第1206話 闇は昏く、海は深く、灯は儚く
ジ・アビスの声を受けて、日向たちは大西洋の最深部を目指す。
幻聴によってそれぞれの心の闇、心の隙間を突かれた日向たちは、六人そろってジ・アビスのもとへ向かってこそいるが、その目的はそれぞれバラバラのようであった。
希望の無い未来から自分を救ってくれる方法を知るため。
過去を取り戻す方法を知るため。
この戦いの意味、最後の目的地とやらを知るため。
頑張った自分に用意してくれたという特別な席に赴くため。
狭山が考案したという『希望』を知るため。
亡くしてしまった大切な存在たちに会いに行くため。
一切の会話も無く、もはや日向たち六人は、そろって最深部を目指しているものの、その隣には誰もいないかのように、それぞれがただ一人で泳いでいるようだった。
そして、ついに到達する。
深海八千メートル地点。この海で最も深い場所。
全身の圧迫感が酷い。
指先一つに至るまで水圧で押し潰されている。
特に、肺は締め付けられすぎて爆発しそうだ。
これほどの深さとなると、もう今のエヴァの能力では日向たちを完全に適応させることは不可能だ。そもそも地上の生物は絶対にたどり着くことなどできない場所である。そんな場所に、こんな状態でも生身の人間六人を到達させたというだけでも恐るべき偉業だと言えるだろう。
偉業ではあるが、やはりこのままではまともにジ・アビスと相対することなどできない。今の日向たちはレッドラムはおろか、普通のサメに襲われるだけでも危険なコンディションである。
いや、そもそも今の日向たちはジ・アビスと相対することさえロクに考えていない。彼らがここを目指したのはジ・アビスの声に導かれ、それぞれの『希望』を受け取るためだ。
まだジ・アビスの姿は見えない。
日向たちはそれぞれの灯りを手に漆黒の深海を泳ぐ。
この海の昏さと比べると、日向たちが持つ灯はあまりにも小さく、そして儚い。闇の空間にひと固まりの光と言えば、夜空に浮かぶ星を思い浮かべそうだが、夜空の星の輝きの力強さとは比べるべくもないほどに日向たちの光は弱々しい。
まだここは終点ではないのか。
そう思うくらいに、目の前に広がる闇は果てしなく深い。
だがしかし。
突如として、『彼女』は姿を現した。
闇の中、透き通るような深い青色の人影が浮かび上がる。非常に巨大で、ちょっとした高級マンションくらいはあるだろうか。あまりにも大きいため日向たちとの距離感が狂いそうである。
ドレスで身を包み込んだような出で立ちであり、袖の部分や足元は金魚の出目金のヒレを思わせるようなフリフリになっている。
頭部はクラゲを思わせるような傘状になっており、目元が隠れている。その傘状の頭部の淵には、巨大な彼女よりもさらに長大で太い触手が生え揃っている。その触手の形状はクラゲというよりイカのものに近い。
そんな巨大な、深い青色の人影が、日向たちを出迎えるように仰向けの体勢で姿を現した。海を潜り進んでいた日向たちの前にちょうど立ちはだかるような形である。
「お前が、ジ・アビス……」
日向がつぶやく。
間違いない。この女性の巨人こそがジ・アビスの本体だ。
「cooooonn...cooooonn...」
日向の声に応えてか、ジ・アビスが鳴き声を発した。
潜水艦のソナー音のような声だった。
無機質で、この深海の中に響き渡るような。
ついにジ・アビス本体のもとにたどり着いた日向たちだったが、誰一人として戦闘態勢を取らない。まるで救いを求める信者のように、皆が何かを待つようにしてジ・アビスを見つめている。
そんな彼らを見てか、ジ・アビスも動き出す。
少し大きめに息を吸い込むような動作の後、大きな声を発した。
「naaaaaaaaaaa...!!!」
音波が水の波動となって日向たちを突き抜ける。
その音波を受けた瞬間、日向たちは急激に睡魔に襲われた。
「うっ……!? なんだこれ、眠くなって……」
「ね、ねむ……すぅ……」
「アーリアの民の”催眠能力”の超能力か……。駄目だ、抗えん……」
「ふぁ……」
日向たちは何の抵抗もできず、そのまま深海の闇の中で眠りに落ちてしまった。こうなると心配されるのは、日向たち六人をこの深海に適応させている能力”オトヒメの加護”の維持。
エヴァの”オトヒメの加護”は、こういう名称ではあるものの、実際は日向たちではなく、日向たちを取り囲む海水に働きかけている能力である。熱や重力や空気を操作し、深海の低い水温を温め、日向たちが潰されない程度に水圧を弱め、水の中に溶けている酸素を能力によって日向たちに供給させる。
エヴァが意識を失って能力が解除されても、しばらくはこの改造された性質も海水に残り続ける。よって日向たちが今すぐ深海の水圧に押し潰されることはない。
だが、それもわずか一分か二分程度のもの。この制限時間までに、少なくともエヴァだけでも目覚めてくれなければ、日向たちは一瞬でこの深海の藻屑と成り果ててしまう。
いや、そもそも日向たちは今、ジ・アビスという恐るべき存在の前で眠りに落ちているという、非常に無防備な状態だ。一分もの時間があれば、その間にこの怪物は六人を皆殺しにしてしまうだろう。
しかしジ・アビスは、眠る日向たちに手を出さず、ただ眠っている彼らを眺めているだけだった。それは勝ち誇りの余裕なのか、それとも手が出せない理由があるのかは分からない。
「cooooonn...cooooonn...」
眠る日向たちの前で、ジ・アビスは再びソナー音のような声を発する。
まるで、彼らに子守唄でも聞かせるかのように。
(眠りなさい、羽虫のようにか弱い人間たち)
(人間と羽虫には一つの共通点があります。深く、暗い闇の中では、ごくわずかな灯であっても、それに向かって一直線に飛んでくるというところです)
(闇の昏さと静けさは、生きとし生けるものたちが安らかに眠るのに必要なもの)
(私があなたたちに『安息』という名の希望を授けましょう。どうかこの闇を拒まず、受け入れてください)