第1219話 解放された海
海のマモノたちの協力もあって、ついに日向たちはジ・アビスの討伐に成功した。
ジ・アビスが倒されたのと同時に、この場にいる全員が、自分たちの身体を押さえつけていたような感覚が消滅したのを感じた。ジ・アビスの上昇不可能力が解除されたからだろう。
何体かの魚のマモノたちが、試しに上に向かって泳いでみる。
特に何の問題もなく上方向へと泳ぐことができた。
『上昇できる……。アタシら、また自由に泳ぐことができるようになったさね……!』
ファグリッテのそのつぶやきで、マモノたちは自分たちの勝利を徐々に実感し始める。
もう何にも制限されることなく、自由に泳げる。
本来ならそれは当たり前のことだが、今はひどく懐かしく感じる。
この海は、ようやく自由を取り戻したのだ。
「ウオオォォォォン……!!」
ネプチューンが勝利の雄たけびを上げた。他の魚介類のマモノたちは声帯を持つ個体が少ないためか、ほとんどは鳴き声を上げたりはしない。しかしそれぞれ舞うように泳いだり、喜びを爆発させたかのように猛スピードで泳いだりと、各々の方法で勝利を祝っていた。
日向も背泳ぎの体勢になり、全身の力を抜いてリラックスする。戦いが終わったのを実感した瞬間、忘れていた疲れがどっと噴き出てきたようだ。
「はー……長い一日だった」
つぶやいて、日向は仲間たちの様子を見てみる。
北園はダメージを受けた魚のマモノたちの回復を行なっているようだ。”怨気”による攻撃を受けた個体も多いため、残念ながら回復はあまり上手くいっていない様子だ。しかし日向が見る限り、命に係わるほどのダメージを受けたマモノはいないようだ。
本堂と日影はその場で静かに佇み、勝利の余韻に浸っている様子だ。彼ららしい喜びの現し方だと言えるかもしれない。そんな二人とは対照的に、シャオランは両腕を振り上げて喜びまくっていた。
そしてエヴァは、ジ・アビスが保有していた『星の力』を回収しているようだ。ジ・アビスが沈んでいった海底から蒼色のオーラが煙のように上がってきて、それがエヴァに吸い込まれている。
「これで『星の力』の総量の三割近くを取り戻すことができたでしょうか。もうラティカの助力を借りずとも、私一人で皆さんをこの深海に適応させることも可能です」
「ジ・アビスと戦う前にそれだけの能力があれば、もうちょっと楽できたかもしれない……なんて言うのは野暮だよな」
「ですね。それに、圧倒的な力で敵を捻じ伏せ、こちらの被害を最小限に抑える勝利は理想的ですが、こうして皆で力を合わせ、強敵を打ち破り、勝利の喜びを分かち合うというのも良いものだと思うのです」
「お、珍しく良いこと言うじゃん」
「珍しくとは何ですか。不服を申し立てます」
日向とエヴァがやり取りを交わしていると、戦艦エクスキャリバーの方からポメラニアンのポメが泳いでやって来た。エヴァがポメを抱き止め、彼を迎える。
「ポメ、あなたもお疲れさまでした」
『僕、少しは役に立てたかな? みんなと一緒について来て良かった?』
エヴァの通訳によると、ポメがそう尋ねてきたようだ。
その問いに、日向がうなずいて答える。
「ああ。お前がいてくれたからこそ、エクスキャリバーの電力を回復できたと俺は思う」
『でも最悪、本堂とかでも電力回復はできたんじゃ?』
「本堂さんは強いから、たぶんジ・アビスも本堂さんの動きはガッツリ警戒していたと思う。そんな本堂さんがエクスキャリバーに近づけば、絶対にエクスキャリバーの主砲を利用するって読まれてた。だから本堂さんにはあえてジ・アビスと直接戦ってもらって、ジ・アビスの注意があまり向いていないお前をエクスキャリバーに向かわせたんだ」
『そっか……。僕はキミたちと比べると全然弱いけれど、それでも役に立てたんだね』
「いいやポメ、お前が弱いっていうのは違うと思うぞ」
『え?』
「弱い、あるいは弱そうに見えるっていうのは、相手の油断を誘える。お前みたいにパッと見ただけじゃ弱そうに見えるのに、実際はすごいパワーを秘めている奴っていうのも多い。だから『弱い』っていうのは『強さの一種』なんじゃないかなって俺は思う」
『弱いは、強いかぁ……。考えたこともなかったなぁ。マモノになった今はともかく、犬の世界じゃそんなの有り得なかったから』
「俺も皆と比べたら雑魚もいいところだからさ、前はよくそうやって相手を油断させてたよ。最近は誰も、ちっとも俺に対して油断してくれないけどな。なんでだ」
「あなた、放っておくとすぐに奇襲したり騙し討ちしたりして、勝利をかっさらうセコい人ですからね」
「言い方ぁ! そこはシンプルに『あなたが以前より強くなったからです』って言ってくれないかなエヴァ!」
さて、勝利の喜びに湧き立つのもほどほどにして、日向たちはこの海底からの期間の準備を始める。ジ・アビスは倒したが、まだあと三体の『星殺し』が残っている。そして日向の存在のタイムリミットは今日を含めて残り19日しかない。ゆっくりしてはいられない。
「とは言っても、今から海面まで浮上するのかぁ……。ここ深海八千メートルだぞ、どんだけかかることやら……」
げんなりした様子でつぶやく日向。
……と、そこへ島のマモノのアイランドが声をかけてきた。
『みなさーん! 私の上に乗っていいですよ! 私も海面に浮上しますから、皆さんは私の上で横になっているだけで地上に戻れますよー!』
「おお、これはまさに渡りに船。頼むよアイランド」
日向がアイランドにそう返事をする。
すると、そこへ本堂も横からアイランドに声をかけた。
「アイランド。できるだけ時間をかけて、ゆっくり浮上してくれ。あまり急速に浮上すると、高圧環境下で血液や組織中に溶けていた窒素が、減圧に伴って気泡を作る状態となる。俗に言う潜水病や減圧症と呼ばれる症状だ。急速浮上は命に係わる。この深さなら一日かけて浮上するくらいで丁度良い」
『わ、わかりましたぁ! 細心の注意を払って浮上させていただきます!』
日向のタイムリミットの猶予は無いが、それで焦ってアイランドに急速浮上してもらい、本堂の言う通りに皆そろって潜水病になってしまったら元も子もない。日向も本堂の言うことに口は出さなかった。
日向たちと一部のマモノたちがアイランドの背中の上に乗り、ジ・アビス討伐隊は浮上を始める。ここはもともと、あらゆる生物を寄せ付けない極限環境。ここに残るマモノは誰もいない。
アイランドの浜辺にて、日向たちは集まっている。
特に会話は交わさず、それぞれゆっくりとくつろいでいる。
その時、日向たちを追いかけるように、海底から灰色の光の球が浮上してきた。アイランドを追い抜き、日向たちの目の前までやって来る。
「そういや、これがあったな。狭山の記憶か」
「これで四つ目だよね。今度は何が見れるのかな」
「サヤマを倒すか、あるいは止めることができる手掛かりとか見れたらいいよね」
日影、北園、シャオランがそれぞれつぶやく。
そして灰色の光の球は弾け、日向たちの視界を塗り潰した。