第十一話 狂乱
瞼を射る眩しい光にうっすらと目を開けると、
テーブルの裏側と椅子の足が視界一杯に写る。
自分が土足で歩きまわる床の上に倒れていると気付くのに、数瞬かかった。
と同時に酷い悪寒が背筋をかけのぼり
酷い痛みとなって頭を内側から乱打する。
肌にべったりと張り付いたびしょぬれのYシャツが
凍えるほど冷たく、気持ちが悪かった。
着替えないとと起き上がろうと僅かに頭を上げたとたん、
部屋の全てが歪んで見える程の目眩に襲われて、
再び床に突っ伏す。
どうやらかなりの高熱が出ているらしい。
悪寒と目眩はそのせいだろう。
「……まずい、な」
いくら温暖な季節とはいえ、この身体でずぶ濡れのまま床に倒れていれば
肺炎になるかもしれない。
だが、息をするのも辛い身体は容易にいう事を聞いてくれない。
何度か椅子や机にすがって立ちあがろうとして失敗し、その度に冷たく固い床に
身体が叩きつけられて全身に耐えがたい痛みがはしる。
「もう、どうでもいいや」
ついに佐々木はかすれた声で呟いて、全身の力を抜いた。
妻を無くしてしまった罰が当たったんだ、このまま死んでもしょうがない。
少しでも悪寒を和らげようと、両手で肩を抱いて身体を丸め、
目眩を感じないように眼を固くつぶっていると、うとうととした眠気がやってくる。
高熱が誘う(いざなう)浅い眠りの中、佐々木は妻を探し続ける夢を見た。
倒れそうになる位走り回って、やっと妻の姿を見つけると
それはすでに氷のように冷たく硬い死体となってしまっている。
「繭!!」
自分の叫び声で佐々木は眼を覚まし、悪寒と頭痛、それに喉の渇きに苦しみながら
またとろとろと眠りに落ちて同じような夢を見た。
そんな事をどれだけ繰り返したのだろう。
何度も遠くから名前を呼ばれ佐々木は重い瞼をうっすらと開いた。
目の前に妻が立っている。
「……繭?」
呼びかけに困ったように笑いながら、
妻は自分の手を熱心にタオルで拭ってくれた。
その暖かさと心地よさに、ため息が漏れる。
拭い終わったのか、妻の手がすっと伸びて自分の額に触れた。
その冷たい感触がまた気持ち良い。
「繭、ありが……とう」
「目が覚めた、佐々木先生」
妻の口から放たれた、明らかに別人の声に急速に意識が覚醒する。
と同時に妻の姿が溶けるように消えて、
まだ目眩で歪む視界の中に現われたのは
妻と同じ黒髪の、しかし比べ物にならないほどアーモンド形の瞳に
攻撃的な強い光をたたえた女性。
「ハーカー、先生? 」
「動かないで、今熱を測っているから」
起き上がろうとした佐々木の肩を、
しなやかな手が意外なほど強い力で押しとどめ
耳穴に差し込んだ体温計を抜いた。
「39度5分、結構高いわ。一晩中ずぶぬれの泥まみれのまま床で寝ていたの?
変わった趣味の持ち主ね」
いつもの調子で突っかかられて、佐々木は
「どうして、ここに?」
とかすれた声で訊ね返した。
「目が覚めたらこのジャケットが部屋にあったのよ。ポケットに先生の
財布が入ってたから、さぞかし困ってるだろうと届けにきたの。
呼び鈴押しても返事がないから帰ろうかと思ったけど、念のためにノブを回したら
あっさり空いたから、そのまま入らせてもらったわ。
良かったわね、私が強盗じゃなくて」
呆れたような表情で、ミナは自分が昨日来ていたジャケットを軽く掲げる。
鍵をかけ忘れていたことどころか、財布を置き忘れたことさえ今まで気がつかなかった。
「でも、黙って入ってこなくても」
「遠慮して入らなかったら、先生は肺炎を起こしてあの世行きだったかもよ
その方が良かったかしら。だとしたら手当てして損したわ、
ベッドに寝かせるだけでも一苦労だったのよ」
その言葉に、佐々木は初めて自分がベッドの上にいる事に気がついた。
その上ずぶ濡れの服は脱がされて、
見たことのない真新しいパジャマが着せられている。
両手の泥も綺麗におとされていて、その代わり広すぎるテーブルの上に
汚れたタオルが何枚も積まれていた。多分、彼女がやってくれたのだろう。
「……すいません」
その言葉に、頭の真横にペットボトルが落とされた。
「そう思うなら、飲みなさい。この上救急車まで呼ばされちゃたまったもんじゃないわ」
もう少し言いようがあるだろうと思いながら、佐々木は重い身体を引きずり起こした。
まだ目眩がするが、何とか起き上がって壁に寄りかかりペットボトルに口をつけると、
淡い甘味のついたスポーツドリンクが乾き切った喉を通過して、
不快に火照った体に染み込んでいく。
一気に半分ほど飲み干すと、少しだけ身体が楽になった。
「昨日のこと、覚えてないの?」
「先生にに送ってもらったことだけは、かろうじて覚えているわ」
即答されて、佐々木は苦笑した。
と同時にほっとする。あんなことを覚えていられても厄介だ。
「喉は痛くない? 咳は出るかしら?」
「いいや、頭痛がして息苦しいだけだよ」
「なら冷えと疲労から来る単なる風邪ね、暖かくして寝ていればなおるわ
良かったわね、謹慎中で」
「休暇中だよ」
「同じようなものよ、口を開けて」
「はい?」
問い返した佐々木をミナは睨みつける。
「聴こえなかったの、口を開けなさい」
その言葉にこじ開けられたように半開きにあけた口の中に
オレンジ色の塊が乗ったスプーンが突っ込まれた。
何?と尋ねる暇もなく、それは甘酸っぱい味を口の中に残して
つるりと喉を滑り落ちる。
「オレンジと蜂蜜のゼリーよ。これならビタミンCも多いし
喉を通るでしょう。吐き気はしない?」
佐々木が頷くと、ミナはさらに数回手の中の器から
ゼリーを彼に食べさせた。
「これだけ胃に入れば薬が飲めるでしょう。はい、解熱剤
夜中には少し楽になるはずよ」
「ありがとう、夜中ってまだ……」
「今午後の四時よ」
そう言われてやっと佐々木は部屋の中が薄暗くなっている事に気づいた。
「これで、貸し借りはなしね。もう、朝からずっと恥ずかしかったのよ
貴方に送ってもらったことがね、熱を出していてくれて助かったわ」
続けられたミナの言葉に、佐々木は苦笑する。
あまりと言えば、あまりに身勝手な物言いだが、これがいつもの彼女だ
昨日の姿より、なんだか安心する。
「昨日はどうしてあんなに早い時間に酔い潰れたの? 」
その問いにミナは答えず、ぐるりと部屋を見渡して
銀のフォトスタンドに入っていた繭の写真を抜き取った。
「可愛いわね、この子が繭ちゃん?
妹、じゃないわよね。恋人かしら」
「先生、その写真だけは触らないでほしいんだ」
その言葉に、なぜかミナはむっとしたようにことさら乱暴に
写真を指に挟んで振りまわす。
「結構かわいいじゃない。どこで知り合ったの?まだ続いてるの?
彼女を日本において来て不安じゃないの?」
「先生、お願いだからそれを元に戻して。古い物だし
彼女と写っている唯一の物なんだ」
「へえ」
意地わるくにいっと笑って、ミナはフォトスタンドに写真を
乱暴に押し込んだ。フレームの中でぐしゃりと妻の笑顔が歪む。
「先生って振られた女の子の思い出を後生大事に持っているタイプなんだ。
この携帯も、そしてこのペンダントもそう?」
ミナがジーンズのポケットから取り出した細い銀のチェーンがついた
同じ色のリングに、佐々木はとっさに手を伸ばす。
だがそれは、彼の指先が触れる寸前にミナの手の中に消えた。
「そうなんだー。こんなの持っていても新しい恋の障害になるだけだぞ。
ネットで見たけれど、日本の女の子って結構遊んでいるんだって?
エンコウにフタマタ。この子もそうだったかもねえ」
「やめろ」
「いつまでも過去の思い出にすがってるなんて、
みっともないぞ。きったない携帯」
白い指が古い携帯につけられたストラップの細い紐を
ことさら乱暴な動作でつまんだ。
そのまま二、三度振りまわすと大分弱っていたらしいそれは
プツリと切れて、携帯は嫌な音をたてて床の上に落ちた。
「あらごめん、液晶が割れちゃった。でもいいわよね
過去の恋の遺物なんて、ガラクタだもの。ついでにこれも
捨てちゃおう。佐々木先生の新しい恋の為に!!」
そのまま拳を握ったミナの手が、窓の外に何かを投げ捨てるように
放物線を描いた時、佐々木の中で何かがはじけた。
ぱんっと乾いた音が暮れなずむ部屋に響く。
真っ赤になった頬を抑えたミナと、たったいま全力で彼女を平手打ちにした
自分の手を交互に見つめて佐々木は
「これ以上、繭を侮辱してみろ」
とぞっとするほど暗く静かな声で告げた。
「あんたを今すぐ窓から突き落とす」
「……な、なによ。こんなガラクタ」
その迫力に気押されたのか、ミナが少しおどおどしたように
反論した瞬間、もう片方の頬に佐々木の手が叩きつけられた。
たまらず床に崩れ落ちた彼女に一瞥もくれずに、佐々木は
緩慢な動作で床に落ちた携帯を拾い上げる。
液晶に大きく罅が入っただけでなく、結合部分が半ば欠けてしまったそれは
佐々木の手の中で、真っ二つに割れた。
ぐらり、とひと際大きな目眩がする。
妻の声を届け続けた機械は、水につけても
その機能を失わなかったが、さすがに真っ二つになっては
いくら奇跡だとしても声を繋ぐのは不可能だろう。
短い時間で交わしたのはあまりにもたわいの無い会話。
それでも、ずっと佐々木を支えてきた大切な、大切な言葉達。
それをもう二度と聞くことは出来ない。
「……ああ」
喉の奥からうめき声が漏れる。
これ以上絶望することはないと思っていたのに。
「さ、佐々木先生」
おずおずとミナが伸ばした手は、酷い傷痕の残る子供のように小さい手に
邪険に振り払われた。
「触るな、出ていけ。俺があんたをもう一度殴らないうちに」
「わ、私は唯」
「聴こえなかったのか、出ていけ!!」
怒鳴り声に弾かれたように、ミナがかけ出す。
玄関の重い鉄扉が閉まる音を聞いて、やっと佐々木は
くしゃくしゃになってしまった写真を丁寧に元通りにフォトスタンドに入れなおし、
携帯をそっとハンドタオルに包んだ。
そしてパジャマ姿のまま、悪寒と目眩に耐えながら階段を下りる。
投げ捨てられたペンダント。あれだけは拾わなければ。
佐々木の部屋の窓の下は、車が途切れることなくいきかう大通り。
そこに躊躇なくつっこもうとして、誰かに強く羽交い絞めにされた。
「何やってる、ブラックジャック」
「放せ、放してくれ。王」
叫びながら佐々木は身をよじる。
「繭が、繭があそこにいる。早く拾わないと。
繭!!繭!!」
「おい、大丈夫か。佐々木、佐々木兵衛!!」
「放せ、放せよ馬鹿野郎」
容赦なく爪をつきたて、血を流させても
王の自分を拘束する力は緩まない。
ならば噛みつこうと口を開けた瞬間、
「悪い、乱暴するが許せ」
囁き声と共に、みぞおちに鈍い痛みがはしり
全てが闇の中にのまれていった。
続く