第四話 過去
「兵衛さん、久しぶりだね」
まるでしばらく連絡が取れなかっただけ、という風な言葉。
「びっくりした、当たり前だよね」
「うん……少しね」
死者からの電話などありえない。
たちの悪いいたずらか、よく似た声の別人の間違い電話か。
それとも、悲しみのあまり心が作りだした幻聴か。
だが、そんなことはどうでもよかった。
「大学合格おめでとう、兵衛さんならきっと
いいお医者さんになれるよ」
「……ごめん」
俺があの時改札口で君を無理矢理でも父親から引き離していれば。
「どうして謝るの?」
「……ごめん」
あの日、1時間早くホームセンターに行っていれば、店内で
君を見つけられたのに。
「……本当に、ごめん」
話したいことは山ほどあったはずなのに、たった一つの
言葉しかでてこない。
いつのまにか頬に涙が伝っている。
妻を失って以来、初めて押し殺した声を上げて泣きながら、
佐々木はただ「ごめん」と繰り返した。
「泣かないで、もう自分を責めないで。
兵衛さんは悪くない」
穏やかで少しはにかんだような、数か月前と全く変わらない声で
紡がれる優しすぎる言葉に、涙は止まることはない。
「兵衛さん、疲れているんだね。
私を見送ってくれて、沢山勉強して。
休まなきゃ。ゆっくり眠って、美味しいものを食べて」
「……いやだ」
まだ君と話をしていたい。切らないで、お願いだから。
だが、再び何かを言おうとした瞬間、ぶつりと何かを断ち切るような
音を立てて、電話は切れた。
慌ててリダイアルボタンを押すと、数コール目で呼び出し音がとまった。
「繭、もしもし、繭」
「兵ちゃん、もしもし、どうしたんだい。もしもし」
しかし、答えた声は妻ではなく、何回も電話をくれた久代だ。
「もしもし、兵ちゃん。繭ちゃんがなんだって、もしもし? 」
「……なんで」
今度はこっちが電話を切って着信履歴を見ると、そこには久代の
名前だけがずらりとならんでいて、妻からの電話の痕跡はかけらもない。
今度は電話帳から繭の携帯に電話をかけてみると、
「……この電話番号は、現在つかわれておりません」
流れてきたのは無機質な女性の声だった。
「なんで、だよ」
奇跡は一瞬で終わってしまうのだろう。
携帯を握りしめた腕から、いや、身体全体から急激に力が抜け、
佐々木は埃だらけの床に倒れ込んで、そのまま意識を失った。
※
「本当に私はあの時ほど自分の無力さを痛感した時は
なかったよ」
「先生、また古い話を」
咲き始めた桜が微かな芳香を部屋の中に運んでくる。
坪内総合病院心療内科、改め精神科、医局。
すっかり白髪頭になってしまった羽場医師は
かつての患者であった研修医に、少々煮つまったコーヒーをすすめた。
「心の傷に古い新しいは関係ないよ」
「でも八年も前、大学に合格した頃の事です、それに先生は全力で俺を
治療してくれたじゃないですか。本当に感謝してます」
そう言って佐々木は苦すぎるコーヒーを啜った。
「数か月以内に私の患者を二人も、しかも結婚式にも
出席させてもらったご夫婦両方の臨終をみとるなんて真似は
絶対に嫌だったからね。それは久代さんも同じ気持ちだっただろう」
あの日、佐々木からの電話にただならぬものを感じた久代の通報で
坪内総合病院に担ぎ込まれた彼に下された診断は、
重度の疲労と栄養失調。
「私を感情のゴミ箱だと考えてくれて構わないよ」
目が覚めた佐々木に、羽場医師は言った。
「悲しみでも、怒りでも、恨みでもいいから
ぶつけてほしい。また食べる事も眠ることもできなくなる前に」
「……俺はあの言葉に救われました」
「君が私の前で泣いてくれた時は、嬉しかったな」
躊躇する佐々木に、羽場医師は何度も
そうしてくれると私は嬉しいと言い続けた。
そして繭の死から一年後、初めて佐々木は
他人の前で泣いた。
「思えばあの時、俺は将来を決めたのかもしれません」
「本当に、いいのかね」
カップを机の上に置いて、羽場医師はじっと佐々木の顔を
見つめる。
「君はご両親と、繭さんの二つの重すぎる離別の記憶を
抱えている、その上で他人の心まで一時的とはいえ
しょい込むことに、私はあまり賛成できないよ。
外科と救命救急と、二つの科が君を欲しがっている。
佐々木君は外科の才能があるらしいね。めったにないんだよ
こういうことは」
佐々木はゆっくりと首を振った。
「俺が抱えている離別の記憶は一つです、両親の事は
未だに全く思い出せません」
「……そうか、思い出したくは、ないかね」
「ありません。俺は大学卒業後、
先生の元で研修させてもらって
妻と同じ苦しみを抱えた人たちが沢山いることを知りました、
俺が医学部に入れたのは……妻が死んだからです」
「……」
「妻の死が、俺を医者にさせた。だから俺は
妻と同じ苦しみを抱えた人たちを治したい。それが
彼女を救えなかった俺が唯一出来る償いなんです」
「……そうか」
「はい、だから俺は精神科医になります」
まっすぐに指導医を見つめ返して答えた佐々木に
羽場医師は深くうなずいた。
「だったらここで働くよりもふさわしい所がある。
大学の医局に頼んでおくから、そこに行ってみなさい」
「ありがとうございます」
立ちあがって深く頭を下げる佐々木の深い傷跡が残る
子供のように小さな手を、羽場医師の両の手が
そっとくるんだ。
「これは指導医ではなく、一人の医者として言うんだが」
「はい」
「辛いと思ったら限界が来る前に、逃げなさい。
それは決して敗北ではないんだよ。ゴミ箱もまだ定年までは
もう少し時間があるから、君の話をまだまだ聞けるさ」
「ありがとうございます」
暖かな恩師の言葉に、佐々木はもう一度深く頭を下げた。
※
羽場医師に紹介された病院は、日本全国でも珍しい
一七歳以下の児童を多く受け入れる精神病院だった。
ベッド数は多くないが、通院や入院をしてくる患者の多くが
深刻な問題を抱えていた。
「子供」が持つはずの、優しさ、かわいさ、無垢、純粋さ。
そのような物がすべて削げ落ちた患者達に、佐々木と同期で入った
医師や看護師達の何人かは戸惑い、受け入れることが出来ず、
早々に病院を去っていった。
医者、といっても専門を決めて
一年目の佐々木に大してできることはなく
人手不足も手伝って、子供の遊び相手からシーツの交換まで
出来る雑用はすべて仕事になった。
がむしゃらに働いて一年が過ぎた頃、佐々木は院長室に呼ばれた。
「俺が、アメリカに。ですか」
ぽかん、とした顔で言われたことを繰り返す佐々木に
「佐々木君は、この病院で1年勤務してどうだった」
精神科医特有の穏やかな声で問いかける院長。
「大変……でした」
「そうでしょう。大人向けの心療内科やメンタルクリニックは
乱立する世の中ですが、子供向けのそれはめったにない。
それは、大変、だからですよ。子供達はまだ自分を語る
言葉を多く持たない。ゆえに心の悲鳴が問題行動として現れる
佐々木君も大分苦労したでしょう」
「ええ、まあ」
と佐々木は苦笑した。
すぐに暴力を振るってくる子供、やたらべたべたと甘えてくる子供
嘘ばかりつく子供、大分なれてきたとはいえ、まだまだ
彼らに振り回されるばかりである。
「ですが、子供達をこのようにしたのは、我々大人です。」
「虐待のことを言っておられるのですか」
佐々木の言葉に、院長は頷く。
「この病院に入院してくる子供の7割が、身体的
心理的……そして性的虐待を受けています。
日本も大分児童虐待に厳しい国になりましたが、
まだそのケアの受け皿は十分ではありません。」
「はい」
「アメリカのカリフォルニアに、全米でもトップクラスの
規模と実績を誇る精神病院があります。
そこでは小児の患者も沢山受け入れている。
日本も九〇年代以降、精神病の治療は飛躍的に進歩しましたが
欧米に比べればまだまだ遅れている、そこは数年ごとに
各国からフェローシップ(専門研修医)を受け入れているのですが、
今年はこの病院に声が掛かりました。
小児精神科専門医を志す人間が望ましいと、佐々木君、行ってみませんか」
「いいんですか、俺なんかで」
「僕は一年間じっくりと君を見てきましたが、
子供の心に寄り添うのが妙に上手いですね」
「そんな……」
院長は眼鏡の奥の細い瞳をわずかに細めて、佐々木の体にはしった
幾つもの傷跡を見る。繭の事を含めて、自分の過去は
就職する時に全て説明した。
「多分、君は彼らと同じような経験をして、そこから立ち直ってきた。
そういう経験をした医師は貴重です。君はこれからの経験と実績次第で
この病院をひっぱっていくような医者になると、僕は思っています」
「……かいかぶりです」
褒められるのには、なれていない。全身にむず痒さを覚えて
うつむく佐々木に、院長は続ける
「期間は恐らく3年ほど。いって、見ませんか」
院長の穏やかな言葉に、佐々木は長いこと沈黙した後、答えた
「俺で、いいのなら」
続く