第396話 グラズエフ家の過去
オリガ・グスタフヴェラ・グラズエフは、モスクワ市内の病院で産声を上げた。父親は、当時ロシア軍大尉であったグスタフ・グラズエフ。そして母親はマーガレット・グラズエフ。現在のオリガと同じく、金のふわふわロングが美しい女性だ。
オリガは身長・体重ともに適正値で、病も無く、いたって健康に生まれた赤ん坊だった。だが、一つだけ、他の子どもたちとは……いや、他の人間たちとは違う特徴を持って生まれた。
それが、彼女の超能力、精神支配。
彼女の人生を狂わせた元凶たる能力だ。
オリガの超能力は、彼女がまだ生後数か月の頃から発揮されていた。オリガを抱きかかえる母、マーガレットを洗脳し、ミルクを要求していた。
マーガレットはほどなくして、我が子を世話している間に自身の意識が飛んでしまう異変に気付き、夫のグスタフに相談した。この異常な能力を持つ我が子を、どうすれば良いかと。
そして夫婦が出した結論は、『それでも自分たちの手で育てていく』だった。
たとえ危険な超能力を持っていようが、彼女は愛しい我が子。自分たちの、初めての子供なのだ。この先、どんな障害が待ち受けていようと、それを乗り越えていく覚悟を決めた。
まだ生後数か月のオリガは、能力のコントロールができず、父や母をしょっちゅう操ってしまった。それで両親に直接的な危害を加えたことはほとんど無かったのだが、それでもなにかと苦労させられた。
たとえば母のマーガレットは、オリガを抱きかかえて外出中、その途中でオリガに操られて、ミルクを要求された。マーガレットはオリガに従い、衆目が集まる中で服を脱ぎ、オリガに母乳を飲ませた。こんな具合に、公共の場で奇行に走らされることが何度かあった。
余談だが、この時のオリガは、一度の洗脳で一人しか操らなかった。現在の彼女の言では、最初から一度に五人という数を操れるという話だったが。能力のコントロールを効かせることができなかったのが関係しているのかもしれない。とにかくそういうワケでグスタフは、オリガが一度に五人も操れるなど本当に知らなかったのだ。
特異な能力を持った娘だったが、それでも夫婦にとってオリガは可愛い我が子だった。何があっても、無事にこの子を育て上げようと、心に誓った。
だが、その誓いは無残に踏みにじられることになる。
ある日の夜。
グスタフが仕事を終え、自宅に帰っていた時。
人通りの少ない閑散とした道で、グスタフは背後から何者かに声をかけられた。グスタフと同じくらいの身長の、スーツ姿の男だった。
「もし……グスタフ大尉でお間違いないですね?」
「あ……あぁ、そうだが、お前は……?」
「私は情報庁の人間です。ちょっとあなたに用事がありまして」
男は、ロシア国家直属のエージェントだった。
飄々とした態度で、グスタフに話を続ける。
「おたくの娘さん、他者には無い特別な能力を持っていますよね?」
「なっ!? なぜそれを……!?」
「ちょっと調べさせていただいたんですよ。それで、単刀直入にお話しますが、我が国はその力を欲しておりましてね」
「まさか……娘を譲れというのか……!? 断るっ! 今すぐ私の前から消えろ!」
「グスタフさん、冷静に考えてくださいよ。娘さんの、他者を操る能力。これが将来、犯罪などに悪用されたらどうします? 娘さんがその能力を利用して、犯罪組織などに加担してしまったらどうします?」
「馬鹿な! 私の娘に限って、それは有り得ない! 娘を侮辱するか!」
「特殊な力というのは、簡単に人を狂わせてしまいます。娘さんがそうならないという保証は、どこにも無いでしょう? そうなる前に、然るべき場所でキチンとした教育を受けさせよう、というお話なんですよ、これは」
「ふざけるな! 娘の面倒は私たちが見る! 邪魔をするな!」
「……はぁ。仕方ない人ですねぇ……」
エージェントの男は、呆れた風な態度で話を続ける。
「こんなことはあまり言いたくないんですけどね。あなたが断固として娘さんの譲渡を拒むというのなら、娘さんは将来の不穏分子として排除しなければならないんですよ」
「な、なんだとっ!?」
「その特殊な能力が、ロシア国家に危険を及ぼさないとも限らないですしねぇ。そして、その娘さんを庇うというのなら、グスタフ大尉、あなたも粛清対象です。もちろん、必要とあらば奥さんも……」
「そ、そんな……そんなことが許されると思っているのか……!」
「許されるんですよ。これはロシア国家のご意思なんですからね」
「ぬ……ぐ……!」
「グスタフ大尉。一つ勘違いしておられるようなので、ハッキリと言っておきます。娘さんを譲渡せよ。これはお願いではなく、国家からの命令です。いち軍人に過ぎないあなたが、国家の命に逆らうと? この世界有数の巨大国家から、ご家族を守りきれると?」
「く……」
「……とはいえ、いきなりこんなお話をされて、さぞ混乱されていることでしょう。一日だけ、時間をあげます。明日のこの時間に、ご自宅に娘さんを引き取りに来ますので、それまでにご決断くださいね。娘さんをお譲りくださるか、運命を共にするか……」
そう言い残すと、エージェントの男は、闇へと消えていった。
グスタフは、茫然自失の状態で立ち尽くしていた。
「どうすれば……良いのだ……オリガ……」
グスタフは、妻のマーガレットと共に相談した。
オリガを、どうするのかを。
エージェントの男も言っていた通り、グスタフはいち軍人に過ぎない。娘と違い、何の能力もない、ただの人間だ。ロシアという国家を敵に回して、生き延びていける自信など、全く無かった。
ロシアに反旗を翻して、その中で自分が死んでも、オリガが自由を手に入れてくれるなら、それでも良いと思った。だが、自分がロシアに逆らえば、オリガも一緒に始末されるかもしれない。
オリガのためを思うならば。
オリガを生き永らえさせるためならば。
国にオリガを譲り渡すしか、道は無かった。
そして後日。
グスタフは、エージェントの男にオリガを引き渡した。
引き渡してしまった。
まだ生後半年ほどのオリガは、こうして親から引き離されてしまった。
その日から、彼女の名前は『オリガ・ルキーニシュナ・カルロヴァ』となった。
ファーストネームだけは、情けとして彼女の名に残された。
グスタフたちの親戚などには、オリガは事故で死んだと伝えさせられた。そして、彼女に関わる一切の物は、すべて処分させられた。オリガがいたという痕跡すら消し去るために。ロシアという国が、このような所業を行なったという証拠を隠滅するために。グラズエフ夫婦は、怒りで身を焦がされるような思いだった。
その際、せめてもの反攻として、グスタフは一枚の家族写真を、妻から貰ったロケットの中に隠しておいたのだ。これがグラズエフ家に残る、オリガの唯一の痕跡となった。
こうしてオリガは、表の世界から抹消されてしまった。
彼女は、ロシアという国の所有物にされてしまったのだ。
持って生まれた能力のせいで。
ロシア国家は口止め料として、グラズエフ夫妻に多額の金を送った。
それこそ、贅沢しなければ一生働かずに生きていけるほどの金額を。
だがそんなもの、夫婦にとってはどうでもよかった。
それより、娘に帰ってきてほしかった。
しかし、それはもはや叶わぬ夢だ。
夫婦は、深く悲しんだ。
せっかく生まれた我が子が、いなくなってしまった。
その喪失感から、夫婦は新しい子を求めた。特別な能力を持ったがために引き離されたのなら、今度こそ何の能力も持たない、普通の子供を、と。
そうして生まれたのがグラズエフ家の長男にして、オリガの二歳下の弟。
名前は、ズィークフリド・グスタフヴィチ・グラズエフと名付けられた。
夫婦の望み通り、彼は何の能力も持たない、普通の人間として生まれた。