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第三十二話 出立

「佐々木先生の方はどうなの?

もう発作は完全に起こらなくなった?」

「患者さんの診察に支障はなくなったよ。……でも」

「でも?」

真剣な表情で顔を見つめられて、佐々木はどきりとして

頬が熱くなった。

暴言を浴びせ続けられた時は気付かなかったが、ミナは

殆ど化粧をしていなくても、かなりの美人だ。

女性を見てこんな気持ちになったのは、妻を失って以来の事。

「よ、夜一人で部屋にいる時なんかはまだ、駄目だな」

美しい顔の中でも特に印象的なアーモンド形の瞳を

まともに見ていられなくて、顔をそらして佐々木は答える。

狭いとはいえ薄暗い家の中に一人きりでいると、

思い出した記憶に怒りや悲しみが湧き上がり、それに

何度自分のせいではないと言われても消す事の出来ない罪悪感が加わって

過呼吸になったり、鬱状態に陥ることがある。

「でも、過呼吸といっても軽い物ですぐ収まるし

鬱状態は……自力で乗り越えるしかないな。王には早く

彼女作って慰めてもらえよ、なんてからかわれているけど」

と照れ隠しに佐々木は笑った。

「……私じゃ、駄目?」

「へ?」

ややあって返された言葉に、佐々木は驚く。

冗談かと思ったが、ミナの表情は相変わらず真剣だ。

「えっと……そ、それは」

上手い言葉が見つからず、しどろもどろになる佐々木に

ミナは悲しげにうつむいた。

「そうよね、私は先生に酷い言葉ばかりぶつけてきたし、

大切な奥さんとの思い出の品を壊してしまったし、

こんなこと言われても、迷惑よね」

その様子に益々佐々木は戸惑う。

「い、いや。迷惑とかそう言う事じゃなくて

その、ハーカー先生には俺なんかよりもっとふさわしい人が

いると思うんだ」

「陰月のこと?」

頷いた佐々木に、ミナは幾つもの感情が入り混じったような

複雑な微笑を返した。

「陰月は……好きよ。子供のころからずっとそばにいてくれて

何時も味方になってくれて。でも彼は、そう、兄みたいなもので

男女の仲になるなんて考えられない」

ミナの言葉を聞きながら、佐々木はこれを王が聞いたら

さぞかし悲しむだろうなと思った。

「でも、王は先生の事を愛しているよ。それに

先生が俺に初めて言った事、覚えている?

『あんたの英語は下手すぎて理解できない』だよ

俺はそれが悔しくて、必死でスピーキングを勉強して

お陰で随分早く英語が上達したんだ。暴言も役に立つんだよ」

言ってからしまったと思った。

これはどう聞いても嫌味だ。

「馬鹿」

ミナの握り締めた手が佐々木の胸を叩く。

「馬鹿、先生の馬鹿」

「ご、ごめん」

謝りながら、これとよく似た事が昔あったと思いだす。

あの時はファストフードの店内で、気障ったらしい映画の決め台詞に

繭は笑いだしたけど。

「謝らないでよ。先生はどうしていつも優しすぎるの?

もっとひどい言葉で罵ってくれればよかった、

そうすれば、そうすれば私はきっぱり先生の事……」

「ごめん、でも」

もう一度謝って、佐々木は続ける。

「前にも言ったけど、俺は先生の思い描いていたA君じゃないよ。

それに患者が回復期に治療者に恋愛感情を抱くのはよくあることだ。

先生ももう少しすれば、きっと俺なんかよりもっといい人がいる事に

絶対に気が付くよ」

「馬鹿にしないで!!」

実に久々に怒鳴られて、佐々木はびくりとした。と同時に

アーモンド形の瞳に強い光をたたえてこちらを見つめ返す

ミナに、不思議な安堵感を覚えた。ああ、やっといつもの彼女が

戻ってきた。

「私だって専門は違うけど、医者よ。先生が私が頭の中で

作り上げたA君と別人だってことも、患者が治療者にそういう感情を

抱く例があることだって判っている」

アーモンド形の瞳の端に透明な滴が盛り上がる。

「何度も自問自答したわ。絶対に先生が受け入れてくれるはずがないと

諦めようと努力もした。でも駄目なの。私は、初めて会ったその日から

ずっとずっと」

つっと形良い頬を透明な滴が伝う。

「先生が、好き」

……ああ……

胸を満たしていく泣きそうになる程、暖かく心地よい感情に

佐々木は大きなため息をついた。

どうして人から愛される事は、これほど嬉しいんだろう。

十代の頃、コンビニの狭いレジの中で働きながらも

人とのかかわることが怖くて、恋愛など無縁のものだと思い込んでいた。

分厚いガラス瓶の中にいるような、灰色の日常を変えてくれたのは

「繭」。同じように心と体に深い傷を負った少女。

彼女が逝ってしまった時、残りの人生を贖罪のために生きようと誓った。

大切な人を救えなかった。実の両親から殺されかけた自分が出来る唯一の事。

もう二度と、女性を愛する事はないと思っていた。

愛される事もないと思っていた。

それなのに……。

……繭、お父さん、お母さん……

心の中でそっと佐々木は問いかける。

……いいですか?……

俺は、出来るなら俺は、もう一度人を愛してみたいです。

微かな電子音が佐々木の白衣のポケットから

鳴り響いたのはその時だ。

「どうしてこれがこんな所に」

そこから出てきたアパートに置いてあるはずの古い携帯に

佐々木は驚く。液晶に表示されている名前は「木之口 繭」

「先生それ、まだ使えるの?」

ミナも驚いた表情で白いテープが包帯のように巻かれた

携帯を見つめていた。

「もしもし」

「もしもし、兵衛さん。尋ねる必要なんてないんだよ」

久しぶりに聞いた妻の声は今までの中で一番嬉しそうだった。

「今まで私の未練に付き合ってくれてありがとう。

兵衛さん、もう自分を縛らないで、幸せになって」

「……繭、ありがとう」

声を詰まらせて佐々木は答える、多分これが妻との最後の会話になるだろう。

そんな、予感がした。

「最後のわがまま、聞いてくれる?」

「なに?」

「隣の人に、電話を代わって」

小さくうなずいて、佐々木は戸惑うミナに電話を渡す。

「誰、なの?」

「信じられないかもしれないけれど、妻だよ」

驚きの表情のまま電話を耳にあてたミナは、

何度も頷き、そして最後に呟くように

「もちろんよ」

と言った後、再び電話を佐々木に手渡した。

「兵衛さん、いままでありがとう。私、もう行くね

そろそろ歩きだしてみようと思うの。また、会えたら嬉しいな」

「うん……こちらこそありがとう、繭。会えるさ、絶対に」

佐々木が答えた直後、ぷつんと音をたてて電話は切れた。

まるで力尽きたように真っ暗になったひび割れた液晶画面に

佐々木は自分の予感が正しい事を確信する。

と、するりとした感触と共に佐々木の胸からペンダントが滑り落ち、

受け止める暇もなくコンクリートの床に落ちる。

澄んだ小さな音をたてて、リングが真っ二つに割れた。

そこから零れおちた白く細かい妻の遺灰が

冬の夜風に乗って空に舞いあげられていく。

少し前ならば半狂乱になっていたはずの出来事を

今、佐々木は酷く穏やかな気持ちで見つめていた。

妻は二度目の旅立ちの時を迎えたのだ。

「割れちゃったね」

中が空っぽになってしまった銀のリングを拾い上げて佐々木は仄かに苦笑した。

「奥さんに言われたわ」

子供のように小さな手にそっと自分の手を重ねてミナは言った。

「兵衛さんをずっと好きでいて下さいって」

「ハーカー先生」

涙の跡が残る美しい顔をじっと見つめて佐々木は口を開いた。

「俺は不器用で、英語も下手で、先生をこれからもずっとイライラさせるかもしれないよ

それでもいい?」

「そういうところもひっくるめて、貴方が好きなの」

その答えに佐々木は微笑する。それにつられるようにミナの顔にも笑みが浮かんだ。

「じゃあ、夜にどうしようも寂しくなったら、電話しても、いいかな」

「何処にいてもすぐに飛んでいくわ。一晩中だって抱きしめてあげる。

前に先生がそうしてくれたように」

二つの顔がそっと近づく。

ミナとの二度目のキスは、甘いミルクの味がした。


続く


次回最終回です



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