第三話 まだ十年しかたってない
「すいません、いつものベーグルサンドください」
「おや先生、やっとお帰りかい。お疲れさん。たまには違う物を
買ってくれよ」
そっけないが暖かい言葉と共に差し出されたサンドウィッチを
佐々木は疲れた顔に笑みを浮かべて受け取った。
大都市の、しかもファーストフード店に毛が生えたような
セルフレストランでは珍しく、ここの店主は気さくで人懐こく
佐々木のような外国人にも親しく声をかけてくれる。
どうしても孤独感を抱えがちな異国での一人暮らしの中で
彼のような存在は貴重で、テイクアウトのメニューがそれしかないのに
食生活の偏りを感じながらも、殆ど毎日通ってしまう。
そこから5分程歩いた場所にある6階建ての老朽化したアパートの
最上階が、カリフォルニアでの佐々木の住まいだった。
エレベーターもなく水周りもよく故障するが、
その分家賃はこの辺りの相場の三分の二だ。
医師とはいえ専門研修医、しかも
お世辞にも儲かっているとはいえない病院に勤務している身の上では、
切り詰めるところはとことん切り詰めないと、生活が出来ない。
真夜中近い時刻とはいえ、まだ昼間の熱気が仄かに残っている部屋の
古ぼけた電灯をつけると、佐々木はそのまま湿っぽいベッドに倒れ込んだ。
勤務の疲れが瞬く間に全身に回り、数分とたたずに眠気が襲ってくる。
夕飯を食べて、シャワーくらい浴びないとと思うのだが、
身体が中々言う事を聞いてくれない。もう年だなと思いながら
とろとろとした眠気に身を任せていると、身体の脇に放り投げたカバンから
携帯の着信音が聞こえてきた。
――患者の急変か? ――
慌てて起き上がってかばんから携帯を掴みだし、
液晶に表示された名前を確認して、どっと力が抜けた。
「……小母さん、こんな夜中に何の用」
「おやごめんよ、こっちは朝だからね。元気かい、馬鹿息子」
耳元で聞こえる老いてはいるが艶を含んだ懐かしい声に、
佐々木は苦笑する。
「時差の事を考えてよ。元気だけど馬鹿息子は酷くない?
うん、大丈夫ちゃんと食べているよ。これから夕飯」
口は悪いが彼の事を気にかけて、日本から唯一電話をくれる
小さな地方都市で、ホテルとスナックを経営している養母のような人に
佐々木も文句をはさみながらも、嬉しそうに喋り続ける。
「そういえばこっちに届いた兵ちゃん宛てのハガキを
転送したけど届いているかい?」
「うん、届いてるよ。報告が遅れてごめん」
答えながら佐々木はそっけない灰色に塗られた壁に掛けられた
コルクボードを見る。そこには何枚かの「結婚しました」と書かれた
写真付きのハガキが留められていた。
「兵ちゃんの大学の同級生も大分結婚したね」
「そうだね、もう卒業して何年もたっているし、そろそろ皆
医者としても一人前になっている頃だから」
「……兵ちゃんももう三十を超えただろう、
そっちにいい人はいないのかい? 」
「仕事と勉強でそれどころじゃないよ」
苦笑交じりに言いながら、佐々木はコルクボードからその下の
日用品を納めたカラーボックスに目を移す。
そこの一番上のスペースには、大分色あせてしまった写真を納めた
銀製のフォトスタンドがぽつんと置かれていた。
重かった黒髪をバッサリと切って、見違えるような美人になった繭と
その横に仏頂面でのっそりと立つ、浪人生だった頃の自分。
たった数日間であるが妻だった人との唯一の写真。
「それに、俺はもう結婚しているし」
「結婚している、じゃなくてしていた、だろう。
あれから十年以上もたったんだ。新しい人を見つけても
繭ちゃんは許してくれるさ」
その言葉に、佐々木は何も答えなかった。
「今年の正月は帰っておいで。
休暇ぐらいはもらえるんだろう。じゃあ、ゆっくり休むんだよ」
沈黙に耐えきれなくなったかのような立て続けの早口の
言葉を最後に、電話は切れた。
「……まだ十年しかたってないんだよ」
無音になった電話をゆっくりと下ろしながら佐々木は呟く。
その胸元で、銀の鎖に通された細いリングが揺れた。
※
十年前のクリスマス、浪人生だった佐々木は、坪内総合病院のICUの個室で
妻を看取った。
妻、と言っても共に生活したことはない。
それどころか知り合ったのも僅か数ヶ月前だった。
親に殺されかけた自分と、親に身体ではなく魂に深い傷を負わされ続けてきた妻
十九才と十七才。親と言う名の獣から逃れるための入籍だった。
「兵ちゃんが一方的に出したことにしてある婚姻届だからね、
繭ちゃんが婚姻無効の申し出をすれば取り消せるからね」
知恵を授けてくれた佐々木の養母である久代の言葉に、妻は
「私は、木之下繭より、佐々木繭でいたい」
と言ってくれた。
僅か数日間の結婚生活。親から魂だけでも逃れる為に、
自ら遅効性の毒を飲んだ妻は、病室でささやかな結婚式を上げた次の日
天に召された。
通夜、葬儀と慌ただしい時が流れていき、
ようやく佐々木が妻の死を実感できたのは、小さな骨壷を納めた
白木の箱を腕の中に抱いた時だった。
本来ならそれは墓に納めるべき物だが、冷たい石の下、それに
自分を殺そうとした両親と同じ場所に妻を置くことがどうしても出来なくて、
佐々木は調べた末に、妻の骨をカロートペンダントに加工してもらう事にした。
手元供養と呼ばれるそれは、アメリカではごく一般的に行われているらしく
デザインも豊富だ。悩んだ末に渡せなかった指輪の形に作り上げてもらったそれを
首にかけた瞬間、強い感情が心の底から湧きあがってきた。
悲しみ、寂しさ、怒り、そして後悔。
両親に殺されかけて以来、凪の日の海のようにあまり感情を動かす事がなくなった
佐々木にとって、それは自分の心とはいえ恐怖すら覚えるものだった。
何も考えたくない。考える暇も無いくらい打ち込めるものが欲しい。
そして、浪人生の彼に打ち込めるものは一つしかなかった
「今から医学部を受験する?冗談だろう」
ぽかんとする予備校の講師たちに、
「決めたことですから」とだけ返答して
それからセンター試験の日まで、佐々木は睡眠はおろか
食事すらまともにとった記憶がない。
少しでも勉強の手を止めたら、妻の事を考えてしまう。
それが怖くてひたすら参考書と模擬テストの問題を解くことだけに集中した。
年が明けセンター試験、本入試とあっという間に過ぎていき
ふと気がつくと、一年前まではE判定だった国立大学の医学部の合格通知が
ポストの中に入っていた。
奇跡だと大喜びする予備校の教師達を佐々木は暗い顔で見つめていた。
これから何にわき目もふらずに打ち込めば、妻の事を考えず、自分の感情から
逃れることが出来るのだろう。
重い体を引きずるようにして家に帰り、ずっと掃除もしていない
埃だらけの床の上にぺたりと座りこんで茫然としていると、携帯が鳴った。
どうせ、久代小母さんからだろう。何度も心配して電話をくれるのだが
佐々木は十回に一回くらいの割合でしか出なかった。
おかしい、と気づいたのはどのくらいの時間がたってからか。
数コールで留守電に切り変わるはずが、
今日に限っていつまでも携帯はなり続けている。
鉛のように重い身体を動かして携帯を取り、
液晶に示された名前を見て、心臓がはね上がった。
「木之口繭」
二度とかかってくることのない相手。
妻の携帯は、空の上からかけられるようにと叶うはずのない願いを込めて
棺の中に入れた。
「……も、もしもし」
震える手で耳に携帯を当て、かすれた声を上げる。
「もしもし」
答えた声は、まぎれもない妻のものだった。
続く