第二十九話 回想
「思い出してみれば、俺の両親はそう酷い人達でもなかったよ」
2週間ぶりのカウンセリングルーム。小さなテーブルを挟んで
向かい合い、黙って耳を傾ける王に佐々木は語る。
どこからか微かにクリスマスソングが聞こえる。感謝祭から一週間が過ぎて
世間はクリスマス一色だ。そして、院長が定めた期限も残りわずか。
「母は自分なりに精いっぱい子育てをしていたんだろう、な」
今から二十年以上昔の話。まだ日本経済が右肩上がりの成長を続け、
既婚男性は家庭よりも仕事を優先させることが当たり前で、
女性は結婚をしたら家庭に入ることが暗黙の了解であった時代。
そして、昔ながらの「地域社会」が音もなく崩壊しつつありながら、誰も
その重大さに気付いていなかった時代。
両親を早くに亡くし、父と結婚して故郷の町にやってきた母は
頼る人も、知り合いもいない場所での子育てに不安と寂しさを抱えていたのだろう。
伴侶だった父は仕事に忙殺される毎日。
「母が新興宗教にのめり込んでいった時の気持ちが、今なら少しわかるよ」
ほの暗い笑みを浮かべながら佐々木は言った。もし、母が宗教と出逢わなかったら
ミナの義母のように、全力で子供に依存していたかもしれない。
繰り返される多額の寄付と、奉仕活動という名目での長時間の外出。
家事がおろそかになった家の中は荒れていき、
両親は顔を見合わせる度に諍いを繰り返した。
「両親が離婚しなかったのは、時代のせいと俺がいたからだろうな」
それでも、
「ごめんね、いい子でお留守番をしていて」
抱きしめてくれながら、後ろも振り返らずに家を出て行く母親。
「ごめんな。寂しいだろう」
頭をなでてくれながら、終電間際までの残業をやめようとしない父親。
「そんな両親を見て、俺は子供だったけどまるで波打ち際に造り捨てられた砂の城が
ゆっくりと崩れていくように、自分の家が壊れていっているのは判っていたよ」
だが、子供だった佐々木が出来ることは、
薄暗く冷え切った家の中で二人の帰りを待つ事だけだった。
「父親も仕事に逃げ込む事で、現実から目を背けていたんだな。
だから貯金を使いこまれて、現実と向かい合わざるを得なくなった時
あんな行動をとったのか」
「いや」
王の言葉に佐々木は首を振る。
「父親が無理心中をするきっかけを作ったのは、俺なんだ」
あれは今日のように、クリスマスが間近に迫った冬の日の事。
珍しく父親が残業なしで家に帰ってきて、母親も奉仕活動がなく
久しぶりに家族で食卓を囲んだ。
それだけの事が本当にうれしくかったことを、今の佐々木ははっきりと
思い出す事が出来た。
「ねえ、お母さん明後日の参観日、国語だけれどクリスマスの劇をやるんだ
きてくれるよね」
「ごめんね、明後日は昼から奉仕活動があるのいつものように
先生には連絡をしておくから、我慢してね」
困ったような笑みを浮かべた母の答えに、舞い上がっていた気持ちがしゅんと萎んだ。
「でも、今年最後なんだよ。一生懸命練習もして友達のお母さんたちは
皆見に来てくれるんだよ」
「ごめんなさいね、でもお母さんは皆の幸せを願って活動しているの。
それは参観日に行くよりもずっと意義があって尊いことなのよ、だから我慢してね」
いつも佐々木に何かを諦めさせる時に繰り返される同じ文句の言い訳。
「いつもならそれで無理やり納得させられるんだけれど、その日に限って
無性に腹が立った」
両頬の傷痕がじくじくと痛みだす。そこにやはり酷い傷跡が残る手を当てて
佐々木は話を続けた。
「嫌だ、お母さんはいつもそう言うけれど、僕はお母さんが奉仕活動をしていても
ちっとも幸せじゃないよ。来てよ、友達のお母さんと同じようにしてよ」
幼児のように癇癪を起した佐々木に、母親は声を荒げる。
「なんてことを言うの。他の会員のお子さんはみんな笑顔で
お母さんを送り出しているのに」
「おい、授業参観くらい行ってやれよ。」
黙ってビールを飲んでいた父親が口を出すと、母の苛立ちはそちらに向けられた
貴方だって家のことは何もしてくれないじゃない。こんな時だけ父親面しないで。
誰が稼いで食わしていると思っているんだ。それに
教育のことはお前に任せたといっているだろう。
徐々に激しさを増していく二人のののしり合いに、佐々木は慌てて
ごめんなさい、と繰り返した。だが、それに二人は気付く風もなく、
やがて父親が足音も荒く物置から日曜大工に使っていた鉈を取ってくると
母が朝晩熱心に拝んでいる「神像」に向かってそれを振りあげた。
「こんなものがあるから悪いんだ」
目を血走らせ、大声を上げる父親。
叫び声を上げて、神像に覆いかぶさる母親。
その後頭部に振り下ろされる分厚い刃。
濁った悲鳴と共に天井まで吹き上がる血しぶき。
そのすべてを佐々木は瞬きすることもできずにただ、見つめていた。
生温かい返り血を浴びて、父親も悲鳴を上げてナタを放り出す。
「ひ、兵衛」
全身を真っ赤に染めた母親が、片手に神像を抱えて佐々木にしがみつく。
「ごめんね……ごめんね。……様、許して下さい」
信じる神の名と謝罪をくりかえす声が、少しづつ小さくなっていく
「ごめん……なさい」
やがて母親の身体から力が抜けた。
「お母さん?」
震える声に答えはない。
「お母さん、しっかりして、お母さん」
狂ったように問いかける佐々木の前に
いつのまにか父親がナタを片手に立っていた。
「お父さん?」
「ごめんな。兵衛」
いつものように大きな手が佐々木の頭をなでる。
「お父さん?」
答えはない。ナタを握り締めたもう片方の手がゆっくりと振りあげられた。
「いっしょに、お母さんのところに行こう」
次の瞬間に顔に凄まじい衝撃が奔り、視界が真っ赤に染まった。
一体何が起きたのか判らないまま、悲鳴だけが口から迸る。
「ごめんな、ごめんな」
父親の声と一緒に身体にも同じような衝撃が奔り、それは
激痛へと変わっていった。
ぬるぬるする暖かい物が全身を覆っていき、鼓動の音が
煩いくらいに耳の中に響く。
「痛いよ、痛いよ、痛いよ」
床に倒れてのたうちまわり、どのくらいの時間が過ぎたか
紅く染まった視界の中に、椅子に登ってロープを首にかける父親の姿が写った。
「ごめんなさい」
その言葉と一緒に父親の足が椅子から離れた瞬間
幼かった佐々木の「家庭」という名の世界は崩壊した。
続く