第六話 勇者はその手を汚すと決めた
未だ一月も経っていない時のことが、遠い昔のように思えた。
もう二度と手の届かない、星の如く眩い記憶。それを、不本意な形で標にすることに切歯しながら、シュバルは前へ踏み出した。
「何処へ行くのですか、シュバル」
「……此処から一番近いのは、デュランハルトだ」
ふらふらと熱に浮かされた病人のように歩むシュバルを、レナトゥスが見つめる。こんなにも早く決断すると思っていなかったのか、ラトラナンジェを通してレナトゥスの一驚を感じる。
けしかけたのはお前だろうと忌々しげに眉を顰めながら、シュバルは足を進める。
「アイツは、トラオベ村に居る……。其処で出会った魔族の女と結婚すると言っていた……」
デュランハルトはフェニチアと早く婚礼を挙げたいという理由で、アステリオに頼んでトラオベ村まで星獣で送ってもらっていた。とうにフェニチアと夫婦となり、仲睦まじく幸せに暮らしていることだろう。そんな彼を、最初に殺すのだ。大らかで、朗らかで、力強く逞しい、太陽のようなデュランハルト。彼と、彼の愛する人の平穏と幸福を、自分はこの手で血に染めるのだと、シュバルは生気のない眼で先を見据えた。
「……貴方の覚悟に敬意を表します。勇者シュバル」
「覚悟なんて立派なもんじゃない」
其処に世界を救う為だとか、人々を護る為だとか。そんな崇高な理由は無い。心から――心から大切に想う仲間達をこの手で屠ることを選んだのは、悍ましい程のエゴと、純粋な衝動だ。
「俺はただ……殺したいだけだ。この世の何より悍ましい、あの化け物を……」
それが、彼の想いを裏切った”あの化け物”と同じ形をしていると知りながら、レナトゥスは口を噤み、足を進めるシュバルを見つめた。
同時刻。山沿いの人村を蹂躙していた魔王軍の小隊が、本拠地への帰還を命じられていた。
屈強な蜥鱗族の戦士達で構成された部隊は、疲弊も消耗もしていない。山を越えた先まで進軍しても問題は無いと小隊長の蜥鱗族は言うが、魔王軍司令官ヴァロナトルートの指示により、彼等は来た道とは別のルートを辿り、未だ手付かずの村々を襲撃しながら本拠地へ戻ることとなった。曰く、魔王ヒルシュヘルムが手遊みに焚殺する為の人間が欲しいとのことだ。
適度に人間を捕らえ、持ち帰って来るようにと言われた戦士達が山の麓から引き返す様を、上空から一羽のカラスが見つめている。その眼に映る景色が浮かぶ水晶をテーブルの上に置くと、黒翼族の女――ヴァロナトルートは玉座に腰掛けるヒルシュヘルムの方へ顔を向けた。
「これで宜しいのですね、ヒルシュヘルム様」
「ああ」
懶げな顔で頬杖を突く彼が腰掛けているのは、人間で作った玉座だ。この玉座の材料となった人間達は、未だ生きている。人の形も、他人との境目も、自分が何者であったかすらも失いながら、それでも彼等は生きている。玉座だけではない。ヴァロナトルートが水晶を置いたテーブルも、壁に飾られたハンギングトロフィーも、花瓶も。皆同じく、生きた人間で出来ている。
これらは、魔王軍に仕える回復術師ロパロセラフがヒルシュヘルムの為にと作った物だ。皮を剥がされ、骨を折られ、臓器を切除された痛みに苦しみ続ける人間の姿を気に入っているのか。はたまた、ロパロセラフの好きにさせようと思っているのか。ヒルシュヘルムは特に何も言わず、ロパロセラフが嬉々として持ち込んで来る人間家具を置いている。
お陰で本業より家具作りに熱が入っている始末だが、仮にロパロセラフが回復術師としての業務を放り投げても、ヒルシュヘルムは咎めないだろう。
彼は、人間を虐殺すること以外に関心が無い。そしてそれが彼一人で完結してしまうが為に、ヒルシュヘルムは誰が何をしようと気に留めない。魔王軍が潰滅しようと、誰かが裏切ろうと、ヒルシュヘルムさえいれば人間は滅ぼされる。故に、勇者一行の面々に手を出すなという彼の指示を、ヴァロナトルートも受け入れていた。
「……デュランハルトは、あの村で暮らすと言っていた。これ以上、我が友が悲しまぬよう……留意しなければ」
ヴァロナトルートがヒルシュヘルムに仕えているのは、彼と方向性が一致しているからだ。
彼女は、人間を憎んでいる。だから彼女は、より多くの人間がより多くの苦しみを伴って死ぬことを望んでいる。その昏い願いは、ヒルシュヘルムがヒルシュヘルムである限り果たされる。それだけ、彼の力は絶大なのだ。
だから、一度王座を退いた彼が再び魔王に就くことも、勇者一行を庇護することも構わない。自分の中に忠誠心など欠片も無いのだからと、ヴァロナトルートは黒い羽のような髪に覆われた眼で、ヒルシュヘルムを見つめる。
「あぁ、しかし……堪え難いな……」
嘆息しながら、ヒルシュヘルムは玉座から腰を上げ、バルコニーへと足を進めた。其処から一望出来る中庭には、先刻ヒルシュヘルムが殺戮の限りを尽くした人間達の骸が散乱している。それをせっせと片付けているのは、各地の村や町から捕らえられて来た人間達だ。
嘔吐し、嗚咽を上げながら、顔面蒼白の人間達は肉塊と化した同胞の屍を手押し車に乗せ、魔獣の餌場へと運んで行く。そうしなければ、生きたまま魔獣の餌にされると言われているからだ。汗水流して誠心誠意働いた所で皆等しく殺されるのだが、彼等はそうと分かっていても奴僕の如く働くしかないのだ。そんな人間達を哀れむことも罵ることもせず、ヒルシュヘルムは自嘲するように眼を細めた。
「殺せど殺せど、治まらない。全ての人間を殺し尽くしてしまっては、人間を殺す事が出来なくなるというのに」
―第二章 姫巫女ラトラナンジェと女神レナトゥス 完―




