第三十一話 復帰
「そう、これが三ヶ月間の治療の結果ね。王先生、御苦労さま」
提出されたカルテに目を通しながら
院長は穏やかにねぎらいの言葉をかける。
「それで、主治医としての見解は?」
相変わらず口調は穏やかだが、眼鏡の奥から王と佐々木を見つめる
眼差しは厳しく、鋭いものだった。
「まだ心的外傷が完全に癒たとはいえませんが、フラッシュバック等の
問題はほぼ無くなったと思います。医師として治療を再開しても
なんら、問題はありません」
「そう」
その視線をまっすぐに見つめ返しきっぱりと言い切った王に、
院長は静かに頷いて、隣に立つ緊張した表情の佐々木を見る。
「では佐々木先生」
「はい」
「明日、ミキ・ロス・タチバナを再度カウンセリングしなさい。
時間は三十分。相手の話を聞くことを重点において行うこと。
これで王医師の診療の結果が正しいかどうかを確かめます」
再度、佐々木は頷いた。そして翌日。
「佐々木先生、久しぶりだね。この間はびっくりしちゃったよ。
病気だったの、もういいの?」
心配そうに質問を投げかける長い黒髪の少女に、佐々木は穏やかな
微笑を向けた。
「心配してくれて有難う。この間は驚かせてごめんね。
よかったらもう一度、俺に話を聞かせてくれるかな」
少女は少し考え、そして頷く。
「いいよ。どんな話」
「君が一人で抱えていて苦しい事、悲しいことを。
喋れる範囲でかまわないよ。
そして一緒にそれを和らげる方法を探していこう」
カウンセリングルームの近くの精神科医局では、王を初めとして
手の空いているスタッフが無言のまま、しかし皆息をつめて
時計を気にしていた。
「終ったみたい」
廊下で様子を伺っていた看護師の言葉に、全員が扉と窓の隙間から様子を伺う
心理士に付き添われて部屋を出てきた少女に、院長が優しく尋ねた。
「カウンセリングはどうだった?」
「うん、なんだか心が軽くなったみたい。」
「そう、良かったわね」
「うん」
大きく頷いて去っていく少女を見て、スタッフの間にほっとした空気が流れる。
そして、続いて出てきた佐々木に、院長は告げる。
「佐々木先生、今日から通常業務に戻りなさい。
その前に貴方が抜けた穴を塞いでいた他のスタッフにしっかりお礼を言って。ね」
頷いて医局に戻った佐々木に、スタッフから次々と声がかけられる。
「三ヶ月もよくも楽したな」
「その分今日から倍くらい働いてもらうぞ」
「佐々木先生じゃなきゃ駄目だって、何人に泣きつかれたと思うんですか」
「と、言うわけで今日からがんばれよ。佐々木君」
乱暴な言葉に込められた、温かい感情。
それに佐々木はただありがとう、と何度も繰り返した。
※
クリスマスが近づくと、流石に温暖なカリフォルニアでも
寒さが急速に厳しくなる。華やかに飾りつけた街の中を
コートやマフラーを身につけて歩く人々。それは遠い異国でありながら
どこか佐々木の故郷の街を思い出させる風景だった。
そして迎えた、クリスマス・イブ。
日本と同じように華やかで、日本よりずっと大切に思われているこの日を
佐々木はいつもと同じように病院で迎えた。
「今日は当直か、運が悪いな。来年に期待しろよ」
夕刻、慰めの言葉をかけてかえって行く同僚達を笑顔で見送り
同じように当直のスタッフ達と症状が軽い入院患者達とで
ささやかなクリスマスパーティーを開いた。
それ以外は急患も、症状が急変する患者もなく
特別な日の夜は、いつもよりずっと静かに更けていく。
「佐々木先生、仮眠をとって下さいよ。
今日は何事もなさそうですし」
と言ってくれた看護師に頷いて医局を後にしたものの
そのまま仮眠室に向かう気になれなくて、佐々木は屋上に上った。
真夜中に近い時刻、満天の星空の下、
街にはいつもよりずっと多くの灯が点っている。
あの一つ一つの下に、幸せな笑顔があるんだろうか。
いや、あって欲しいな。
そんな事をぼんやりと考えながら、胸のペンダントを触る。
「繭、クリスマスおめでとう」
十年前、妻の臨終の際に呟いた言葉を今年も繰り返した。
「こんな所にいたの、佐々木先生」
鉄扉がきしむ音と共に背後からかけられた声に佐々木が振り返ると
そこには、マグカップを両手に持ったミナが立っていた。
「ハーカー先生」
「ホットミルクを多めに作りすぎちゃって、
飲んでくれる人を探していたの、引き受けてくれない? 」
佐々木は頷いて、そして二人はベンチに並んで腰を下ろした。
「ハーカー先生も、今日は宿直だったんだ」
「そうよ、こんな日に一人で部屋にいたって寂しいだけだから」
「確かにそうだ」
くすくすと笑いあって二人は熱いミルクを啜った。
「お母さんとまだ喧嘩は続いているの?」
ミナは頷く。
「すねて、駄々をこねて、まるで子供みたい。
前だったら私が我慢して言う事を聞いていたんだけど、
先月から通っている自助グループで同じような体験をしている
人の話を沢山聞いて、自分が悪くない事は折れる必要がないと
思ったの」
「うん、それがいいよ」
頷き返しながら、佐々木はもう彼女は大丈夫だと思った。
そういえば、最近ミナが以前ほど口うるさくなくなったと
いう噂を内科の医局から聞いた。
「少し、距離を置いた方がいいのね、私たち親子
今までべったりし過ぎていたから」
「そうだね、割り箸は?まだへし折っている?」
時々ね、とミナは答えた。
「最後に折ったのは1週間前かしら。
部屋のどこに置いたか忘れてしまって、少し探し回ったわ」
「すごいじゃないか」
割り箸の存在を忘れるほどなら、もうすぐ意思の力だけで
怒りを抑えられるようになるだろう。
人と適切なコミュニケーションが取れるようになったなら
彼女の人生はずっと素晴らしい物になるはずだ。
そして、いつも隣で自分を支えてくれている人の気持ちにも
気付くだろう。
想像してみると王とミナは実にお似合いのカップルだ。
そう思うと、自然に笑みがこみあげてきた。
続く