第179話 生き残った者たち
「日影―っ!」
日向の声が、森の中に響き渡る。
森からは灰色の霧が消え、夕日が木々の間から差し込んでいた。
日影は、苔むした石造りの建物の前にいた。
腐葉土の上で胡坐をかいて、呆然と座り込んでいる。
日影を探していた日向は、彼を見つけると、その傍まで歩み寄ってきた。
「こんなところにいたのか。探したぞ。霧が晴れたみたいだけど、キキはお前が倒したのか……?」
「……いや、逃げられた」
ひどく悔しそうな声色で、日影は日向の質問に返答した。
「そ、そうか……。ところでお前、松葉さんとは会わなかったか? こっちは結局最後まで見つけられなかった。霧も晴れて自衛隊に連絡したんだけど、相変わらず松葉さんとは通信が繋がらない」
その質問に、日影は、日向に顔を向けず、答えた。
「……見つけたぞ」
「え、本当か!?」
「…………ああ。すでに手遅れだった」
「……嘘だろ?」
日影の言葉を受けた日向は、彼と同じように、呆然と立ち尽くすしかなかった。
◆ ◆ ◆
日も沈みかけてきたころになって、日向たちは無事に山のふもとへと帰還した。今は自衛隊が山を捜索し、焼き払われた松葉班の隊員たちを連れ帰っているところだ。
松葉班の生き残りは、雨宮だけだった。ふもとまで戻ると北園の治癒能力を受け、今は魂が抜けてしまったかのように座り込んでいる。無理もない。自分以外の先輩たちが、全員帰らぬ人となってしまったのだから。
そして、雨宮の怪我を回復させた北園もまた、ひどく消沈していた。見えない何かに怯えているかのような、強張った顔を見せている。
日向が声をかけても、北園は「大丈夫だよ……」としか返してくれない。
明らかに大丈夫な様子ではないのだが、日向もまた、誰かを元気づけるような気力は残っていなかった。
日影はというと、黙ったまま近くのワゴン車に寄りかかり、ジッとしていた。その表情は険しく、必死に悔しさを噛み殺しているような様子だった。
なにせ、あと一歩のところでキキを逃がしてしまったのだ。ああなるのも仕方ない。そして、とても声を掛けられるような状態でもなかった。
「はぁ……」
木陰に座り、日向はため息を一つ吐いた。
胸の中のモヤモヤを吐き出してしまうかのように。
しかし、胸のモヤモヤは未だ消えずに残ったままだ。
気分が沈むと、あの「痛みの幻覚」が頻繁に襲ってくる。
キキから受けた銃弾の痛み、首筋を食いちぎられた痛みが鮮明によみがえってくる。
「っ……!」
とうの昔に治っている傷の幻に、日向は顔をしかめて耐える。
そんなタイミングで、狭山がやってきた。
「日向くん、どうしたんだい? どこか痛む場所が?」
「あ……狭山さん……。いえ、なんでもないんです」
「そうか……。そういうことにしておこう。とにかく改めて、お疲れ様だったね、日向くん」
いつものように穏やかな微笑みを浮かべながら、日向をねぎらってくれる狭山。
しかし、そんな狭山の微笑みも、今日はどこか疲れている。
色々な後始末をこなしてきて、これから先のことも考えなければならないからだろう。
「星の巫女の側近であるキキとの対峙、本当にお疲れ様だった。彼には逃げられてしまった、とのことだったが、彼の能力や戦法、そして『二重牙』という新しい要素など、君たちが持ち帰ってくれた情報は値千金と呼ぶに相応しい重要度だ。よく頑張ってくれたね」
彼も疲れているだろうに、優しく賞賛してくれる狭山。
しかし日向は、どこか納得していない様子だった。
それは狭山にではなく、日向自身に対して。
「……狭山さん。一つ聞かせてください」
「うん? 何だい?」
「今回の任務、松葉さんたちを助けられなかったのは、千歩譲って仕方なかったとします。俺たちが来たころにはすでにやられていたワケですし。鳥羽さんについても、俺ではどうにもできなかった。……けど、問題はその後です」
そう言って日向は、気まずそうな表情で、しかし真っ直ぐ狭山を見つめ直した。
「俺は……俺だって、鳥羽さんたちの遺体を、ここまで連れて帰ってあげたかった。せめてちゃんとした場所で、ちゃんとした形で弔ってあげたかった。……でも、あのままではキキに喰らわれて、回復されてしまう。だから俺は、あの場所で彼らを火葬する選択をしました」
「……うん。日影くんからもそう聞いたよ」
「自分で言うのも何ですけど……俺は……あの選択が正解だとは思えないんです。もっと他の人なら……それこそ狭山さんなら、別の良い案が浮かんだんじゃないですか? 彼らの遺体をここまで連れて帰って、なおかつキキを倒せるような案が。それを聞かせてほしいんです」
「……良いのかい? その時の君自身の選択を後悔することになるかもしれないよ?」
「……はい。それでも俺は、正解が知りたいです」
日向の返事を聞き、狭山はしばらく考え込んだ後、口を開いた。
「……自分なら、すぐにその場で信号弾を使ったかな。ここで待機していた自衛隊を突入させ、合流。事情を説明し、ローラー作戦でキキの回復ポイントとなる死体を探し、さらに松葉班隊員たちの死体を確保する。一塊になって動けば、自衛隊員たちでもキキの不意打ちに対処できるだろうし、見張りを立てておけばキキも死体に手を出しづらくなるだろう」
「……万が一ですけど、キキを仕留めきれず、全員が霧の山の中に閉じ込められたら、どうします?」
「その場合は自衛隊のヘリを使う」
「あ……そうか、ヘリがあったか……!」
キキが生み出した霧の『道に迷わせる能力』は、恐らく日向たちの方向感覚を狂わせることで、同じ場所を往ったり来たりさせていたのだろう。
日向自身はそのような感覚を受けた覚えはないが、こういった能力は大抵の場合、こっそりと相手の方向感覚をいじってくるものだ。事実、外から見たこの山は、地形が変わっていた様子も、空間が湾曲して拡張していた様子もなかったという。
しかし、いくら方向感覚を狂わせても「周りの景色が明らかに違う」のであれば、相手は自分の現在位置を把握してしまう。つまり、この能力は「周りの景色がどこも同じような感じ」ならば絶大な威力を発揮するのだ。それこそ、今日の森の中のような場所ならば。
だが、ヘリを使えば。
ヘリならば、空を飛ぶことで脱出できる。
いくらなんでも「上に飛んで道に迷う」などということは有り得ないだろう。
つまり自衛隊のヘリを使えば、あの霧の山から脱出できた可能性があったのだ。松葉班の遺体だって、ヘリを使えば比較的容易に回収できる。
もっと早くこの可能性に気付いていれば。
鳥羽や雨宮だけでも先に帰還させていれば。
このような結末にはならなかったかもしれない。
「やっぱり……ちゃんと正解はあったんですね」
「けど、結局のところ、ほとんどは推察だよ。自分は君のように、実際に戦ってはいないのだからね。机上の空論でしかない」
「それでも、きっと俺よりはマシな結果になっていたと思います。……キキの能力を見破って、それだけでちょっといい気になって、調子に乗って頑張った結果がこのザマ。やっぱり俺はどうしようもない、駄目な奴です」
「そんなことはないよ。君はまだ二十歳にもなっていない若者の身でありながら、本当によく頑張ってくれていると思っている。……それに、君の行動にも、評価すべき点はある」
「え?」
キョトンとする日向に、狭山は説明を続ける。
「自分の策なら、確かに松葉班をちゃんとした状態でここまで連れ戻り、そしてキキと戦うための場づくりも整えられる。しかし、いくらローラー作戦で不意打ちにある程度備えることができるとはいえ、自衛隊の人たちはキキに襲われ、果たして無事でいられただろうか」
自衛隊ももちろん戦闘のプロの集団であるが、それでも対マモノとの戦闘においては松葉班が抜きんでていた。
その松葉班を壊滅させたキキが潜む山に、自衛隊を突入させる。
きっと、自衛隊員たちもただでは済まないだろう。
何人かはキキの不意打ちを受け、命を奪われていたかもしれない。
しかし今回の日向の行動ならば、自衛隊員たちを山に突入させずに済むため、結果として彼らの命は守られた。
狭山の策に比べて、人員が極めて少ない分、キキに勝てるかは半分賭けのようなものだったが、結果的に日影がキキを撃退できたため、まぁ無問題だろう。
「そして何より、その決断力が素晴らしい。あれほどの決定と行動を即座に下せる決断力……まさに軍人顔負けだ。キキを倒すのに必要な要点も全て押さえている。君の行動も、十分に一つの正解だったんだよ」
「そんなことはないはずです。もっと何かあったはず……」
「日向くん……」
きっと日向は、松葉たちをちゃんとした状態で連れて帰ってあげられなかったことに、罪の意識を抱いているのだろう。彼らの遺族には、黒焦げのボロボロになった遺体を引き渡すことになる。
彼らの命を奪ったのはキキだが、やむを得ずとはいえ、燃やしたのは日向だ。きっとそのことについて、遺族や、松葉班の皆は、自分を恨んでいるのではないか。雨宮隊員にだって、きっと悪く思われているに違いない。そんな考えが、日向の心を蝕んでいた。
「……これはあくまで、自分の想像だけどね」
と、狭山が穏やかな口調で言葉を発した。
「松葉さんたちなら……『たとえ私たちの遺体を燃やしてでも、キキを倒してくれ。そしてこの森から無事に帰還し、雨宮を連れて帰ってくれ』と、そう言ったと思うんだ」
「…………。」
日向は、松葉たちの顔を思い浮かべる。日米合同演習の時に会ったのが最後だったが、それでも彼らの人となりは伝わった。その上で想像したが、彼らなら間違いなく狭山が言った通りの台詞を吐いただろう。
「そしてまた、彼らは自分たちのせいで、未来ある若者がクヨクヨしているのを望まないと思う。だから日向くん。彼らの死を想うなら、彼らのためにも元気を出してほしい」
「…………分かりました。頑張ってみます」
狭山の言葉に、日向は頷いた。
ニコリともしなかったが、今はこの無念を噛み潰そうと、そんな表情を窺うことができた。
「よぅし、その意気だ! ささ、今日はもう疲れただろう? 車の中で横になっているといい。後は自衛隊の皆さんに任せて、自分たちは帰っちゃおう」
「軽い……。狭山さんはもう少し沈んでください……」
「そうも言っていられないのさ。ここから仕事が山積みだからね。ここで足を止めてしまえば、ほかならぬ松葉さんたちに申し訳が立たないというものさ」
「……やっぱり、狭山さんは強いです」
そう言うと日向は、乗ってきたワゴン車に乗り込み、ドアを閉めた。
その様子を狭山は、穏やかな表情で見守っていた。
「……お疲れ様、日向くん。ゆっくり休んでくれ」
日向が車に乗ったことを確認すると、狭山は途端に、表情を真剣なものに切り替え、思考を始めた。
松葉班が壊滅した今、彼らに代わる日本のマモノ討伐チームのエースを決めなければならない。しかし、一体どこのどのチームが適任なのか。
改めて思い返してみれば、松葉班は本当に強かった。
マモノとの戦闘において、彼らに敵うチームは無かった。
だから、彼らを失ったのは、本当に大きな痛手だった。
「ついこの間、『不確定要素は楽しむもの』なんてことを言った気がするけど、こういうのはちょっとキツイよねぇ……。さて、ここから忙しくなるな……」
日が沈みゆく空を見上げながら、狭山は独り、呟いた。