんな事も気づかないようじゃあ、繭との結婚生活も続かなかったと思うぜ

よかったじゃないか、彼女がとっとと死んで美しい思い出だけが残ってさ。

お互い傷つけ、ののしり合って別れるよりよっぽどましだったろう……

ふと恐ろしい考えが湧きあがる。

「……ちがう、俺は」

思わず呟いた佐々木に、隣にいた王が「どうした?」と声をかけた。

「なんでもない」

どうかしている、昨日久しぶりに妻の声を聞いたせいか。

数回頭を振って湧き上がる考えを打ち消したが

白衣の内側で冷たい汗がいくすじも身体を伝っていた。





 



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ