第184話 雨風を突っ切る
暴風雨の中を、マモノ対策室の通信車が走る。
山間の中心を大きな川が流れており、その端の道路を走行しているところだ。
晴れている日ならばさぞ自然豊かな絶景だっただろうが、この悪天候の中では残念ながら、あまり景色は映えない。
目的地はこの山のさらに奥。
”嵐”の星の牙が潜んでいると思われる場所だ。
狭山がハンドルを握り、本堂が助手席。その後ろに日向と北園とシャオラン。さらにその後ろを日影が贅沢に使っている。
「ほら……ここで使うのが相加平均の大小関係だよ。ここをこう計算して……」
「ごめんシャオラン、相加平均って何だっけ……」
「そこからかぁ」
日向がシャオランに数学の勉強を教えてもらっている。
シンガポールでリンファに想いを伝えて以来、シャオランはリンファの両親に認めてもらう為か、さらに勉学に力を入れている。その結果、前回の中間テストは全て90点台と、成績の伸び方が凄まじいことになっている。
そんなシャオランでも、日向に数学を教え込むのはなかなかに難航しているようだ。数学アレルギー患者特有の症状『公式の名前と内容が覚えられない症候群』に頭を悩ませている。
……と、そんな二人の後ろから日影が声をかけてきた。
「相加平均と相加平均の大小関係って言ったら、アレだろ。『a>0、b>0のとき、a+b≧2√ab』ってヤツ。証明する不等式の中に定数となる文字の塊の組がある時に使うんだろ?」
「おー、すごいねヒカゲ。さらに言えば、文字の塊の組が正の値であるときに使うんだよ」
「ひ……日影に負けた……」
「いやー悪いね、オリジナルより頭の出来が良くて」
「くっそ……大体お前、どこでそんなの習ったんだ? 高校には行ってないハズだろ?」
「この間、北園がウチに来た時に、ちょいと教科書見せてもらった」
「日影くん、記憶力はすごく良いんだよねー。どんな公式でもあっという間に覚えちゃうもん。英語とか、歴史の年表とかも覚えちゃったよね」
「ま、単純に覚えているだけで、問題が解けるかどうかは分からねぇけどな」
粗野な雰囲気とは裏腹に、日影の記憶力は尋常ではない。
狭山から習った英会話も、日向より早く覚えてみせた。
さらに、二週間前までの食事のメニューを完璧に言い当ててみせるなどといった芸当もできる。
まだ試したワケではないが、日影に今回の日向と同じ中間テストをやらせれば、恐らく高い点数を取るのは日影だろう。
「なんてこった。戦闘だけじゃなく勉強まで日影に負けて、いよいよ俺の立つ瀬が無くなってきたぞ……。俺とコイツで頭の作り自体が違うのか……?」
皆が日影を称賛する中、日向は割と深刻な表情で思い悩んでいた。
そんな日向に、運転席から狭山が声をかけてきた。
「んー……日向くん。一つ確認したいのだけれど。君が初めて日影くんと戦った時……つまり、日影くんが真っ黒な影だった時だね。あの時は、日影くんと君のパワーは互角だったんだよね?」
「え? あ、ああ、はい。そうですよ。あの時は俺とコイツが真正面から打ち合っても、お互いにビクともしませんでした。完全に力が拮抗してたんだと思います。……まぁ、今じゃそんな頃が嘘みたいに突き放されましたが」
「なるほどなるほど……。教えてくれてありがとう」
「……今の質問に、何の意図が?」
「ちょっと確認したいことがあってね。ただ、まだその考えが証明されたワケではない。一度持ち帰って、ゆっくり精査してから、改めて話すよ」
「うーん……これはアレか。『いえ、確証の無いことは言いたくありません』ってヤツか。くそう、気になる……」
それからまたしばらく車を走らせていると、前方に巨大なダムが見えてきた。そびえ立つ砦のような威容だ。それを見て、狭山が口を開く。
「あれは冷泉ダムだね。ご覧の通り、正面から見れば迫力満点。上から景色を見下ろせば大自然あふれる素晴らしい光景を見ることができる。ダム愛好家たちもよくやってくる、隠れた観光スポット……なのだけど、さすがにこの悪天候じゃあ人はいないみたいだね」
「この嵐でダムが決壊したりしませんかね……」
「これくらいならまだまだ大丈夫だと思うけど、油断はならないね。自然の力というのは、ここまで技術力を高めた人類でも御し難いものだ。……ところで、冷泉ダムの様式は重力式コンクリートダムと言ってね。その名の通り、ダムの自重と重力を利用して水圧を支える型式だ。ダムとしては、恐らくもっともスタンダードな形だろう。ちなみに、日本で初めて造られた重力式コンクリートダムは、1900年の明治時代に建造された、兵庫県の布引五本松ダムだよ。……けれど、ダム自体の歴史はものすごく古くて、なんと紀元前2750年のエジプトにまで遡ると言われていて……」
「なんか歴史の授業が始まっちゃったねー」
「サヤマは物知りだから、こうやって一緒に出掛けると、まるでガイドさんみたいになるよね」
「オレも記憶力だけは自信があるが、コイツには負けるわ」
「この人が実はダム愛好家でしたってオチなのかな、これは」
狭山がうんちくを語る間に車はダムを越え、その先の道を進む。
「さて、もうしばらくしたら目的地だ。みんな、雨具の準備をしておいてね。この天気の中の山登りだ、間違いなく疲れるよ」
狭山の言葉を受け、五人は外に出る準備を始める。
その途中で……。
「……えーと、本堂さん」
北園が本堂に声をかけた。
その声色は、どこか気まずそうな様子である。
「どうした?」
「あの……伝えたいことがあるんです」
「告白か?」
「ちーがーいーまーすー!」
「だろうな。……どうした、日向? それと日影? 身を乗り出したりなんかして」
「あー、えーと、いえ、何でもないです、ハイ」
「あー、オレも、何でもないぜ、うん」
「そうか。そういうことにしておこう。……で、北園。伝えたいこととは?」
「えーと、その……」
「…………。」
「……すみません、やっぱり何でもないです」
「む。そうか。……言いたくなったら、いつでも言うといい」
「……はい。すみません……」
結局、北園は何も伝えることなく、話は終わってしまった。
北園は、どこか悲しそうな表情をしている。
そんな北園を、日向はチラリと見やる。
(珍しいな。北園さんがこんな風になるなんて…………いや、この様子、どこかで見た気がする……。これは確か……松葉班が壊滅した時の……)
日向が思考している間に、車が左カーブに差し掛かる。
カーブの端には白いガードレールが敷かれ、その先は断崖絶壁だ。
運転手を務める狭山は、カーブに侵入するため、車のスピードを落とそうとする。
瞬間。
ドゴン、と何かが爆発したかのような音が鳴り響き。
六人が乗る通信車が宙に浮いた。
「……へ?」
日向の、間の抜けた声が車内にこだまする。
あまりに突然の出来事に、この短い時間が随分とゆっくりに感じる。
通信車は、何かの衝撃を受けて真っ直ぐ吹っ飛ばされたようだ。
車体が後ろから浮き上がり、空中で前転するように飛んでいる。
(……待って。この軌道は……ガードレールを飛び越えるんじゃ……!?)
前方はキツめの左カーブ。つまり六人を乗せる車の真正面にはガードレールが敷かれていた。そして、その先は前述の通り、地獄のような断崖絶壁。
(百歩譲って、俺だけなら”再生の炎”で助かる。けど、他の皆は……!)
……だが、日向に一体何ができようか。吹っ飛ぶ車を止める術など、日向は当然、持ち合わせていない。
それに、時間も絶望的に足りない。今は時間がゆっくりに感じているだけであり、もう三秒もしないうちに車はガードレールを飛び越えるだろう。
万事休す。
日向にできることはもはや、ただ祈るだけだった。