第二十三話 葛藤
「ハーカー先生、落ち着いて。雷は建物の中にいれば大丈夫だから。
とりあえず、部屋から出よう」
その言葉にミナが頷く気配が伝わってきたものの、しがみついた腕の力が
緩む気配はない。
しかたなくそのままで佐々木はそろそろと歩きだしたが、すぐに床の上に
無造作に置かれたガラクタに躓いて転びそうになった。
窓から差し込む他の棟からの僅かな明りにぼんやりと見える扉までの距離が
恐ろしく長く見える。
「ほら、ここに座って。電気がつくまで待とう」
結局怪我をしても厄介なので、近くにあった長椅子に二人は並んで腰を下ろした。
部分的な停電なので、復旧までにそう時間はかかるまい。
また窓の外が白く光り、半瞬の間を置いて轟音がそれに続く。
「いや!!」
小さな悲鳴と共に、ミナが佐々木の肩に顔を押し付ける。
コロンらしい甘い香りが鼻先をくすぐった。
「せ、先生。大丈夫だから、少し、離れて」
うわずって掠れた声で佐々木は懇願する。
激しい動悸は、彼女に欲望を感じたからではない。恐怖ゆえだ。
呼吸が荒くなっていくのがわかる。
ーー落ち着け、落ち着くんだーー
このままでは過呼吸になってしまう。
だが、子供のように怯えたミナの前でそれを起こせば
彼女までパニックを引き起こす可能性がある。
おぼれた者が藁をつかむように、長椅子の上をまさぐっていた指先が
暖かく柔らかい物に触れた。どうやら毛布の様だ。
「これに包まって、少しは落ち着くよ」
少々埃臭いそれで、ミナをすっぽりと包むとようやく肩から顔が離れ
しがみついていた腕の力が緩んだ。
――こんなことでも、発作が起きそうになるなんて――
少しも改善されない身体症状に、絶望感が湧きあがる。が、
「ありがとう」
ミナの小さな声に、底なし沼に沈んでいくような心地がふっと止まった。
と同時に背中にまわされた彼女の手の暖かさが全身に伝わる。
「まだ怖い?」
声をかけるとさらに少しづつ気力が戻り、呼吸が安定してくるのが判る。
人が隣にいる事を、これほどありがたいと思ったことは初めてだ。
「少し」
毛布越しに触れ合った彼女の身体が微かに震えている事が判って
佐々木は恐る恐るそこに自分の腕をまわした。
ギュッと力を込めると、ミナの震えが止まった。
恐怖解消に有効な方法。直接触れ合っていないせいか、
今度は発作が起こる気配はない。
「人間、意外な所に弱点があるんだね」
稲光がするたびに、毛布の下で身を縮こませるミナの背中を優しく撫でながら
佐々木は言った。喋ると言う行為もまた、恐怖を和らげる。
「子供の頃、たった一人で留守番をしていたことがあったの」
「そう」
「その時に今日みたいに雷が原因で停電が起きて、一晩中
雷の音しか聞こえない真っ暗な家の中で一人ぼっち」
「それは、怖かったね」
毛布の下でミナが頷く気配が、佐々木の腕に伝わってきた。
「怖くて、泣きたくて。でも泣いちゃ駄目だから
ベッドの上で今みたいに毛布にくるまって朝が来るまで震えていたわ。
そして翌日帰って来たママに、宿題をやっていない事で怒られた。
それ以来、雷が駄目なの」
「どうして泣いちゃいけないの?」
「ママと約束したの」
一向にやむ気配のない雷に、びくびくと怯えながらミナは話を続ける。
「泣くのは不幸で弱虫の証拠。幸せで強い子は泣かない。
私は世界一幸せで強い子だから、ママの前ではいつも笑顔でいると
約束したの」
「泣いてみたら?」
「え?」
怪訝な声で問い返すミナに、
「今、泣くほど怖いんだろう。思いきって泣いてみなよ」
と佐々木は繰り返した。
「勘違いしないで、泣くほど怖かったのは子供の頃の話よ」
「今だって俺にしがみついて震えているよ。小さな子供と一緒だ」
はっとしたように、ミナが佐々木から身体を離す。だが次の瞬間
窓の外を白く染める光と落下音に、再びミナは悲鳴をあげながら
佐々木の胸の中に飛び込んだ。
「ほら、怖いんだろう」
その背を安心させるように叩きながら、佐々木は苦笑交じりに言った。
「泣くって行為は恐怖をやわらげるんだぜ。やってみなよ
結構すっきりするから」
「だめよ」
否定の声は、しかし小さく弱弱しかった。
「ママとの約束を破っちゃ駄目。絶対にダメ」
「カリフォルニアでは子供に一人で留守番をさせておくと
虐待になるんだったっけ」
「……ちがうの、ママはその日すぐに帰ってくるはずだったの
でもお友達とのおしゃべりが楽しくて、天気も崩れて、だから帰って来れなくて」
「なんだ、ママもハーカー先生との約束を破ったんじゃないか」
佐々木の言葉に、ミナが息を飲む気配がした。
「だったら先生も約束を破っちゃいなよ。これでおあいこだ」
いたずらをけしかける子供のような口調で、佐々木は言葉を続ける。
「先に約束を破ったのは先生のママだ。悪いのはママなんだよ」
「でも、でも」
ミナは激しく首を振った。
「約束を破られても、いいえ、どんな事をされても
私はママを許さなきゃいけないの。それが親に捨てられるような子供を
育ててくれたママへの恩返しなの。A君……貴方だって許したんでしょう
自分を殺そうとした御両親を。だから、だから私も許さなきゃいけないのよ」
苦しげな、心の奥底から絞り出すような声でそう言って、さらに呪文のように
許さなきゃ、と小声で繰り返すミナの耳元で、佐々木はそっと告げた。
「俺は、両親を許していない」
続く。