第十八話 願い
しばらくだまって毛布を見つめていても、暴言どころか返事もない。
「悪いとは思ったけど、鍵が開いていたから入らせてもらったよ。
でもこれでおあいこだね」
再び佐々木は、患者に対するように
穏やかで優しい口調で毛布の山に話しかける。
「王から大体の話は聞いた。ごめん、俺は君の思い描いていたような
立派な人間じゃないんだよ。いくら妻との思い出の品を
傷つけられたからといって女性に手を上げるような奴なんだ」
やはり、返事はない。
「そして精神科医のくせして自分の心すら持て余し、すぐそばにいる人間の
悩みすら察する事が出来ない、ハーカー先生が失望するわけだよ」
「……どうして」
ようやく毛布の下から気だるそうな掠れ声が聴こえた。
「どうして謝るの、私、先生に殴られても当然の事をしたのよ」
「それでも男が女性を殴るなんて最低だ。それに、ハーカー先生の
お陰で俺は肺炎にならずに済んだ」
「ごめんなさい」
いつもの彼女とは比べ物にならない小さく弱弱しい声の謝罪。
佐々木はそれにゆっくりと首を振った。
「謝らなくてもいいよ、でも俺に申し訳ないと思うなら
これから言う事を聞いてくれないかな」
かすかに毛布の山が上下した事を認めて、佐々木は先を続ける。
「ハーカー先生は人間関係のアディダクション(嗜癖)なんだ。
病気ではないけれど、このままでは社会生活に
重大な支障がでてくると思う。
内科医とはいえ、精神病院に勤めているんだから判るだろう」
また、小さく毛布の山が動く。
「それに、先生自身も辛いよね」
「そんな……ことない」
「辛いはずだよ」
佐々木はそう言って、ベッドの下にまで散らばった酒瓶を見渡す。
「素面でいられないんだろう。酔いが覚めるのが怖いんだろう。
ハーカー先生、もう、頑張るのはやめようよ」
「私、頑張ってなんかいない」
「いや、頑張るのが当たり前になっているから、
気付いていないだけで、もう先生は疲れ果ててくたくたなんだよ」
返事はない。再び押し黙ってしまった毛布の塊に、佐々木は
さらに語りかける。
「助けを求めてみなよ、王がずっと手を伸ばしてくれているだろう」
「……だめ」
「どうしてさ」
「悩みなんて話したら、不幸せだと思われるわ」
「……」
その言葉に、佐々木は毛布の塊を手の平で押さえつける
巨大な顔のない女性の幻を見た。多分、常にミナは母親から
そのようにいい聞かされているのだろう。
他人から幸せだと思われる事が最も大切な人間が支配する
監獄のような家庭。彼女は『自慢の娘』と言う名の囚人だ。
「ハーカー先生、先生が投げたふりをしたペンダントは、
俺の妻の遺骨が入っているんだ。
妻は幼いころ、親に酷い虐待を受けていて、誰にも助けを求められずに
自分で死を選んでしまった。俺の手にはまだ冷たくなっていく
妻の手の感触が残っている。その時の絶望感もまだはっきりと思い出せる。
俺は、もう誰にも妻のようになってほしくないし、俺と同じ思いを
抱いてほしくない。お願いだ、ハーカー先生。伸ばされた手を握ってよ。
まだ、きっとまだ間に合うから」
しばらく待ったが返答はない。佐々木はため息をついて
踵を返した。王が何年かかって説得しても駄目だったことを
いくら言葉を重ねても、自分が出来るわけがなかったのだ。
だが、
「……私、治るの?」
背中にぶつけられたすがるような響きのこもった言葉に
佐々木の足が止まった。
ふりかえると、迷子になった子供のような表情でミナが
ベッドの上に座っている。その左耳だけにシルバーの地に
サンゴがはめ込まれたピアスがぶら下がっていた。
「病気じゃないのに、性格なのに、治せるの?」
「治るよ」
佐々木は頷いた。
「時間はかかるかもしれないけれど、ハーカー先生が
きちんと自分の問題点を見つめて、治そうと思うなら
絶対に治る」
「なら」
すっと白くしなやかな手が、佐々木の方に伸ばされる。
広げられた掌の中から、はらりと皺くちゃになった紙が落ちた。
古い日本の新聞記事。今までずっとミナを支え続けてきたもの。
「先生が、治して」
「……」
佐々木は黙りこんだ。
自分とミナとの間には、すでに共依存に近い関係が築かれてしまっている。
「俺より、先生を治療するふさわしい人間がいるよ」
「先生、先生はこの新聞記事のA君でしょう」
ベッドの上の新聞記事を、ミナが指差す。
「多分、そうだと思う」
「なら」
再びすがるような目でミナは佐々木を見る。
その目にはいつもの周りを威圧するような力強い光の代わりに
涙が滲んでいた。
「お願い、前のように、私を救って」
ミナの表情に、亡き妻のそれが重なる。
すこしも似た所など無いはずなのに、今の彼女は驚くほど出逢った頃の
妻にそっくりだ。
「王に治療を受けるより、辛いよ」
ミナは頷いた。
「それでもいい、私は治りたい」
再び伸ばされる手、佐々木はしばらくそれを見つめた後、
何かを決意した表情でその手を握り返した。
「ありがとう」
「その言葉はまだ早い、まずはこのアルコール類を全部片付けよう。
そして、明日は必ず出勤してきて。職場なら
アルコールに逃げるわけにはいかないだろう
それに、内科がいい加減困り果てている」
うって変わった佐々木の厳しい口調に、
ミナは一瞬不満そうに何かを言いかけたがすぐに小さくうなずいた。
続く