第364話 日露エージェント対決
「うおりゃああッ!!」
「ッ!!」
雪が降り積もる雑木林の前にて。
日本のマモノ対策室のエージェント、倉間の正拳突きがズィークフリドの腹部に深々と突き刺さった。ズドン、と鋭く重い打撃音が鳴り響く。
倉間の自己申告ではあるが、彼の正拳突きはコンクリートブロックを粉砕する威力があるという。それをマトモに受けたズィークフリドは、悶絶して然るべき……なのだが……。
「…………。」
「おいおい、嘘だろ……!?」
倉間は素早く拳を引いて、ズィークフリドから距離を取った。
ズィークフリドは直立不動のまま、ビクともしていなかった。それどころか、ズィークフリドを殴りつけたはずの倉間の拳が、逆に痛みを訴えている。打撃の反動が、倉間の拳に返ってきたカタチだ。
ズィークフリドの腹筋は、異常なまでに硬かった。しかしそれでいて、肉としての柔軟性も持ち合わせている。オマケに、ズッシリと重い。例えるならば、ダンプカーのタイヤでも殴りつけたかのような感覚だった。
「たしかに体格は良いがよ、どういう腹筋してるんだコイツ……!」
「…………。」
焦りの表情を見せる倉間の前で、ズィークフリドがおもむろに拳を振りかぶる。
二人は現在、互いに順番に殴り合うというルールの下で戦っている、次はズィークフリドの番、ということなのだろう。
「ッ!!」
「おっとぉ!」
顔面を狙って振り抜かれた拳を、倉間は易々と後ろに下がって回避。
彼はそんなルールを守るつもりなど、始めからなかった。
「へへ、悪いねズィークフリドくん。やっぱり、さっきのルールはナシで頼むぜ。君みたいな若い子の拳なんざ食らった日には、おっさんは一発でKOされちまうわな」
「…………。」
ズィークフリドは、無言で倉間を見つめる。
その表情は変わらず無。
……だがどこか、興が冷めたと言いたげな雰囲気を感じる。
「…………。」
ズィークフリドが、ゆっくりと倉間に接近する。
自然体の状態で、普通に歩いてやって来る。
それを見て、倉間は訝しげな表情を浮かべる。
(……何だ? 何か仕掛けてくる気か……? しかし、あの体勢から何を……? 表情は読めねぇし、不気味な奴だ……)
ズィークフリドは歩みを止めない。
もう間もなく、倉間の間合いだ。
(むざむざと接近させる必要もない。こっちから仕掛けてやる!)
そう判断した倉間は、素早く踏み込んで正拳を放つ。狙いはズィークフリドの鼻っ柱。彼の正拳はズィークフリドの腹筋には効かなかったが、鼻を鍛錬するのはどんな超人だろうと限界がある。命中すれば、効くはずだ。
「ッ!」
「うおお!?」
……だが、倉間の接近に合わせるように、ズィークフリドが右手の五本指を下から上へと突き上げた。
倉間はギリギリ顔を後ろへとそらし、ズィークフリドの指を回避。指先がかすった顎先と頬から、僅かに血飛沫が舞い上がった。
「あっぶねぇ!? あの無の構えから、そんな攻撃仕掛けてくるのかよ!?」
倉間が顔を撫でるように、かすった部位の無事を確認しながらズィークフリドに向かって言葉を吐く。
これがズィークフリドの鋼指拳の恐ろしいところだ。
通常、拳で相手を殴る時は、思いっきり振りかぶって殴る方が威力が出る。だが、大きく拳を振りかぶれば当然、隙ができる。
一方、例えば刃物で人を突き刺す時は、特に振りかぶる必要はない。相手に向かって切っ先を真っ直ぐ向けて、そこから真っ直ぐ突き出せば、刃は簡単に人の身体に食い込んでくれる。
ズィークフリドの指は、まさにその刃物なのだ。振りかぶる動作を必要とせず、ノーモーションから最速で繰り出し、相手の身体を貫くことができる。
半端な実力の人間ならば、今の一撃を避けられず絶命していた。ズィークフリドとは勝負にさえならなかっただろう。それを回避したのだから、倉間も大した実力である。
「…………。」
ズィークフリドは続けて、左右の拳で殴りかかる。
そのどれもが尋常ならざる破壊力を持っているが、倉間はそれらを全て避けるか、自身の肘や手を使っていなしている。
(よし……やっぱり防戦に徹すれば、ある程度はいけるな……! しかしまぁ、この拳の一発一発もなんちゅー重さだよ。顔面殴られたら……とか考えたくもねぇな)
あとはこのまま、日向や日影が援護に来てくれるのを待ち続ける。
少なくとも、倉間一人ではこの男に勝つのは無理だ。
(さて、防ぐことはできるが、ここからどうするかね。古武術で体の内側を重点的に攻撃しようにも、あの腹筋じゃそれもどこまで通用するか……)
例えばシャオランの拳のような、相手の内側にこそ衝撃を届ける一撃は、相手の筋肉が硬ければ硬いほど効果を発揮する。筋肉が金属のように硬ければ、金属が振動をよく伝えるように、身体の内側への衝撃もよく反響する。
だが、ズィークフリドの筋肉は、硬いうえにある程度の柔軟性も保っている。柔軟な筋肉は、身体の内側で響く衝撃も吸収し、ダメージを軽減してしまうのだ。
「……とはいえ、何も仕掛けねぇのは、やっぱり性に合わねぇな!」
そう言って、今度は倉間が攻撃に転じる。
ズィークフリドの右拳を左腕で受け流し、右の正拳を突き出す。
みぞおちを狙ったが、命中する前にズィークフリドが左手で止める。
「まだまだっ!」
倉間が攻撃を続ける。
ズィークフリドの顔面に左掌底を突き出し、右下段足刀を繰り出し、さらに左の上段回し蹴りを放った。
「っ!」
しかし、これもズィークフリドには通じない。
掌底は顔をずらして避けられ、足刀はズィークフリドに左足で阻まれ、上段回し蹴りは右腕で易々と受け止められてしまった。
「っ!」
「うおわっ!?」
倉間の回し蹴りを受け止めたズィークフリドは、そのまま倉間の足を掴んで前方へと放り投げる。雪原に投げ出された倉間はなんとか受け身を取るが、そこに間髪入れずズィークフリドが追撃を仕掛けてきた。
「ッ!!」
「ぐっ!?」
ズィークフリドは、物凄いスピードのローキックを繰り出して倉間の左足を攻撃した。そのローキックのスピードたるや、ズィークフリドの足元の雪が、初速によって煙のように舞い上がるほどだった。
そして倉間の足首あたりを見てみれば、蹴られたズボンの裾の部分が千切れ飛んでしまっている。
「な、なんつー威力の蹴りだよ……!」
「…………。」
あまりの威力に、蹴られた足首から一時的に感覚が消失してしまっている。
あくまで一時的だ。しばらく経てば、地獄のような痛みが襲い掛かってくるだろう。
「けど、とりあえず足は動かせる……」
すると倉間は、再び正拳突きの構えを取った。
腰を深く落とし、右拳を引き絞り、左手でズィークフリドに狙いを定める。
ズィークフリドが接近してきたら、カウンターを浴びせてやる算段だ。
「さぁ、来いよ坊や! おっさんの鉄拳をぶち込んでやるぜ」
「…………。」
ズィークフリドの身体が、ゆらりと揺れる。
瞬間、倉間の背後にズィークフリドが立っていた。
倉間と背中合わせに、左手で彼の右腕を抑えながら。
「な……!?」
瞬間移動じみた芸当を目にして、倉間の表情が驚愕の色に染まる。
正拳突きさえ繰り出す暇が無かった。
一瞬だけ、ズィークフリドが正面から倉間に接近するのが、かろうじて見えた。空手七段の腕前を持つ倉間の眼をもってしても、かろうじて。それはもはや、瞬間移動となんの遜色も無い。
(今のは……ただ恐ろしい勢いで踏み込んだ、ってワケじゃない……。もっとこう、しっかりとした技術的なものを感じた。だがそうだとしても、なんだ今のスピードは!? 人間の速さじゃないぞ!?)
考えつつも、倉間はズィークフリドに握られている右腕を振りほどこうとする。
だが、まったく振りほどけない。身体の支点を抑えられてしまったかのように、倉間の身体全体の動きが抑制されている。
そしてズィークフリドは左手を握りしめ、掴んでいる倉間の右腕を握りつぶしにかかった。
「ッ!!」
「がぁぁぁぁ!?」
倉間の顔が苦痛に歪む。
痛みの勢いでズィークフリドの手を振りほどこうとするが、それでも振りほどけない。このままでは、右腕が殺される。
「くそッ!!」
倉間が、左手で拳銃を取り出し、ズィークフリドの顔に銃口を向けた。
「!」
ズィークフリドは、倉間の腕から手を放す。
そして、倉間が発砲するより早く身を屈める。
引き金が引かれ、ズィークフリドの頭の上を銃弾が通過していった。
ようやく腕を解放された倉間は、右腕の容態を確かめる。
上腕二頭筋のあたりに、ズィークフリドの手の跡が痣となってくっきりと残っている。人間とは思えない握力だった。
「野郎……!」
「…………。」
ズィークフリドが再び倉間に接近し、殴りかかる。
倉間は先ほどと同じようにズィークフリドの攻撃を捌く。
……だが、その動きには先ほどのようなキレが無い。
先ほどの握り潰しによって腕を負傷したためだ。
「くぅ……きついぜ……!」
「ッ!!」
「がはっ!?」
ズィークフリドが右手の五本指をかぎ爪状に立てて、倉間の胸板に叩きつけてきた。これを受けて倉間は吹っ飛ばされ、背後の太い木に背中から激突する。
「ぐ……!」
ズィークフリドの指を喰らった胸板を押さえる倉間。
胸板に穴は開いていないようだが、それでも銃弾で撃ち抜かれたかと思うほどの激痛が走っている。
激突した木にもたれかかる倉間。
その倉間に向かって、ズィークフリドが追撃を仕掛ける。
ジャンプしつつ、身体ごと回転させながらの右の回し蹴りだ。
「ッ!!」
「うおおおっ!?」
間一髪で、身を投げ出すようにしてズィークフリドの蹴りを回避する倉間。
回し蹴りは背後の木の側面に叩きつけられ、幹に足首が食い込む。
倉間の胴体より太い木の幹が、半分近くまで粉砕されていた。
「ぷ、プロの木こりの斧だってそんな威力は出ねぇぞ!?」
「…………。」
汗水を垂らしながらツッコミを入れる倉間に、ゆっくりと歩み寄るズィークフリド。
倉間にトドメを刺すために、その右拳を振り抜いた。
(……よし来た! そういう攻撃を待っていたぜ!)
すると、倉間の動きが途端に速くなる。
素早くズィークフリドの攻撃を掻い潜り、左手で彼の右腕を、右手で襟首を掴む。
「どりゃああああ!!」
「ッ!」
そしてそのまま、ズィークフリドを投げ飛ばそうとした。
倉間とて、いいようにやられていたワケではない。
ズィークフリドの攻撃に、己が身を晒して慣れさせていたのだ。
ズィークフリドのあらゆる攻撃に対応し、投げて反撃できるように。
彼は空手の有段者だが、その技術は空手だけに留まらない。
柔道、剣道、合気道、古武術……。
修めて役立つ武術は、一通り身に着けている。
彼もまた、極めて優秀なエージェントなのだ。
……だが、しかし。
「ぐ……!?」
「…………。」
倉間は、ズィークフリドを投げることができなかった。
決して、手を抜いたワケではない。
ましてや、手心を加えようと思ったワケでもない。
ただ単純に、ズィークフリドに踏ん張られた。
彼の重さは恐るべきもので、一ミリだって持ち上がりもしなかった。
「こ、コイツ、本当にどうなって……!?」
「…………。」
ズィークフリドは左手の五本指を真っ直ぐ立てると。
がら空きになった倉間の左脇に貫手を突き刺した。
「が……はぁぁぁ!?」
倉間が叫ぶ。
激痛のあまり、投げようとしていたズィークフリドから手を放し、転げ落ちるように仰向けに倒れてしまった。
倒れた倉間に向かって、ズィークフリドが宙返りしながら飛び上がる。
そして右足一本で、投げ出された倉間の右足に着地した。
「ぐぁ……ッ!!」
倉間の足から、嫌な音が鳴り響いた。
骨を踏み潰されてしまったのだ。
「あ、ぐあぁぁぁぁ!?」
雪の上でのたうち回る倉間。
右足に着地してきたズィークフリドは、やはり信じられない重さだった。
「こ、コイツ、見た目以上に体重が重いのか……!?」
「ッ!!」
「ぐっ!?」
倒れていた倉間にズィークフリドが手を伸ばす。
そして倉間の首を絞めながら、身体ごと持ち上げた。
持ち上げながら、背後の木へと叩きつける。
倉間の意識が、遠のいていく。
「か……は……!」
「…………。」
(くそ……ミスった……。コイツは、狭山の言うとおり、マトモに相手するべきじゃなかったぜ……)
やがて倉間はとうとう力尽き、意識を失ってしまった。
「…………。」
倒れた倉間を、ズィークフリドはジッと見つめている。
その表情は、凍り付くような無表情。
彼がオリガに下された命令は、潜入チームの皆殺しだ。
つまり、彼は今から、倉間を……。