第二十八話 解除
「佐々木先生の方はどう?病状は好転した?」
ひとしきり笑い合った後、ミナに問われて佐々木は返事をするかわりに
テーブルに視線を落とした。
「あまり、よくないの?」
「……実は、転科を考えているんだ」
「え?」
驚くミナに、佐々木は微かに苦笑する。
「二カ月、投薬と認知療法を組み合わせた治療を受けたけれど
あまり効果がないんだ。このままだらだらと時間を無駄にするより
思い切って違う科で一からやり直した方がいいような気がする」
「陰月は、何と言っているの?」
「俺の欠落した記憶の中に原因があると思っているみたいだけど、
同じ精神科医として、俺はそれに賛同できないよ。
フラッシュバックした記憶は妻との別れのものだったし、
パニック障害の三分の一は明確な原因が特定できないんだ」
「先生はそれでいいの?」
ミナの再度の問いに、佐々木は黙り込む。
「留学までしたのに、そんなに簡単に志を諦めて後悔しない?」
「……仕方ないんだ」
自分に言い聞かせるように、佐々木は言った。
「いつ発作が出るか判らない状態で患者を診ることはできない。
治る保証もない、だから……」
「先生が決めた事に私が口を挟む権利はないわ、でも」
そう言ってミナはアーモンド形の美しい瞳で佐々木を見つめる。
「私は一人の患者として、先生にはこれからも精神科医でいてほしいと
思うわ。そして多分、同じ思いを抱いている患者さんは大勢いる」
「ありがとう」
その目を見返す事が出来ずに、うつむいたまま佐々木は口の中で呟いた。
「誕生日にケーキを焼いてくれたこと、大学に合格したお祝に私の大好きな花を
家じゅうに飾ってくれたこと、好きな絵本を眠るまでずっと読んでくれたこと
熱を出した時、一晩中看病してくれたこと」
突然指を折りながら、唄うようにミナは言いだす。
「ハーカー先生?」
「ママが私にしてくれた、嬉しかったこと」
答えてミナは泣き笑いのような表情を佐々木に向けた。
「先生から見ればママは私の病理の原因で、酷い人、なのかもしれないけれど
それでもママは私に沢山のいい思い出を作ってくれたわ」
「そうなんだ」
そういえば、妻にも似たような事を言われたと佐々木は思う。
「だから、佐々木先生の失ってしまった記憶の中にもいい思い出は
きっとあると思うの」
「……」
ミナの言葉に佐々木は無言のまま頬の傷痕に指を這わせる。
「佐々木先生の御両親の行為は決して許される物ではないけれど、
先生を同じ世界に連れて行こうとした位、御両親は先生を愛していたと思うわ
本当に要らない子供だったら」
語尾が微かに震えると同時に、アーモンド形の瞳から涙が零れおちた。
「私のように、生まれた時に捨てられているわ」
「ハーカー、先生」
「ごめんなさい」
戸惑う佐々木にミナは謝る。
「だから、失った記憶を怖がり過ぎないで。きっと思い出して良かったと
思える事もあるはずだから。そこに先生の病の原因があるかもしれないなら
もう少しだけ頑張ってみて、最後まであきらめないで。お願い」
「ありがとう」
胸に満ちる感情を上手く言葉にすることが出来なくて、
佐々木は唯それだけを言った。
「ごめんなさい、せっかくの感謝祭なのに
私変なことばかり言っているわ」
「そんなことないよ、俺は、その、上手く言えないけれど
すごく、そう、すごく嬉しかった」
十年前妻と過ごした短い間に同じような思いを何度も抱き、
もう二度と抱くことはないと思い込んでいた。
「本当に?」
涙でぬれたミナの顔に笑みが浮かぶ。
つられるように佐々木の顔にも笑みが浮かんだ。
「俺、すごく大きなプレゼントをもらった気分だよ」
「そう、じゃあせっかくだからこれもやりましょうよ、
ケーキじゃなくて申し訳ないけれど」
重くなった空気を吹き飛ばすように、明るく言いながら
ミナはかぼちゃのパイに蝋燭をたてる。
「この年でこんなことをするなんて、照れるな」
「いいのよ、お祝なんだから。電気を消すわよ」
暗くなった室内に、蝋燭の炎だけがぼんやりと浮かびあがる。
オレンジ色の暖かい光を見つめているうちに、ふと佐々木は
記憶の底に同じような光景を見つけた。
久代小母さんと誕生日を祝った時のものだろうか?
「蝋燭を吹き消す時に、願い事をするのよ」
……ろうそくをふーするときに、お願い事をしてごらん。
きっと神様が叶えてくれるから……
ミナの声に、別の声が重なる。久代ではなくもっと若い
そして懐かしく優しい声。
蝋燭のほの暗い明かりの中に、童話のように懐かしい顔が浮かんで見える。
写真の中のかしこまった笑顔とは違い、優しそうに嬉しそうに
自分に向かって微笑みかけるこの二人は。
「……お父さん、お母さん……」
「佐々木先生?」
虚空を見つめて呟いた佐々木に、ミナが心配そうに声をかける。
「誕生日を、祝ってくれたことがあったんだ」
「どうしたの?大丈夫?」
「うん」
佐々木は小さくうなずいた。
もっと冷たく殺伐としたものだと思っていた忘却した記憶。
だが、今胸を満たすのは羊水に似たほの温かい思い。
「思いだしたんだ、両親が誕生日を祝ってくれた時の事を」
子供の目にはとても大きく見えたケーキ。
蝋燭を吹き消す自分を笑顔で見守っていた両親。
消えた瞬間に二人が拍手をして……。
探して探して、探し疲れて
一体何を探しているのか忘れてしまった大切な物を
ふと、部屋の片隅で見つけたら、こんな気分になるんだろうか。
「本当に?よかったわね」
うん、ともう一度頷いて佐々木は蝋燭を吹き消した。