第263話 北欧へ飛ぶ
7月下旬。ついに日向たちの夏休みが始まる。
「というワケで、さっそく今回はノルウェーに飛ぶよ!」
「うわぁいきなりぶっ飛びますね……」
嬉々として語る狭山に、日向は呆れたような声で返事をした。
ここはマモノ対策室十字市支部。時刻は昼過ぎ。そのリビングにて、狭山が予知夢の五人を集めて、次の目的地のノルウェーについて説明をしているところだった。
今回の目的地は、ノルウェーの南部に位置する港町、オーレスン。その付近にて『星の牙』が出現したという。日向たちはこの『星の牙』を討伐のためにノルウェー本国から応援要請を受けたのだ。
「……けどよ、なんでわざわざ遠く離れた日本にいるオレたちに声をかけたんだ? ノルウェーや周りの国の軍事力じゃどうにもできない相手なのか?」
「どうにもできないというか、なんというか。とにかく厄介な手合いでね。この画像を見てほしい。これが今回出現した『星の牙』だ」
日影の質問を受け、狭山が手に持っていたタブレットの画面を五人に見せる。五人もまた、身を寄せ合ってタブレットの画面を覗き込む。まずその画像を見たのは、タブレットの正面に立つ日向だ。
「どれどれ…………ぎゃーキモい!?」
画像を見た日向は、思わず声を上げてしまった。
件の『星の牙』は、なにやら足が生えた巨大な芋虫のような外見をしている。全体的にうっすらとした白色の体色。外皮は厚みがあってずんぐりむっくり。顔と思われる部分には、目が無い。
総じて、一般的な感性の人間が見れば、ほとんどの人が「気持ち悪い」と称するような見た目だ。実際、虫嫌いな日向だけでなく北園やシャオラン、さらには日影も苦い顔をしている。「これ討伐しないといけないの?」と言いたげな顔だ。
そんな中、本堂だけは涼しい顔をしている。相変わらずの冷静沈着ぶりである。あるいは、理学と医学を修めんとする彼はこういう生き物にも高い耐性があるのだろうか。本堂は、冷静な態度を崩さないまま、狭山に質問を投げかける。
「狭山さん。このマモノのこの見た目は……クマムシですか? 人間並みの大きさがありますが」
「ビンゴだ本堂くん。このマモノは『ノーデッド』と名付けられている。緩歩動物……クマムシが星の力を受けた存在とされている」
「クマムシ? それってどんな虫なの?」
本堂と狭山の言葉を聞いた北園が、首を傾げる。
確かに、クマムシという生き物はあまり一般的な存在ではない。
「そうだね、このマモノをよく知ってもらうためにも、クマムシについて簡単に説明しておこう」
そう言って、狭山はクマムシの説明を始めた。
緩歩動物。あるいはクマムシ。
ムシとついているのはあくまで便宜上であり、実際には虫ではない。
不死身の生き物として知られるこの微生物は、乾眠という能力によってあらゆる環境から身を守る。
炎で炙っても、絶対零度の中に放り込んでも死なず、真空状態でも超がつくほどの高気圧の中でも生き延び、高濃度の放射線にも余裕で耐える。地球外追放され、宇宙空間に晒され続け、太陽光を直接受けてもなお生き延びた個体もいるという。
とはいえ、以上の耐久力は乾眠状態でのみ発揮される。また、あくまでも乾眠状態で向上するのは極限の環境に対してのみであり、物理には弱い。指でクマムシを潰せば普通に絶命する。乾眠状態による驚異的な耐久力ばかりが独り歩きし、過剰に報じられているとも言えるか。
「だが、このクマムシ……『ノーデッド』は、正真正銘の不死身だ。普通に活動しているにも関わらず乾眠状態さながらの耐久力を持ち、オマケにあらゆる傷を受けても即座に再生する。そうしてついた名前が『不死身』さ」
「再生能力……じゃあコイツは”生命”の星の牙ってことですか」
「そうなるだろうね。このマモノは、その不死身とも言える生命力で人間たちの攻撃を無視し、ゆっくりと街に侵攻してくる。動きは遅く、大々的な破壊攻撃も持たない為、その被害規模は微々たるものだが、かと言って倒すこともできないので、人々はこのマモノの襲撃を大人しく見ているしかない」
「それはまた、なんつー迷惑な……」
「オマケに、最近はこのマモノのおこぼれに与ろうと、別種のマモノが取り巻きとなっているらしい。この取り巻きたちも一緒に街を襲撃してくるため、被害の規模は無視できないものになってきた」
「それでも、このノーデッドは倒すことができない、と……」
「その通り。そこで君たちに……とりわけ日向くんと日影くんに白羽の矢が立った。君たちの炎ならば、このマモノを仕留めきれるかもしれない」
日向と日影が扱う『太陽の牙』には、星の力による再生能力の阻害効果も備わっている。確かにあの剣ならば、この不死身の怪物を完全に殺すことも不可能ではないかもしれない。
……と、ここでシャオランが手を挙げた。
「けど、それってつまり、二人だけがノルウェーに飛べば万事解決なんじゃないの? ボクは飛行機苦手だし、このマモノ気持ち悪いし、できれば行きたくないなぁ……」
「先ほども言ったとおり、このノーデッドには現在、取り巻きのマモノが存在している。それもかなりの数がね。さすがに二人だけではかなり大変な戦いになると予想している。彼らを助けるためにも、一肌脱いではくれないだろうか、シャオランくん」
「や、やっぱりそうなるのかぁ……分かったよぉ……」
「とりあえず、このノーデッドを仕留めるのは二人の仕事だし、君がこの気色悪い生き物を素手で殴る必要は無いよ」
「あ、そっかぁ! なぁんだ心配して損した!」
「……何だろう、この釈然としない気持ちは」
大喜びするシャオランを横目で見ながら、日向は呟いた。
一通り概要を説明し終えた後は、現地までのルートや出現したマモノの詳細な説明を受け、それが終わったら観光でもしようという話になった。目的地のノルウェーの町、オーレスンはとても美しい町であり、観光名所として有名なのだ。
◆ ◆ ◆
同日。明朝。
日本では昼過ぎだが、ここでは時差があるので、まだ朝である。
中世西欧の建造物と、高層ビルが入り混じった街並みを、多くの人が行き来している。そのほとんどは仕事への出勤であったり、ハイスクールへの登校であったり。この世界にマモノが溢れているとは思えない、平和で普遍な日常の光景である。
ここはロシア、首都モスクワシティ。
その一画の建物、一見するとモスクワのどこにでもありそうな、窓が多く設置された大きな西洋風の建造物、しかしそこは実のところ、ロシアのマモノ対策室本部である。
そのマモノ対策室本部の一室にはトレーニングルームがあり、そこには上着を脱いだ銀の長髪の男の姿があった。
彼の肉体は、限界まで膨れ上がった筋肉を極限まで圧縮したかのような、名匠が鍛え抜いた刀剣のようである。現在は床の上で逆立ちをしているが、自身の体重を支えるのは、なんと己の右手の指、五本のみ。その状態で逆立ちしたまま腕立て伏せを行っている。指を凶器として昇華させている彼は、これくらいのトレーニングなど朝飯前である。
彼の名はズィークフリド・G・グラズエフ。
以前、日向たちと共に、マモノを利用した犯罪組織と戦った、ロシアのマモノ対策室のエージェントである。
「精が出るわね、ズィーク」
そう声をかけてきたのは、金髪のゆるふわロングヘアーの、女児のように小柄な女性。蠱惑的な瞳で、逆立ち指立て伏せを行っているズィークフリドを見つめている。
彼女の名はオリガ・L・カルロヴァ。
ズィークフリドと同じロシアのマモノ対策室のエージェントであり、『精神支配』の超能力の使い手である。
「仕事よ。この間のテロ組織、『赤い稲妻』がノルウェーに潜伏しているという情報が入ったわ。それを潰すのが今回の仕事よ。あなたのお父上……グスタフ大佐も『期待している』ですって。仲良いわね」
「…………。」
ズィークフリドは無言で頷いた。幼い頃、病気によって声帯が除去されてしまった彼は、言葉を発することができないので、ジェスチャーで受け答えする。
ズィークフリドは逆立ちの状態から立ち上がると、近くにかけてあったタオルで軽く汗を拭き、トレードマークである黒いロングコートを羽織る。
そして、オリガに連れられて、トレーニングルームを後にした。
◆ ◆ ◆
さらに同じ頃。
ノルウェーの港町、オーレスンの入り口に、一人の女性がやって来た。
「おぉ、久しぶりに人の町に来ちゃったなー。ここに王子様がいるかは分からないけど、まぁ行ってみないと分からないよねぇ。せっかくだから、ついでに小銭も稼がせてもらいましょうかぁ」
そう呟く女性は、茶色のオーバーコートを羽織り、手には旅行カバンをぶら下げ、革のロングブーツを履いている。髪は長く、燃えるような赤色である。
その女性は、かつて日向たちが出会った謎の女性、スピカであった。