第十三話 対話
佐々木先生、体調はもうだいじょうぶなんですか?」
「ゆっくり休めましたか? また頑張ってくださいね」
医局に入った時から次々と掛けられる看護師や心理士たちの
短いが暖かい言葉に、佐々木は休んでいる間にたまりにたまった
書類やカルテを片付けながら、安堵のため息をついた。
身体がこわばるほど張り詰めていた気持ちがふうっと緩んでいく。
患者の目の前で過呼吸発作を起こして倒れた上に、院長に
五日間もの休養を命じられた。通常の時でも、人手が十分だとは
お世辞にも言えない職場である。
たった一人とはいえ、予定外の職場離脱が他のスタッフに与えた負担を
思うと、嫌味の一つや二つ、言われる事を十分に覚悟して出勤したのだが
どうやら杞憂だったようだ。だが、
――ハーカー先生は、どうしたんだろう――
なぜか自分を目の敵にしている女医の姿がまだ見えない。
昨日の夕方、四日ぶりに自分のアパートに帰り広すぎる机の上に置かれた
汚れたタオルと食べかけのゼリーを見て、佐々木は複雑な気持ちになった。
ミナの行為は許せることではないが、
彼女が自分を看病してくれた事もまた事実なのだ。
しかも佐々木は彼女を二度も、しかも全力で殴っている。
第三者から見れば非があるのは自分の方。
ミナもきっと新しい攻撃材料ができたとばかりに
今まで以上に突っかかって来るだろうと思っていたのに。
「そういえば、ハーカー先生は? 姿が見えないけれど」
昼近くになって、ついに側にいた心理士に尋ねてみたところ
「風邪で二日前から休んでいますよ。内科のスタッフ達がほっとしているのは
そのせいです」
とため息交じりにかえされた。どうやら、うつしてしまったらしい。
だがほっとしているとはどういう事だろう。
精神科に比べて内科はより少人数で余裕のない
ローテーションを組んでいるはずなのに。
佐々木の表情で言いたい事を察したのか、心理士が僅かに苦笑しながら
「ほら、ハーカー先生って性格がきついじゃないですか。佐々木先生だって
大分やられているから判るでしょう。
本人がなまじ優秀な分周りの失敗に容赦がなくて
ハーカー先生と組むスタッフは毎回何時怒鳴りつけられるかと、
びくびくしているんですよ」
と教えてくれた。
「そういえば、先生は今日は外来の診察は ?」
「院長から止められている。当分限られた入院患者さんの診察と、
カルテの整理くらいしかできないよ」
「そうですか、早く良くなるといいですね」
「ありがとう」
片手を上げて部屋を出て行った心理士を見送って、
佐々木はたまってしまった書類の整理を再開する。
ミナの態度を見ていれば、内科のスタッフたちの態度は深くうなずけるものだが、
休んだ事を喜ばれるのは酷く寂しいことだな、と思う。
そういえば、ミナが王以外と病院内で親しく話をしていたり、
ランチをとっていたりする姿を見た事がなかった。
彼女は親しい同性の友人もいないのだろうか。
「よう、ブラックジャック。無事に出勤できたみたいだな、よかった」
「王、その、今回はいろいろありがとう。すっかり迷惑かけてしまって」
佐々木の言葉に、外来診察から戻ってきた王は、
気にするなと笑って隣に腰を下ろす。
「病人を助けるのは医師の義務だろ。それに、母さんが喜んでた。
自分の水餃子をここまで褒めてくれた人は久しぶりだって」
「いや、あれはお世辞抜きで本当においしかった」
日本の出身なら、これが口に合うかしら。喉越しもいいし栄養もあるから
風邪の時にはもってこいよ。
王とよく似た顔立ちの、どっしりと大地に根を下ろした
樹木のような印象の彼の母親が作ってくれた水餃子は、
この国で食べたどんな料理よりもおいしかった。
「ほら、うちは父親と兄達が料理人だからさ、めったに他人の料理は褒めないんだ」
「王があの有名なチェーンレストラン、キングチャイニーズのオーナーの孫
だったなんて。教えてくれてもよかったのに」
「レストランをやっているのは祖父と親父たちで、俺は一介の勤務医だよ。
自慢することでもない」
「でも、御曹司じゃないか」
「チャーハン一つ満足に作れない落ちこぼれだって、
一族じゃお荷物扱いされてるんだぜ」
何処かわざとらしく続けられる辺り障りのない会話。
お互い話したい事があるはずなのに、切りだすことをためらっている。
「……そういえば、ハーカー先生風邪で休んでるんだって」
ついに佐々木が、一歩踏み込んだ。
書類を記入していた王の手が止まる。
「今日、勤務は何時までだ?」
「特に何もなければ、19時には終わる」
「じゃあその後、カウンセリングルームに行こう。
医局で出来る話じゃないからな」
「判った」
頷いた佐々木に、王もまた頷き返す。
その表情を何処かで見た事があるなとおもったが、
それがいつ、どこで見たものなのか
時計の針が19時を指しても、佐々木は思い出す事が出来なかった。
※
「さて、まずはブラックジャックの話から聞かせてもらおうかな」
「俺から?」
王の話の聞き手に徹するつもりだった佐々木は、面食らった。
午後19時30分。二人が向かい合って腰を下ろしたのは、
病院で一番小さなカウンセリングルーム。
広さは6畳間ほどだが圧迫感を与えないように天井は高く、
壁紙や椅子は目に優しいベージュで統一されている。
「治したいんだろう、フラッシュバックと過呼吸を引き起こすパニック障害」
「そりゃあそうだけど、処方された薬はきちんと飲んでいるよ」
「それは当たり前だ、でも+αが必要だとは思わないか。精神科医としてさ」
「……」
佐々木は沈黙した。確かに自分の症例は特殊だ。十年もたってなぜ今妻の死を
思い出してパニック発作を起こす?
「ひょっとして、院長のご指示か? 」
「あたり、実は結構多いんだ。勤めているうちに精神の具合が悪くなる職員は。
院長はそのあたりも気を配って下さる、と言うわけだ」
「なるほどね」
今朝のスタッフの優しさの理由が何となく理解できた。
自分が佐々木と同じようになるかもしれないという思いを、皆が抱いているのだろう。
「で、王が俺のカウンセリングをやってくれるのか?」
「同僚に治療されるなんて変な気分だろうが、我慢しろよ。守秘義務は守るから」
「当たり前だ、……それで、君の話は?」
「お前の話が終わってからだ」
どうやら、よほど話しにくいものらしい。
一体王は何を知っていると言うのだろう。
「そんな顔するなよ、約束は守るから。俺としてはまず不安階層表を作りたいんだが
精神科医としてブラックジャックはどう思う?」
「異存は無い。俺が治療する側でも同じ方法を取る」
不安階層表とは、パニック障害の原因となった原因が判っている場合、
その出来事を細分化し、何が一番怖いのか、順位付けを行うことを言う。
たとえば、犬にかまれたことが原因で犬が怖くてたまらなくなった人間がいるとしたら
犬を見る、犬のそばを通る、犬に触れる。と行動を細かく分け怖さの順位付けをするのだ。
そうすることで、自分が一番恐怖を感じる出来事を特定、認知することが出来る。
「じゃあ、言いにくいだろうがブラックジャックのパニック発作の原因を
話してくれ、気分が悪くなったら、止めてくれてかまわない。」
「大丈夫だ。」
一つ頷いて、佐々木は単調に時を刻み続ける時計の音をBGMに
妻の事を語る。出会いから、お互いの秘密の告白、それを知って尚
お互い惹かれあったこと。たわいもないデートを重ね、
クリスマスを楽しみにしていた事、そして、
「……俺は繭の握っていた袋を開けたんだ。
そこには「ごめんなさい」と書かれたメモ……っぐ」
そこまで語った時、胃をねじり上げられるような吐き気が襲ってきた。
「大丈夫か?」
立ち上がりかけた王とかろうじて手で制して、洗面所へと走る。
手洗いに手をついたとたん、胃の中身が陶器の器の中に一気にぶちまけられた。
「……なんで、こんなことが」
薬はきちんと飲んでいるはずなのに。
何度も嘔吐し、ふらつきながら部屋に戻ると王がテーブルに肘をついて、
顔を手で覆っていた。
「王?」
「ああ、すまんな、大丈夫か」
「ああ。何だか身体症状がひどくなっているような気がする。
情けないな。十年も前の事なのに」
「無理をするな、風邪だってまだ治ったばかりだろう」
そう言いながら、王は何度も手で顔をぬぐう。
ようやく手を離した時、佐々木はその目が真っ赤になっている事に気づいた。
泣いていた……まさか。
「今日はここまでにしよう、余り体に負担をかけてもよくない」
そう言って王はカルテを挟んだバインダーを閉じた。
「さて、俺の方だったよな」
と言いながらも、王は中々その先を続けようとしない。
コチコチと単調に時を刻む時計の針の音だけが部屋に響いている。
「王、ちょっと一服しないか」
そう言って佐々木が立ちあがり、部屋の隅に置いてあった
ポットとミネラルウォーターのボトルをとった。
この病院では患者にリラックスしてもらうために、
どのカウンセリングルームでも温かい飲み物が飲めるような用意がされている。
「いいけど、コーヒーはやめておいた方がいいぞ」
カフェインは、パニック発作を誘発させる原因の一つである。
「判っている、だからこれを部屋から持ってきたんだ」
佐々木が白衣のポケットから取り出したのは、緑茶のティーバック。
「ジャパニーズグリーンティー。空港で買った物だけど最近の
ティーバックは中々捨てたもんじゃないぜ」
しばらくすると、電気ポットがシュンシュンと湯気を吹きあげ出す。
白いマグカップの中にティーバックを入れ、湯を注ぐとそれは綺麗な緑色になった。
「いい香りだな、ロンジン茶に近いものかもしれない」
そう言って、王はカップの中身を啜る。
「君が話したくなるまで待つよ」
穏やかな佐々木の言葉に、王は昼間と同じ表情をして頷き、しばらくして
意を決したように、やはり白衣のポケットから一枚の古ぼけた紙をとりだす。
「これを、覚えているか」
手渡された紙はどうやら新聞の切り抜きの様だ。かなり古いものらしく
端の方が黄ばんでいる。そして、縦書きの、見た端から理解できるこの文字は
「日本語、だよな、これ」
王は頷いた。
「その写真、ブラックジャックだろう」
指差されたそれは、酷く不鮮明で粒子の粗い写真だったが
パジャマを着て顔に包帯を巻いた子供だと言う事がわかる。
そして、その隅に小さく「坪内総合病院にて撮影、A君」とあった。
その病院は、確かに佐々木が怪我をした時入院していた病院。
だが、こんな写真を取られた覚えは記憶のどこをかき回しても
でてこなかった。
続く