第十六話 謝罪
「ハーカー先生の暴言は構造的にはDVと変わらない。
相手が恋人や配偶者より結びつきが弱い友人だったから、
問題が大きくならなかっただけだろう」
「ああ」
DVはそれに耐え、受容してしまう人間がいる事で
エスカレートする傾向がある。
「俺は自覚しないままバタードウーマンの役割を果たしてしまった。
王、精神科医ならハーカー先生の暴言が普通じゃない事も、
その原因も察しがついていただろう。
彼女は多分、母親に向けたいはずの怒りや悲しみを、
自分を受け入れてくれた友人たちにぶつけている。
甘えの歪み切った発露じゃないか。
内科のスタッフが彼女が休むとほっとすると言っていた。
多分ハーカー先生はもう暴言のブレーキが壊れかかっているんだ。
早くしかるべき治療を受けさせないと、
取り返しのつかないことになるぞ」
「判っているさ」
王が声を荒げる。乾いた音をたてて、
彼の手の下で古い新聞記事が真っ二つに裂けた。
「俺だってミナを救いたい。だけど彼女は病気じゃない。「
叔母の理想の娘」という型に
自分を無理やりはめ込んだ結果の歪みが、「暴言」として吹きだしている。
叔母そっくりだよ。勝手に自分の理想をつくりあげてそれに少しでもはずれると
容赦なく責め続ける。
そんな症例の治療の第一歩が何だかブラックジャックも知っているだろう」
「本人の自覚、か」
「そうだ、自分の性格の歪みとその原因を自覚しなければ、
どんな治療も効果がない。
俺は友人に去られて落ち込むミナに何度も話したよ、
本も渡した。無理やり自助グループの集会に引っ張って行った事もある。
でも駄目なんだ。あれだけ頭が良くて、聡明なのに、
自分と母親の歪んだ関係だけは、認めようとしない」
「そうか、いろいろ努力していたんだ……ごめん
一方的に攻め立てて」
「何で、謝る」
泣き笑いのような奇妙な表情で、王は言った。
「俺はお前に対しても酷い事をしたんだぜ」
「酷い事って、何を?」
きょとんとした佐々木に、王はふっと小さくため息をつく。
「ミナの暴言を黙って聞きいているお前に、何も言わなかっただろう」
「そうだ、どうして教えてくれなかった。バタードウーマンの
存在が暴言をエスカレートさせるのに。ハーカー先生が気の毒だ。
俺がもう少し察しが良ければ自分で気づいたんだけど。すまない」
その言葉に、王は参ったと言う風に小さく首を振った。
「どこまで人がいいんだ、ブラックジャックは。俺は
恋敵が苦しむさまを心中で笑いながら傍で見ていた酷い奴だぜ」
「……は?」
コイガタキという単語を佐々木が理解するまで数瞬を必要とした。
「恋敵ってなんだよ、恋敵って、さっきも言っただろう。
俺はハーカー先生と同僚以上の関係は……」
そこまで言って佐々木は先日の夜の事を思い出し
カッと身体が熱くなった。ミナが泥酔していたとはいえ
キスされたなどとは、いえない。
「判っている、判っているさ」
ぐしゃぐしゃと髪をかきまわしながら、絞り出すように
王は同じ言葉を繰り返した。
「全ては俺一人の身勝手な嫉妬だ。だがな、俺は、
ずっとミナを傍で見てきた俺は、たった一回も暴言を吐かれた事がない」
「……それは、君がミナの理想の男性だからじゃないのか」
背が高くハンサムで、しかも佐々木がアメリカに来た当初彼は
レジデント達を纏めるチーフの地位にあった。誰にでも優しくて
患者からも同僚からも慕われる、理想的な医者。それは佐々木から見た
王陰月の姿だった。
「ちがうさ」
ポツリと王は呟く。
「ミナの理想は、たった一人の女性を生涯愛しつづける男性だ。
正反対だろう、俺は」
「ま、まあな」
唇の端に苦笑のかけらを浮かべて佐々木は頷いた。
当然のように王は女性に人気があった。
深い関係になる恋人が途切れた事はない
だが、どの女性とも長く続く事もなかった。
「ミナが本当に俺に心を許していたら、とっくの昔に暴言の集中砲火を
受けていた。でもそれをとっかかりに治療を始める事も出来た。
でも、彼女は俺がいくら奔放な女性遍歴を続けても、軽く苦笑して
『今に酷い目にあうわよ』と言うだけだった」
「そうか」
「俺はミナが子供のころからずっとそばにいた。
夜中に寂しがって泣く彼女と抱き合って眠った事もあるし、
叔母の考える理想の娘になれないと悩む彼女を慰めて、励ました。
ボーダーラインを彷徨う彼女に一生付き合ってやろうと
精神科医にもなった。それなのにミナは」
言いながら、王は二つになった新聞記事をさらに
幾つもの紙片に破り続ける。
「4年前日本からやってきたブラックジャックに、いや
たった一枚の新聞記事よりも、俺に心を開いてくれなかった」
口に苦い笑みを浮かべながら、王の眦には涙が滲んでいる。
「暴言を吐かれる、いや、どんなに歪んだ形であっても
ミナが甘える事の出来るお前が、心底うらやましくて
嫉妬で気が狂いそうだった」
沈黙が落ちた。時計の針が時を刻み続ける単調な音色だけが
再び部屋に満ちる。
「悪かった」
ぽつり、と佐々木が呟いたのはどのくらいの時が立った頃か。
空調の微かな風に飛ばされて、紙片と化した新聞記事は
テーブルの上に雪のように散らばっている。
「よく注意していれば、俺にはハーカー先生の暴言が
普通と違うと気付いたはずだ、いや、気付かなければ
いけなかった。俺だって精神科医なんだから。
そして、院長先生の言うとおりハーカー先生に対して
怒って一定の距離を保つべきだった。
いくら知らないとはいえ、俺はハーカー先生の症状を
悪化させてしまった。君が怒るのも無理はない」
「……馬鹿野郎」
両手で顔を覆って王は呻く。
「なんで、怒らないんだ。どうしてここまで話を聞いて
自分が悪いなんて言えるんだ。底抜けにお人好しで、
自尊心が低すぎるんだよお前は」
そして、突如立ち上がると、乱暴に佐々木の長く癖のある髪に
手を突っ込んでそれをかきまわした。
「ちょ、ちょっと、王」
「どうしてお前は他の留学医師みたいに、自分の優秀さを鼻にかけた
嫌味な奴じゃないんだよ。お前がもっと傲慢で、人を見下して
ついでにミナの容姿だけを見て
鼻の下を伸ばすような下種野郎ならよかったのに
そうすれば、いくらミナに暴言を吐かれても
ざまあみろと思うだけだった。
ミナにA君の現実はこんなもんだって言う事も出来た。
親切そうに近づいて、陰で意地悪して病院から追い出す事も出来た」
そのまま佐々木の頭を胸の中に強く抱きしめながら、王は嗚咽交じりに続ける。
「許してくれとは言わない。殴っても構わないし、一生軽蔑されても
かまわない。だだ、謝らせてくれ。ミナが佐々木の命より大事な物に
取り返しのつかない事をするまで、お前が錯乱状態になるまで、黙っていて
本当に悪かった」
「……王」
呟く佐々木の頭上に暖かい水滴が幾つも降り注いだ。
続く。