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第十話 紛失

「おい、ブラックジャックここにいたのか」

のろのろと佐々木が更衣室で着替えを終えた時、

王が息を切らせてそこに入ってきた。

「探したぞ」

「何か用か? 」

ぼんやりと佐々木は問い返した。

目の前の風景全てが色を失い、現実味に欠けている。

まるで分厚い硝子越し世の中を見つめているような感覚。

十年前まではそれが当たり前だった。

また、ガラス瓶の底にもぐりこんだのか、俺は?

ロッカーの内側につけられた鏡の中に、自嘲的な笑みを浮かべる

自分の姿が写っていた。

「何か用かって、薬局から薬が届かないうちに帰ってどうする。

ほら……大丈夫か?」

機械的に頷きながら、佐々木は差し出された紙袋を受け取った。

「タクシーで帰れよ、倒れたんだから。その、今晩はゆっくり休むとして

明日辺り、夕飯を食べないか。いい店を見つけたんだ」

友人の気遣いすら今は疎ましい、まるで太陽の光を厭う吸血鬼だ。

そう思うと、また同じ笑みが浮かぶのを今度ははっきりと感じる。

「いいよ……一人にしてくれないか」

「仕事が終わったら電話する、必ず出てくれよ」

王の言葉をどこか遠くで聞きながら、佐々木は重い体を引きずって

更衣室を出た。


               ※


――こんな所があったんだ――

木製のベンチに腰を下ろして、佐々木はぼんやりと

目の前の池と、そこで泳ぐ水鳥を見つめる。

病院は出たものの、家にまっすぐ帰る気にはどうしてもなれなくて

通勤路を外れて細い路地から路地へふらふらと彷徨い歩いた末、

小さな池とバラの植わった花壇とベンチだけがある公園に辿りついた。

秋の暖かい日差しをいっぱいに浴びて泳ぐ水鳥を見ていると、

妻に手作りのプレゼントを贈ろうと、公園で水鳥をスケッチした日の事が

昨日の事ように思い出される。

繭と出逢ってからあの日までが、自分の人生の中で一番輝いていて

喜びに満ちていた日々だった。

――疲れたな――

手足を動かすことすら億劫に感じるほどの疲労感がずっしりと

両肩にのしかかる。

医大に入学してから今日まで、妻のような苦しみを抱えている人たちを

助けたいと、それだけを願って生きてきた。

勉強して、経験を積んで、アメリカにまで留学したのに

自分の心がこれまでの日々を帳消しにして、未来を断ち切ろうとしている。

何かに驚いたのか、水鳥たちが一斉に鳴き声を上げて飛び立った。

それに佐々木は酷い傷痕の残る、子供のように小さな手を伸ばす。

――繭、君の元に行ってもいいかな――

唯一の生きる意味を失ってしまえば、これ以上この世にいる理由が見当たらない。

どうせ、両親に殺されかけた時点で半ば終わったような人生だったのだ。

もう、ピリオドを打ってもいいじゃないか。

「先生、佐々木先生じゃないか」

唐突に肩を叩かれて名を呼ばれ、佐々木ははっと我にかえった。

「あ、あなたは」

振り返ると、いつもベーグルサンドを買うセルフレストランの店主が

いつもの表情で立っていた。

「こんな所で日向ぼっこかい? でもそろそろ夕暮れだ。

終いにした方がいいんじゃないか」

言われて空を見上げれば、蒼かったそれはすっかり茜色に染まっている。

物思いに沈んでいる間に過ぎ去った時間の長さに驚いていると、、

「先生、暇ならちょっと付き合ってくれないかい」

店主はそう言って、返事も聞かずに歩きだす。

「え、えっと俺は」

「手間は取らせないよ」

ぶっきらぼうな答えに、佐々木は戸惑いつつも店主の後をついていった。

「はい、熱々だから気をつけて食べてくれ」

連れて行かれたのは何時も帰りによる彼の店。有無を言わさず

テーブルに着かされて、目の前に湯気の立つ具だくさんのスープと

パンが置かれた。

「あの、こ、これは」

「実は店のテイクアウト用の新メニューにしようと思うんだが、

意見を聞かせてほしくてね。先生が今のところウチのテイクアウトの

一番の利用者だから」

「で、でも」

「遠慮はいらないから、率直な意見を聞かせてくれよ」

にこりともせずにそこまで促され、佐々木はおずおずとスプーンを握った。

トマト味の、大きく切った根菜とベーコンがたっぷり入ったそれを

口に含むと、ほっとするような優しい味が舌の上に広がる。

「どうだい」

「美味しい……です」

最初は緩慢だったスプーンの動きが徐々に早くなる。

簡単な朝食を食べて以来、何も口にしていなかったと気付いたのは

皿がほぼ空っぽになった頃だ。

「よかった。飯が食えるなら少しは安心した」

「え?」

「さっきベンチに座っていた先生の顔、酷かったぜ。まるで

そのまま何処かのビルの上に上って飛び降りちまいそうだった。

今は大分ましだけどよ」

「……」

そう言えば、食べ物を口にしたせいか手足すら動かすのが億劫だった

疲労感が大分軽くなっている。気持ちもしゃんとしてきて、

院長が帰れと言った意味がやっと判ってきた。

死を望むような心理状況で、どうした患者の治療が出来ただろう。

と、同時に店主が自分をここに連れてきた理由も。

「あ、あのすいませんでした。なんだかご、ご心配をかけてしまったみたいで」

新製品の試食は方便にちがいない。

慌てて立ちあがって頭を下げる佐々木に、

店主は初めて苦笑じみたものであったが笑顔を見せた。

「生きていればどうしようもなく辛い事もあるさ。特に先生は

外国で一人頑張ってるもんなあ。スープ一杯で元気が出てくれれば

安いもんだ」

「い、いえ。ちゃんと料金は払いますから」

「今日の昼飯の残りだ、気にすんな」

相変わらずぶっきらぼうだが暖かい言葉に、佐々木はもう一度頭を下げる。

人の親切が痛いほど身にしみたのは、これで二度目だ。

「あの、じゃあすいませんが」

「なんだい」

「いつものベーグルサンドを下さい。明日の朝食にします」

「……あいよ」

もう一度笑って頷いて、店主は厨房へと消える。

それを見送って佐々木は王から渡された薬の紙袋を開けた。

ごく軽い睡眠導入剤も処方されている。今日はとりあえず

これの助けを借りてゆっくり眠ろう。疲れているとさっきみたいに

碌な判断が出来ない。と、

「すいませーん」

呂律が回っていない声と共に、店のドアが開いた。

千鳥足でよろよろと店内に入ってきたのは、スーツを着た若い女性。

その顔を見て佐々木は驚いた。

「ハ、ハーカー先生」

「あら、佐々木先生」

こちらを見るアーモンド形の瞳にいつもの攻撃的な強い光はなく、

とろんと霞がかかったようだ。彼女が側に近寄って来るにつれ

つんと強いアルコールの匂いが鼻をついた。

まだ宵の口だというのに、どうやらそうとう飲んでいるらしい。

「謹慎中なのに、こんな所でどうしたの?」

口の悪さは相変わらずだが、迫力は昼間の半分以下だ。

「先生、大分飲んでますね」

「そんなことないわよう、部屋で飲み直そうと思って。

お酒、売ってるわよねえ、ここ」

とぐるりと辺りを見回した後、ミナは佐々木の前の椅子に崩れるように

腰を下ろすと、テーブルに突っ伏してしまった。


                 ※


「ハーカー先生、しっかり歩いてください」

肩を貸して道を歩きながら、佐々木は女医に呼び掛ける。

店主が戻ってきて呼びかけても、揺さぶっても

テーブルに突っ伏してしまった彼女が起きる気配はなく

悪いと思いつつ持っていたハンドバックを開けてみると、

身分証明書がでてきた。それによるとミナはこのすぐ近くに住んでいるようだ。

放っておくわけにもいかなくて、送って行くことにしたのはいいが、

女性とはいえ長身の彼女は、小柄な佐々木よりも背が高く、

しかも半分眠っているらしく、まともに足を動かそうともしない。

苦労して歩を進めていくうちに、流石に腹が立ってきた。

大体彼女は会った頃から、些細なことで暴言を吐きながら突っかかってきたのだ。

そんな相手にどうしてここまで親切にしてやらねばならない。

「いい加減目を覚まさないと、道に放り投げるぞこの酔っぱらいめ」

「そんな事言わないでよう、もう少しなんだからあ」

間延びした答えに、膝が砕けそうになる。

病院の彼女とはまるで別人だ。

「……ここか」

たどりついたのは、佐々木の住んでいる物とよく似たアパート。

場所も意外なほど近い。

やはりエレベーターなど便利な物は着いておらず、

狭い階段を苦労して登って、彼女の部屋に辿りつくと

ドアの前にミナを下ろした。

「着きましたよ。ちゃんとベッドに入って寝てくださいね

風邪ひきますから」

そう声をかけて階段を降りかける佐々木の耳に、苦しげなうめき声が聞こえた。

振り返れば、ミナは立つ事も出来ずに外廊下にしゃがみこんだままだ。

「飲み過ぎだよ、何があったか知らないけれど」

面倒をみる義理など少しもないのだが、佐々木はため息をついて

彼女の元に戻ると、その手から鍵をとった。

「はい、水を飲んで。そうそう、飲めなくなったら思い切り吐いて」

やはり苦しげな声を上げて、嘔吐するミナの背中を佐々木はさする。

水を飲ませた上の嘔吐は、飲み過ぎた時最も有効な治療法だ。

バスルームで数回水を飲んでは吐き、をくりかえすとようやくミナは

ふらふらと立ちあがった。

「二日酔いくらいは覚悟しろよ、懲りたらむちゃな飲み方はやめてくれ」

そのままベッドに直行して倒れ込んだ彼女にそう言って毛布をかけてやった時、

白くしなやかな手が、佐々木の両肩をつかんだ。

思いのほか強い力で引き寄せられて、

佐々木はバランスを崩して彼女の上に倒れこむ。

スーツ越しとはいえ、十分に柔らかい女性の体を全身で感じてどっと汗が噴き出す。

「離して、ハーカー先生、離してください」

そのままぎゅっと抱きしめられて、佐々木は何とか抜け出そうと

必死に体をよじった。

「なんで、逃げるのよ。男でしょ」

拗ねた様な声が耳元で囁かれ、自分の唇に彼女のそれが重なる。

と、同時にぬるりとした生暖かい物が口の中に入ってきた。

舌だ、と理解した瞬間佐々木の中で嫌悪感が爆発した。

「やめてくれ」

手加減など考える余裕は無かった。ありったけの力でミナを突き飛ばすと、

アパートの階段を駆け下りる。

ようやく足を留めたのは、自分のアパートの入り口だった。

世慣れた男性なら嬉しいに違いないシチュエーションも、

繭以来女性と付き合った経験も無く

親にすら抱きしめられた覚えの無い佐々木には、

親しくも無い相手から突然体の自由を奪われ、

一方的に体内に近い場所を蹂躙される行為は、

混乱と、恐怖すら感じるものでしかなかった。

胸をつき破りそうなほどの動悸をなんとかなだめようとそこに手を置いた瞬間

酷い違和感を感じる。いつも触れるはずの冷たい金属の手触りが、ない。

「な、ない」

何度首元をなでまわしても、そこに感じるのはYシャツの布の感触だけ。

院長に転科を勧められた時とは比べ物にならない絶望感が湧き上がる。

「繭!!どこだ」

叫びながら佐々木は元来た道を駆け戻る。だが思い出せる限りの道をたどり

地面をはいつくばるように植え込みの陰や、車の下まで覗きこんでも

銀色のペンダントは見つからなかった。

「……もしかして、ここか」

アパートの前を流れている幅の広い汚い水がよどんでいる側溝。

だが躊躇なく佐々木はそこに飛び込んだ。

「繭、どこにいるんだ、繭」

必死に叫びながら、汚い水に手を突っ込んでペンダントを探す。

いつのまにか叩きつけるような激しい雨が降りだしたが、

佐々木は夜間警邏中の警官に懐中電灯を向けられるまで、

汚い水の中をかきまわしつづけていた。

「ふん……ペンダントねえ、届けられたら連絡するから。

家に帰りなさい。もう夜中だし、不審者と間違われて撃たれるぞ」

警官に忠告されて、佐々木はずぶぬれで泥まみれのまま

のろのろと階段をのぼった。

震えが止まらない手で苦労して鍵を開け、そのまま椅子に崩れるように腰を下ろし

広すぎるテーブルに突っ伏す。

「繭……どこに……いるんだ、繭」

うわ言のような問いかけに応える者は、無論なかった。






















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