第8話 私の太陽
学校が終わり、私はいち早く雪君と生活することになったお家に帰ってきた。
雪君は帰ってきていないので私一人だけだ。
今、私専属のお世話掛である橘さんが迎えに行っている。
私が小学生の頃からお世話をしてくれている人だ。私にとってはお姉さんのような存在だと思っている。
そんな橘さんが雪君を連れて帰って来るのを待つ。
制服から私服へと着替えた私は寝室へと向かう。
そこには私が用意した雪君の寝巻きが置いてある。雪君の家はお金がないため、洋服をあまり持っていなかった。当然寝巻きも持っていない。
雪君に似合うと思って買った淡い水色の柄のボタンで止めるタイプの寝巻きだ。とてもよく似合っていたと思う。
寝巻き姿の雪君は本当に可愛かった!
そっとその寝巻きを手に取ると顔に押し当て、大きく息を吸い込む。一度しか着ていないけど、雪君の匂いがする。とても安心できる優しい匂い。
「はぁ……雪君……」
思わず声が漏れ出る。雪君が帰って来るのはもう少しだけ後になるだろう。それまでの辛抱だ。
一ノ瀬 雪哉。私の想い人で恩人だ。とても大切な人……
今の私があるのは雪君のおかげだと思う。
私は幼稚園に入園する少し前、お母さんは病気で死んでしまった。
当時はずっと泣いていた。悲しくて、寂しくて、もう一度お母さんの声を聞きたかったし、抱きしめてもらいたかった。
お母さんの死はとても大きな傷となった。
おまけにお父さんは仕事が忙しく、一人ぼっちで家にいることが多かった。
それが私の心に更なる影を落としたのだろう。
間も無く幼稚園に入園したが、もともと引っ込み思案な性格であることと、お母さんの死でぽっかりと心に穴が開いた状態だった事が原因で、周りの人達と上手くいかなかった。
喋る相手もいなく、他のみんなが仲良く遊んでいるのを隅っこで見ている時間が多かった。
少ししたあと、私に対するいじめが始まった。無視をしたり、おもちゃや泥、虫なんかを投げて来るようになった。
ここにお前の居場所はない、と言われているような気がした。
辛くて、悲しくて……いつしか笑い方を忘れてしまった。世界が薄暗いもののように感じられた。まるで白黒の世界のようだった。
どこにも私の居場所なんてない。家でも幼稚園にいても私は一人ぼっちだった。
『お母さんと一緒の場所に行きたい』そんなことを漠然と思うようになっていた。
代わり映えのない無機質な一日が過ぎて行く。相変わらず虐められる。
でも、ある日一人の男の子が私の事を庇ってくれた。
私をいじめっ子から守るように前に立ってくれた。しばらく喧嘩が続いたあと先生が割って入りその場は落ち着いた。
その男の子が私を守ってくれた。でも……私に手を差し伸べてくれた人の手を私は取らなかった。拒絶した。
人と関わることが怖くなっていた。
その日からだった。その手を拒んだ私にずっと手を差し伸べて続けてくれるようになった。
一緒に遊ぼうと誘ってくれるようになった。私が一人でいると近くにいてくれるようになった。
最初は拒絶していた私も、彼と一緒にいる時間が心地よく、掛け替えの無いものになっていた。
ぽっかりと開いた心の穴を彼が埋めてくれる気がした。
いつからか彼と喋るようになり、一緒に遊ぶようになった。
世界が色付いた。笑い方も思い出せた。
私の暗い世界は、一ノ瀬 雪哉という大きな太陽で照らされたのだ。
彼と過ごす時間は私にとって大切なものだ。
私がそんな彼に惹かれて恋に落ちるのは時間の問題だった。
そしてその時はすぐに訪れた。彼に対する恋心を自覚するのは難しい事ではなかった。
一緒にいると心が温かくなる。もっと彼の笑顔を見たいし、一緒にいたいと願うようになった。
一日中私の頭の中には雪君がいた。私の初恋だった。
だけど、そんな幸せな日々は突如終わりを迎えた。お父さんの仕事で転校することになった。
雪君と離れ離れになりたくない。そんな思いから始めてお父さんに反抗した。でも、子供の意見なんてちっぽけなものだ。結局転校することになってしまった。
雪君と離れ離れになることが嫌で嫌で、お母さんが死んだ時のように泣いてしまった。
それだけ雪君の存在が私の中で大きなものになっていた。
泣き続けたある日。鏡を見るとそこには、泣きはらしたみっともない顔をした弱い私の姿が写っていた。
その姿は雪君の隣を歩くの人相応しく無いと思った。
このままだと雪君がどこか手の届かないところに行ってしまうのでは無いかという恐怖に襲われた。
いつまでも泣いていても意味がない。私は涙を拭き取り決意した。雪君の隣に立てるような人になると……
転校する日。私は笑顔で雪君にお別れを言うことができた。
これが一生の別れではない。必ず雪君に相応しい人になってもう一度会いに来る。
その日から私の努力の日々が始まった。
身嗜みに気をつけるようになった。雪君に可愛いと思ってもらいたかったし、何より格好良い雪君に相応しい人になりたかった。
自分の引っ込み思案な性格を変える努力もしたし、勉強だって手を抜かない。全ては雪君の隣に立つためだった。
たったそれだけのことでどんなに辛い事でも乗り越えられるような気がした。恋する乙女は無敵なのだ。
お父さんの会社も一気に大きくなり、私の生活は豊かになった。ちょっとだけずるいやり方だったけど、お金の力を使って雪君のことを調べた。
変わらず雪君は素敵な人だと言うことがわかり、嬉しかった。
努力を続け、名門といわれる桜聖学園に入学することができた。入学から一年ほど経ち、運命の日が訪れた。
転校してから七年。ようやく雪君と再会する日。
震える手を抑えて雪君の家の扉を叩く。そして目の前に現れた雪君。この日をどれだけ待ち望んだことだろうか……
心臓の鼓動が大きくなっているのがわかった。顔が熱くなり、涙がこぼれそうになってしまった。
それから私は雪君と契約を結んだ。色々と暴走してしまった結果、私に買われてみませんか、なんて言ってしまった。
雪君への想いは、会わなかった数年で大きく成長していた。大好きで、誰にも渡したくなくて、雪君の全部が欲しいと思ってしまった。
想いが大きすぎるせいで、少しだけ歪んでしまったのかもしれない。そんな思いから出てしまった発言だった。
でも、そんな私の提案を受け入れてくれた。
まさか、雪君の想いに酔いながら書いた契約書が役に立つなんて思いもよらなかった。
本当は私専属の付き人として雇うつもりだった。そのための契約書もちゃんと用意していた。今となっては必要ないので捨ててしまった。
その日、私の暴走はそれだけでは終わらない。雪君と暮らす新しいお家に着くと、これから同棲するのだと思うと興奮が抑えきれなかった。
上がったテンションで私は、雪君にハグを求めた。数年ぶりの生の雪君だ。我慢できるはずがない。
雪君とのハグはまるで夢のような時間だった。雪君の匂いに包まれ、体温が伝わって来る。
今思い出すだけでも体が熱くなる。あの時は本当にギリギリだった。あれ以上長い時間ハグを続けていたら、私の理性が崩壊して襲っていたかもしれない。
そして夜。私の胸で泣く雪君は愛おしく、母性本能を大きく揺さぶられた。
昔は守ってもらってばかりだったけど、今は雪君の支えになれていると言うことが何よりも嬉しかった。雪君が弱さを見せてくれるくらいには強くなれたのだと思えたからだ。
久しぶりに雪君と再会して、改めて自分は雪君の事が大好きなのだと実感する事が出来た。
これから二人の生活が始まるのだと思うと、頬が緩んでしまうし、体が熱くなってしまう。
「……雪君……好きです……」
私の呟きは誰にも拾われる事なく消えて行く。
ちょうどその時、外で車の音がした。雪君が帰ってきたのだろう。
ずっと抱きしめていた雪君のパジャマを畳む。軽い足取りで玄関に雪君を迎えに行った。