第256話 最終試験だボールを避けろ
日向の集中トレーニングが始まって、すでに一か月以上が経過した。
マモノ対策室十字市支部の庭で、狭山が石灰で白い円を描く。その半径は5メートルほど。日向にとってはもはやすっかりお馴染みとなった、ボール避けのトレーニングである……が、今日はいつものボール避けとは事情が違うのだ。
円の中心に、狭山が立つ。
足元に、テニスボールが大量に入ったカゴを複数個置いて。
その狭山の目の前で、日向は準備運動を行っていた。
「日向くんがトレーニングを始めて、はや一か月。最初の頃と比べれば、身体は相当に鍛えられてきたね。今の君なら同年代の学生はおろか、下手な成人が相手でも力負けはしないだろう」
「いやホント、おかげさまで随分とパワフルになりましたよ。オマケに体重もかなり減ったからか、身体がすごく軽いんです。今の俺は、間違いなく俺史上で最強の状態ですよ」
「うんうん。筋力は十分に合格ラインだね。けれども君の体格では、楽に到達できるのはここまでだと思う。ここからさらに筋力を上げようとすると、今まで以上に苦労するだろう。結果が出なくなったからといって、あまり焦らないようにね」
「分かりました」
「よろしい。……さて、筋力は合格だけど、身のこなしと頭の回転は、果たしてどうなったかな?」
言いながら、狭山は足元のカゴに山ほど入っているボールを一つ、拾い上げる。今日は日向のボール避け、その最終試験なのだ。
「それでは、ルールを説明するよ」
そう言って、狭山が最終試験のルール説明を始める。
「基本的なルールは今までと同じだよ。君はこの半径5メートルの白円の中で、自分が飛ばすボールを避け続けること。白円の中なら自由に動き回っても構わないが、ボールを直接防御したり叩き落したりするのはナシだ。自分自身も、この中央位置から動くこともあるので油断しないようにね」
「ふむふむ……なるほど……」
「今回は問題を10問出すよ。その間にどれだけボールを避けることができたか、そして問題の正答率は如何ほどか、その二点で君の合否を判定するよ」
「了解です、いつでもいけますよ」
「ようし、では早速いってみよう!」
と、言い終わった瞬間、狭山はいきなりボールを投げつけてきた。ほとんど不意打ちにも等しいタイミング。
しかし日向は、素早く頭を下げてボールを避けた。
ボール避け最終試験、開幕である。
「A子さんは生まれてから一度も育児をしたことがありません! 彼女はどういう性格をしているでしょうか!?」
「意気地なし!」(育児なし)
問題を出しながらボールを投げつけてくる狭山。
問題に答えながらボールを避け続ける日向。
互いに問題へ思考を割きながらも、相手の出方から意識を逸らさない。
最初の頃と比べれば問題の難易度も随分と高くなってきたが、日向もまた成長している。自慢の洞察力で問題文の一言一句を逃さず捉え、ヒントを見出す。そこから特訓を積んだ思考力で正の解を組み立てるのだ。
「透明人間が履歴書の職業欄に書く言葉といえば!?」
「無職!」(無色透明)
狭山が投げるボールに、鋭い変化球が織り交ぜられてきた。当たらないと思ったボールが、急に軌道を変えて日向に迫り、逆に当たると思ったボールが、日向を避けるように曲がる。虚実入り混じるこの投球は、油断すると一気に被弾数を稼がれてしまいそうだ。
だが、日向はこれらもなんとか避けきる。
反射神経だけで避けているワケではない。
ボールが飛んでくるコースから、どの変化球が来るかを予測している。
ボールを避けながら、日向はふと思う。
(これは……狭山さんの『動き』が、あらかじめ見える……)
狭山の動きを細部まで予測していると、日向は不意に奇妙な感覚を受けることがあった。狭山の動きが、なんとなくだが読めてくるのだ。まるで未来予測のように、狭山が動くより早く、狭山の虚像が動くのが見える。
その『先行する狭山の虚像』に合わせて日向が回避を行なうと、狭山がボールを投げるより早く日向が回避行動に移っているように見えるのだ。
(この感覚は……前にアイスベアーやライジュウと戦った時の感覚に似てる……。そうか、これは、俺が狭山さんの動きを先読みしてるのか……)
このトレーニング期間で鍛え抜かれた日向の観察力と洞察力が、狭山の動きを超精密に分析し、狭山の動きを前もって知らせてくれているのだ。これは、極めれば日向にとって相当な強みになるはずだ。
日向の動きが良くなったのを、狭山も確認した。
満足げに頷きながら、三問目の問題を出題する。
「拾うとお金を払わなければならない物は何でしょう!?」
「タクシー!」
狭山は身を屈めると、今度はカゴから次々とボールを投げつけてくる。変化球は少なくなったが、飛んでくるボールの数は一気に増えた。息つく暇も無く、矢継ぎ早にボールが日向に向かって投げられる。
日向は、円の中をぐるりと走り回ってボールから逃れる。
それだけでなく、狭山の背後に回り込むように動く。
狭山がボールを投げにくい位置を取ろうとしているのだ。
「やるね! 少し問題の難易度を上げてみようか! 空港に勤めるBさんは、身だしなみをとても大切にしています! Bさんの職業は何でしょう!」
「えーと……副操縦士! (服装重視)」
狭山が、今度は時おりボールを空に向かって高く投げるようになった。マモノ対策室十字市支部の屋根を超えるほどの、かなりの高さだ。
高く投げつつも、日向に直接ボールを投げることも忘れない。高いボールで日向の気を引くつもりなのだろうか。
「警察官が拳銃の点検中に居眠りしそうになりました! すると、その警察官は逮捕されてしまいました! なぜでしょうか!?」
「えー……と……ウトウトしたから!」(撃とうとしたから)
狭山のボールを避け続ける日向。
しかし日向は、狭山の投球に、自分を何かに追い込むような意図を感じ取った。まるでわざと日向にボールを避けさせて、狙いの位置まで誘導しているような。
まさか、と思って上を見上げれば、日向に向かってボールが落ちてきた。
「うわっと!?」
先ほど狭山が高く投げたボールだ。
それも一つだけではない。次々と落ちてくる。
狭山はこの時間差攻撃を狙って、ボールを高く投げたのだ。
このような変則的な攻撃は、今までやってこなかった。
その場の咄嗟の判断力が試されている。
「『さんかく』なのに『しかく』なものといえば、なんでしょう!?」
「えーと、漢字の口!」(画数は三画、見た目は四角)
頭上から時間差でボールが落ちてくる。
さらに狭山もボールを投げつけ、頭上への意識を逸らしてくる。
しかもその狙いは足元に集中している。
上を見上げていたら下が疎かになる。
しかし日向は、見事な足さばきで足元のボールを避ける。
ジャンプはしない。下手に跳べば、そこを狭山に狙い撃ちされるだろう。
……だがそこへ、日向の上からボールが一つ落ちてきて、彼の脳天に直撃した。
「痛ったぁ!?」
ポコーンという音と共に、日向の頭でボールが跳ねる。
日向、初被弾である。
「くっそぅ、やられた! けど、まだ一発だ……!」
素早い立ち直りを見せる日向。
狭山も日向の意気込みを受けて、頷き、ボール投げを続行する。
「若い時には背が高く、年を取ると背が縮む! 生きている時には光を放ち、吐息一つで死んでしまう! これは一体なんでしょう!」
「えーと……ロウソク!」
すると狭山は、今度は足元に置いてあったボールの入ったカゴを、日向に向かって蹴り倒してきた。ボールが芝生の上にばら撒かれ、洪水のように日向へ迫る。
「そ、そう来たか……!」
きっと、いや間違いなく、このばら撒かれたボールを踏んでもアウトなのだろう。日向は急いでボールの洪水から逃れる。
それを見た狭山は、白円の中心から動き出し、散らばったボールの元へ。そして、落ちたボールを次々と日向に向かって投げつけてきた。
「ボールをぶつけるだけで、よくもまぁこんな奇策を次々と……!」
感心半分、呆れ半分といった様子で呟きながら、日向は狭山のボールを避ける。狭山が中央から円の端へと動いたため、先ほどの連続投球より距離を取ることができるが、彼の背後へ回り込むことはできなくなっている。
「次の問題! 今、何問目でしょうか!?」
「8問目! 絶対そういう問題を出してくると思ってましたよ!」
即答して狭山の問題を退ける日向。ここに至るまで、ちゃんと出題された問題数を数えていたのだ。狭山のボールを避けながら、狭山の問題に答えながら、だ。
ボールを拾っては投げつけてくる狭山。しかし、どれだけ狭山の投球テクニックが優れていても、彼には二本の腕しかない。つまり、同時に投げられるボールは二つだけだ。投げる早さにはある程度限界がある。
……だがその時、日向に向かって三つのボールが同時に飛んできた。
「どわぁぁ!?」
慌てて右方向に飛び込んでボールを避ける日向。
飛んできた三つのボールのうち、二つのボールは普通に狭山が投げつけてきた。では、三つ目のボールはどこから飛んできたのか。
三つ目のボールの出どころは、狭山の足元だ。
狭山は、落ちていたボールを日向に蹴飛ばしてきたのだ。
「野球だけじゃなくて、サッカーもいけるクチですか!」
「自分は、君に向かってボールを飛ばすと言ったけど、投げるとは一言も言ってないからね! これは合法だよ!」
そこからは、ボールのシュートまで混ざり始めた。
このシュートもまた的確な狙いだ。
日向の上半身、下半身に向かって、見事に打ち分けてくる。
しかし日向は、紙一重ながらも、これを避け続ける。もはや彼を運動オンチと馬鹿にするものはそういないであろう、卓越した回避能力を見せつける。
「人間の心臓は基本的に一人に一つ! しかし世の中には、身体の中に二つも三つも心臓を持っている人がいます! さて、それはどんな人でしょう!?」
「えー……と……妊婦!」
「正解! お腹の子供が一人なら、母親のと合わせて心臓は二つ! 子供が双子なら心臓は三つになる!」
すると狭山は、今度はゆっくりとしたボールを一つ、投げつけた。
しかし日向も分かっている。
この男がやることには、何か意味がある。
投げられたボールを油断なく見つめる日向。
……すると狭山は、ゆっくり投げたボールに向かって、足元のボールを蹴飛ばし、空中でぶつけた。それによって二つのボールの軌道が空中で変化し、一つが日向の顔面に直撃した。
「ぶっ!?」
まるでビリヤードさながらの芸当だった。まさか日向も、あんな方法で狭山がボールを当ててくるとは思わず、完全に回避が遅れてしまった。
プロの野球選手でもサッカー選手でも、あんな芸当ができる者はそういないだろう。無駄に洗練された絶技である。
「当たってしまった……! けど、被弾はまだ二発……!」
「そうだね。たった二回の被弾でよくここまで来た。では、最終問題と行こう」
そう言うと、狭山は不意にボールを投げることを止め、一つのボールを手に持ってゆっくりと日向に近づいていく。恐らく、超至近距離から日向にボールをぶつけるつもりなのだ。この訓練を始めて間もない頃にもやってみせたように、回避不能の一発を放つつもりなのだ。
「で、でも、あれをぶつけられたとしても被弾合計は三発。合格ラインは分からないけど、十分な結果では……」
「じゃあせっかくだから、このボールに当たったら、一気に百発分ぶつけられたと加算しよう」
「な、なんですかそれズルい!?」
「ふふふ、あっという間に絶体絶命だね。さぁ、君はどうする……!?」
ここから日向は、狭山がいつ投げてくるとも分からないボールに注意しながら、最後の問題を解かなければならない。緊迫した空気が二人の間に満ち満ちた。