第1293話 日常の記憶
日向の視界を覆い尽くしていた灰色の光が治まる。
また別の光景が映し出されているようだ。
次に映し出された光景は、日向も非常によく知っている場所だった。
「あ、マモノ対策室だ……」
日向の言う通り、ここはマモノ対策室。
母校の十字高校と並ぶ、日向の青春の場所と言っても過言ではない。
木目の床のリビング、青々とした芝生が見える引き違い窓、狭山と倉間とそれから的井の三人と食卓を囲んだこともあるテーブル、全てが懐かしい。
(まぁ、懐かしいとは言っても、この前ジ・アビスの夢の中で見たばっかりだけどさ。ところで、テーブルに狭山さんと北園さんがいるな)
日向の言う通り、テーブルには狭山と北園の姿があった。北園がテーブルに座っており、狭山がその隣で立っている。どうやら狭山が北園に勉強を教えている最中のようだ。
この時の北園は、夢にも思うまい。
まさかこの隣にいる男が、自分の遠い祖先の親類などとは。
狭山は相変わらず、非常に要領よく北園に勉強を教えている。北園はふわふわした性格だが、あれでいて呑み込みが早い。狭山から教えられたことをあっという間に吸収していく。
「もうこの公式もマスターしちゃったのかい? 優秀だね北園さんは」
「えへへー、ほめられた」
「キリも良いし、いったん休憩にしよう。北園さんはきっと頑張ると思って、ご褒美にケーキを買っておいたんだ。食べるかい?」
「ケーキ! 食べたいです! ぜひ!」
「よしよし、いま取り出すからね。東京の少し有名なお店で買ってきた、良いケーキだよ」
「わー! 楽しみー! あ、せっかくだから私、飲み物淹れますよ! 狭山さんは何が良いですか?」
「うーん、自分は今朝作っておいた狭山スペシャルにしようかな」
「やめてください!」
「ごめんごめん、冗談だよ。それじゃあコーヒーをお願いするよ。的井さんがコーヒーメーカーで作っておいたのがあると思うから、よろしくね」
「りょーかいです!」
二人はさっそく、それぞれケーキとコーヒーの準備に取り掛かる。狭山は冷蔵庫に入れてあったケーキを取り出し、テーブルに並べた。ちゃっかり狭山自身のケーキも買ってあるようだ。
北園は台所のコーヒーメーカーで、狭山と自分のコーヒーを用意。狭山のコーヒーはブラック、北園のコーヒーは砂糖とミルク入りである。
狭山はすでにケーキの準備を完了。
テーブルの側に立ち、北園を待っている。
それからすぐに、北園もコーヒーの用意を終えてテーブルまでやって来た。コーヒーカップをお皿に乗せる、お上品なスタイルである。
「おまたせしまし……わっ!?」
北園が床でつまづいた。前に向かってつんのめり、その勢いでコーヒーカップが二つ、宙を舞う。
宙を舞った二つのコーヒーのうち、一つは狭山の顔面にぶっかかる。
もう一つは、テーブルの上のケーキの一つに着弾した。
「ぶ……。熱つつつ……」
「わぁー!? ご、ごめんなさい狭山さん!? ごめんなさいっ! え、ええと、すぐにコーヒー拭きますね!」
そう言って北園は、まずは床にこぼれたコーヒーを拭き取るために雑巾を用意。そして、その雑巾で、コーヒーをかけてしまった狭山の顔面を拭き始めた。
「本当にごめんなさい狭山さん……」
「あのー、北園さん。お気遣いは嬉しいのだけれど、それ雑巾……」
「え? あ……あー!? ご、ごめんなさい! 床を拭くつもりが、気が動転してっ!」
北園は謝りながら、狭山の顔面を拭いた雑巾で床のコーヒーを拭き取る。雑巾がコーヒーを十分に吸い取ったら、それをいったん台所へ投げ込み、タオルを用意。これで今度こそ狭山の顔面を拭くつもりだ。
狭山に申し訳ないと思っているのだろう。北園は家の中だというのに全力疾走。タオルを持って、急いで狭山のもとへ駆けつけようとする。
……が、先ほど雑巾で拭いた床がまだ少し濡れており、そこを走ろうとした北園が前に向かって滑った。
「わっ……!?」
北園の身体が勢いよく宙に浮いた。
これはもう駄目だ。上半身から床に落下するパターンである。
しかし、その前に狭山が北園を受け止めてくれた。滑った北園の真下に先回りし、狭山自身がマットになるように。
「おっと……! 大丈夫かい、北園さん?」
「さ、狭山さん……。私、本当に、何から何まで……」
「落ち着いて。大丈夫。自分は大丈夫だよ。だから焦らず、一緒にゆっくり片付けよう。焦りは人の視界を狭め、足元をすくう……と自分の知り合いも言っていた」
「りょーかいです……」
それから二人は一緒に、こぼれたコーヒーを片付け始めた。今度は北園も、もう何のミスも犯しはしなかった。
記憶の傍観者である日向は、当然ながら何の手伝いもできない。危うい北園の様子をハラハラしながら見守っていたが、ひとまず状況は落ち着いたようだ。
(北園さん、普段は家事は得意なはずだけど……。まぁ、北園さんもたまにはこういうミスもするってことかな)
無事にコーヒーを片付けた狭山と北園は、改めてケーキを食べることにする。二つのケーキのうち、一つはコーヒーを頭からかぶってしまった。そのコーヒーケーキは狭山が食する。
「うん、面白い味がする。これはこれで好きかもしれないな自分は」
恐らく嘘は言っていないであろう穏やかな表情で、狭山はそう述べた。
しかし、北園は完全に消沈していた。
せっかくのケーキも、まだ一口も食べずにしょんぼりとしている。
「北園さん、ケーキが悪くなっちゃうよ」
「でも……私、狭山さんに悪いことしちゃいました……。怒ってますよね、狭山さん」
現在の北園の様子を見て、日向は思う。これは恐らく、日向と一緒になる前の北園だ。暗い過去をひた隠しにしてきた北園。誰かから愛されることを強く望み、誰かから嫌われることをひどく恐れていた時の北園である。
(さ、狭山さん、許してあげてぇぇ!)
声は届かないと分かっていても、日向は目の前の狭山に頼み込まずにはいられなかった。
そして、怒ってるかどうかと問われた狭山は、北園に対して返答する。
「いや全然。誰でも調子が悪い時くらいあるさ」
「で、でも! コーヒーをお顔にかけちゃったんですよ!? ちょっとくらい怒ってるはずじゃ……」
「ちょうど、浴びるようにコーヒーを飲みたいと思ってたんだ。美味しかったよ」
「それに、雑巾で顔を拭いちゃったし!」
「北園さんが自分を真っ先に気遣ってくれたのが分かって、嬉しかったよ」
「ケーキまで、無事な方を譲ってもらっちゃって……」
「おかげで自分は新しい味に出会えたよ。そうだ、今度は的井さんにもご馳走してみよう。意外と気に入るかも」
「……ふ、ふふっ……。もう、狭山さんってば、私が何言っても面白い返ししてくる」
北園は、たまらず吹き出した。
それを見て、狭山は満足げにうなずいた。
「うん。やっぱり君は明るい表情の方がよく似合う」
「狭山さんは、どうしてそんなに優しいんですか? 狭山さんみたいに優しい人、私は一人しか知らないです」
「よく聞かれるけど、ただの性分だよ。自慢っぽく聞こえるかもだけど、もともとこういう性格なんだ。……ああ、ただ……」
「ただ?」
「ただ、古い知り合いに……お世話になった人に、言われたことがある。自分のこの性格は美徳だと。どんな時でも大切にしてほしいと。それは、自分が尊敬していた父にも無い、自分の最大の長所だと。だから、どんな時でもそれを崩さないようにしているのかもね」
「なるほどー……。良いお話ですね!」
「そう言ってくれると嬉しいよ。ささ、それじゃあゆっくり、ケーキをお食べ」
「はい! いただきます!」
「……あ、すまない、最後に一つだけ質問を。先ほど君が言った『狭山さんみたいに優しいもう一人』というのは?」
「えへへー、秘密です!」
「なるほど。なんとなく分かったよ。とりあえず、ごちそうさまを言わせてもらおうかな」
まだ残っているケーキを引き続き食べながら、狭山は北園にそう告げた。
すると、また日向の視界が灰色の光に包まれる。
場面転換の時間のようだ。
(まだ続くのか! 長いな! さすがに次で終わりだろう……)
次の光景は、雨が降る、どこかのオフィス街の路地裏のような場所だった。