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第二話  専門研修医(フェローシップ)

「佐々木先生、王先生よかった、探していたんですよ」

「すまない、屋上にいた。で、急変したのは誰?」

「キャシーちゃんとアラン君です。佐々木先生は閉鎖病棟3号室へ

王先生は開放病棟プレイルームにお願いします」

看護士の言葉に二人は頷くと、二人はどちらからともなく

「じゃ、がんばれよ」と囁き合うと廊下を右と左に別れた。

右手、王が進む先にあるのはだれでも出入りできる観音開き式の扉で

子供が喜びそうなカラフルな色合いで動物達の絵が描かれている。

一方佐々木が進んだ左手にある扉は、

同じような動物達の絵が描かれているものの

頑丈そうな鍵がかけられている。

鉄格子の隙間から佐々木の姿を認めた看護師が、

内側から鍵を開けてくれる。

「状況を説明して、歩きながらでいい」

「それが、よくわからないんです。いつものように昼食の後

お掃除の人が部屋に入ったあと、急に恐慌状態になって……」

「ここ一カ月くらいずっと落ち着いていたよね」

「ええ、身体の安全を考えて拘束した方がいいのでは?」

看護師の進言に佐々木は首を振った。

「まずは様子を見てみる、鍵を開けて」

「気をつけてください、さっき危うく噛みつかれそうになりましたから」

「わかった」

酷い傷痕が残る右手が掴んだのは、先ほどのものと同じ形状の扉。

頑丈な鍵が付けられ、白く塗られているとはいえ鉄格子がはまっているのに

そこに描かれているのは可愛らしい小動物。

「キャシー、どうしたんだい」

佐々木の呼びかけに、ベッドの上でピンク色の小花模様の壁紙を引き剥がしていた

10歳くらいの少女がくるりと振り返った。

その左手には、腹部から綿のはみ出たぬいぐるみが握られている。

「外に逃げるの!!」

可愛らしい唇から金属的な叫び声が上がる。

「逃げなきゃ……逃げなきゃ……きゃあああああああ」

もはや言葉にならない絶叫を上げながら、窓にはまった鉄格子に飛びついて

激しく揺さぶり始めたキャシーを、佐々木は後ろから抱きとめた。

「そう、怖かったんだね。逃げ出したいほど怖いことがあるんだね」

子供とはいえ全力でぶつかってくる手や足をまともに受けて

白衣の下の身体が悲鳴を上げる、それを堪えて佐々木はキャシーに囁き続ける。

「一つ、大きく息をしてごらん。大丈夫、先生が後ろについているからね」

その言葉にようやく少女の手足が動きを止めた。

「そう、キャシーは何が怖かった? ぬいぐるみ? それとも窓の外に

なにか見えた? 」

穏やかな声に、少女の手からゆっくりと力が抜ける。

そのままずるずるとベッドに横になった彼女の脇に、佐々木も座り込んだ。

無言のまま首を振りぽろぽろと涙を流し出すキャシー。

佐々木はゆっくりと頷いた。

「あせらなくてもいいよ、喋りたくなるまで先生はここにいるからね。

よく自分で自分を押さえられたね。いい子だ、キャシーはとってもいい子だ」

その言葉に何度も頷くキャシーを見て、看護師が胸をなでおろした。


                ※

「で、結局原因はなんだったんだ」

「煙草の匂いだよ。彼女を虐待していた父親がヘビースモーカーだったんだ。

今日はたまたまいつもの閉鎖病棟のクリーンスタッフが休みで、たばこを吸う

別の人間がキャシーの部屋を掃除したんだ。もちろん咥え煙草なんて真似は

していないんだが、服に染みついた匂いに敏感に反応してフラッシュバックが起きた」

「そうか、原因が判って何よりだ」

「ああ。今日は念のために薬をいつもより多めに飲んでもらったけど、拘束なしで

パニックが収まったのなら上出来だよ。で、王はどうだった?

その青あざを見れば想像がつくけど」

佐々木の言葉に、目の周りに青あざをこしらえた王が苦く笑う。

「大分症状が緩和した患者を試しに

解放病棟のプレイルームに連れ出してみたんだが早すぎたらしい。

別の子供達のはしゃぐ声にパニックを起こして

宥めようと近づいた瞬間に振りまわされた腕が当たった」

「それは大変だったな」

「まったく、自分の読みの甘さを思い知らされたよ、

で、キャシーちゃんが上手くいったのなら

ブラックジャックの手形はどこでつけられた? 

女性看護師でも口説いて失敗したか? 」

今度は佐々木が王と同じ表情を作った。

「別の患者をカウンセリング中にうっかり気に障る事をいった、らしい」

右頬の上の赤い手形は指の形まではっきり判って、

よほどの力でつけられたことが判る。

佐々木と王が再び顔を合わせたのは、すっかり日も暮れきった頃。

医局で当直の医師の為に引き継ぎ日誌を書きながら、

二人はそろってため息をつく。

「全く未熟者だよな俺達」

「ああ、子供とはいえ患者に殴られるなんて」

「そんなに悲観することではないわ」

背後からかけられたおっとりとした声に、佐々木と王は慌てて立ちあがった。

「院長先生」

「ああ、ごめんなさい、仕事を邪魔してしまったわね。

いいから座って頂戴」

まるで童話の挿絵にでも描かれそうな典型的な田舎の人のいい老婦人が

肉の厚い両手を上下に動かして、二人に着席を促す。

ピンクのスーツと白衣の組み合わせより、エプロンと揺り椅子と網棒が

似会いそうなこの女性が、全米でも小児の精神病治療では

トップクラスの規模と実績を誇るこの病院の院長だ。

「彼らの心はね、穴のあいた地面なの。しかも穴には落ち葉が厚く積もっていて

固い地面と中々区別がつかない。経験の浅い貴方方が穴に躓くのは仕方ないわ」

「お言葉ですが院長、俺達はもう経験が浅いとはいえない年月を……」

「医師としては過ごしているわ、でも専門医にはまだまだ及ばない、

だから専門研修医フェローシップなんでしょう」

佐々木の言葉を途中で遮り、院長は相変わらずゆったりと言葉を続ける。

「は、はあ」

「失敗するのは構わない。しかし同じ失敗を繰り返してはいけないわ。

失敗から必ず何かを学びなさい。私達が治すものは目に見えないのだから

経験の積み重ねこそが、大事なのよ」

まるで祖母が孫に向けるような笑みを浮かべながら、優しい口調で

医師として厳しい言葉を紡いでいく院長に、

佐々木と王は姿勢を正して「はい」と答えた。

「いい返事ね。頼もしいわ、さ、怪我には甘いものがいいのよ

これを食べて明日も頑張りなさい」

そう言って院長は油じみの浮いた紙袋を二人に渡すと

その体型にふさわしいゆっくりとした足取りで部屋から出て行った。

「またドーナツか」

「ああ。俺達完全に子供扱いされてないか」

「されてないかじゃなくて、されているだろう。完璧に」

「ああもう、腹が立つ」

乱暴に前髪をかきあげて、王は猛然と再び日誌にペンをはしらせる。

「腹が立つから俺は早く児童精神専門医になって、院長を

婆さん扱いしてやるんだ」

そう言って自分を鼓舞する王の隣で、佐々木もまた日誌に記入を再開しながら

こちらは口の中で呟いた。

「落ち葉が積もって平に見える、穴だらけの地面、か」






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